みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

最近、youtubeで「天城越え」ばかり探して

2009-10-31 09:41:01 | Weblog
いろんなバージョンを聴いているのだけど(笑)、実にいろんなバージョンがあることに驚く。
この曲が名曲かどうかは私にもよくわからないけれど(名曲の定義が何かにもよるので)、私は単に石川さゆりの一ファンとしての興味で探して聴いているだけの話なのだが、いろいろと聞きあさっているうちに、ふと大事なことに気づかされた。
私は、かねがねマリア・カラスと美空びばりとジャニス・ジョプリンが最高のディーバだと思ってきて、そんなことを自分の本にも書いてきたし雑誌の記事にも書いてきたりした。もちろん、それ以外にもベットミドラーとかバーブラ・ストレイザンドとか DIVAの名に値する人たちはいるけれども彼女たちに共通しているものは「表現力」だと私は思っている。
カラスの声はけっして美声といえるものではないし時々思いがけず音程がはずれたりすることもある。ジャニスだって、だみ声(というかハスキーというか)で有名なくらいだからけっして美声ではない。美空ひばりが音程をはずすことはあり得ないが(それぐらいピッチ感覚のすごい人だ)、彼女の声が美しいかどうかは異論があるだろう。
でも、この3人に共通してあるのはその表現力の「すごさ」だ。
単純に「かなわない」という思いで一杯になる。
要するに、人間そのものを「本当に表現」しているからだろう。
石川さゆりさんの歌もそれにある意味近いものがある。彼女の欠点は音程が悪いことだが(いつもフラットに歌っている)、逆に、彼女はそれを武器にしているのでは?と思えるフシもある。
「天城越え」や「津軽海峡冬景色」を坂本冬美さんが歌っているバージョンもあるのだが、坂本さんの方がはるかに音程は安定しているし高い音もけっして裏返らずに正確に歌っている。歌のうまさでは坂本冬美さんの方が上なのだろうと思う。でも、歌から来る感動は石川さんの歌の方がはるかに高い。
「天城越え」の面白いバージョンがあったのでそれを見つけたのでそれを見た瞬間、私自身頭を「ガーン」と叩かれたような発見をした。TVの番組で広島交響楽団をバックに「天城越え」を石川さゆりさんが歌っているバージョンがあるのだが、これを見て「そうだったのか」と改めて音楽の感動の意味がほんの少しだけ理解できたような気がした。
オーケストラをバックにした「天城越え」には何の感動もなかった。石川さんの歌にもオーケストラの演奏にも。
普通の歌謡番組だって石川さんや歌手はみんなオケをバックにして歌っている。その意味ではあまり変わることはないはずなのだが、この番組のオーケストラは「オーケストラと演歌の共演」みたいなことを売りにするあまり自己主張をし過ぎていた。その結果、どちらの魅力もそこには表現されていなかった、のだと思う。
歌謡番組のオケは歌手の伴奏に徹している。オケが自己主張することはまったくない。いわば、のど自慢のバックのバンドのようなものだ。でも、この番組ではオケのアレンジもしっかりしているし(とってもうまいアレンジだしオケの鳴らし方も心得ているアレンジだと思った)、もちろん石川さんの歌もしっかりしていた。でも、感動ということばはそこからはまったく生まれてこなかった。
歌とオケが頑張れば頑張るほど「感動」からは遠いところに聴衆は追いやられてしまっているような気がした。

要するに、人が感動するっっていうことは、ものすごく「単純」なことなんだなと思う。
声の美しさやちょっとした表現、ちょっとした技術など、…。でも、その情報量が多ければ多いほど人は感動とは遠いところに行ってしまうのではないのか?
つまり、感動というのはものすごく原始的な感情で、今まで食べたことのないぐらいおいしいものを食べた瞬間に「すごい」と思って感動したり、今まで聴いたことのないきれいな音で楽器を演奏したりする時や、自分が死ぬほどの思いで恋愛をしていた時の感情が歌によって蘇らされた時など、人は単純に心をつき動かされて「感動」するのではないだろうか?
音楽をやっている人間は、どうしても技術で音楽を聴いてしまい、純粋に音楽で感動することがどんどん少なくなっているような気がしてならない。
特に自分の専門の楽器などは、自分よりうまいかどうかとか、「あのテクはどうやるんだろう?」みたいな興味で聴いてしまい、音楽を音楽として純粋に聴かない人がほとんどなのでは?と思えて仕方がない。
声が美声でなかろうが音程がフラットだろうが、音楽は心と心のコミュニケーションなのだから、心の底から感動できるような音楽に本当に出会えることの方が人生にとってはるかに大事なのでは?と思った次第だ。