といっても、別に宗教の話ではない。
単に、人の気持ちというのは身近なところほど理解されないものんだろうかと思ったからだ。
聖書に出てくる話で、生まれ故郷のナザレに帰って説教をしたイエスが「あいつは大工の子だ」と言われ故郷の人々からまったく相手にされなかったエピソードをつい最近の自分の出来事から思い出したのだ。
小学校以来の友人が私に「この老人ホームに話をしてみると良いわよ」と「親切心」からある介護施設を紹介してくれたのだが、結局仕事としては成立しなかった。
例によって、介護施設でやる音楽にお金を払う必要はないという部分で先方とまったく折り合いがつかなかったからだ(「またそこからですか?」という話なのだが)。
私が現在やっている有料の介護施設での音楽サービスは、「有料でなければならない」というところからスタートしているので、通常の介護施設と話をする場合、まずこの部分で交渉は壁にぶちあたる。
先方は「ボランティアで当たり前」と思っているところにこちらが「お金払ってください」と交渉するのだから、そこの最初の壁をどうやったら乗り越えられるかが最初で最大の難関になってくるのも当たり前の話だ。
ただ、この部分だけ見てしまうと私のやろうとしていることは「介護施設相手の商売の一つ」と受けとられかねない。
おそらく、私の知り合いもきっと「取引先を紹介するよ」的な発想で私に紹介してくれたのかもしれない。
それはそれで私に対する親切心からなのだろうが、それだったら、私がなぜ数年前から介護施設を多数経営する大手企業にばかりプレゼンをしているかまで理解した上で声をかけて欲しかった。
ところが、この友人、私のこうした意図をまったく理解してくれてはいなかった(私の最新刊『奇跡のはじまり』を読んでくれていたのだからそんなことぐらい理解できたはずなのに…)。
ある意味、「演奏できる施設が一つ増えれば良いのでしょ」的なノリで私の営業先を一つ紹介したつもりだったようだ(これも親切心なのかナ?)。
これでは、ちょっと具合が悪い。
というか、私の目的そのものが誤解されかねないからだ。
私がなぜ介護関連の大手企業にばかりこだわってきたのか。
それは、一にも二にも「たくさん体験しなければならない」と思ったからだ。
では、なぜたくさん体験しなければならないと思ったのか。
それも単純な理由からだ。
十の施設で体験してわかることと百の施設で体験してわかることでは、単に「量」の違いだけではなく、「質」」が本質的に違ってくると思ったからだ。
十の体験で「見える」ことと百の体験で「見える」ことの違いは大きい。
そう思ったからだ。
いつも、私は知り合いの科学者や医師などから「音楽が医療や介護や人の心に関わる部分でとても重要な役割を果たしていることは<実感>できるんだけど、そのことを科学的に証明できるエビデンスはどこにもないんだよね」と言われ続けてきた。
もちろんそうだと思う。
西洋科学というのは、どんな時も方程式のように論理的に「こうだからこうだ」という理屈を「ことば」や「目に見える形」で証明できなければ何の役にもたたないのだから。
だから、STAP細胞の騒ぎにしても、あれだけエビデンスの信憑性が突っ込まれ続けているのだと思う。
現在の科学は、エビデンスを出さない限り何の価値もないと思われているからだ。
だからこそ、私は、「音楽が人の心や身体にどんな影響を及ぼしてどんな風に役に立つのかをもっと説得力のあることばで語りたい」と思い続けてきたのだ。
それは「音楽療法の範疇でしょう?」という人がいるが、私はそうは思わない。
なぜなら、現在の音楽療法(日本だけでなく世界でも事情はまったく同じダ)は、最初から答えを用意していて、そこに無理矢理、治験者の体験や臨床、論理をこじつけるやり方しかしていないからだ。
これでは、万人を納得させることはできない。
だから、いつも音楽療法は「まやかし(眉唾ものということか)」とか「スピルチュアルであやしげなもの」という印象しかもたれないのだと私は思っている。
ただ、一方で私は「音楽がどういう風に人の身体や心に影響を及ぼしていく」かを科学的に検証して無理にエビデンスを出す必要もないのではと思っている。
それはやれば「可能なこと」なのかもしれないが、それがもし仮に証明されたとして「それが何?」という気が私にはしてならないからだ。
それよりも、施設で『上を向いて歩こう』に涙を流す人の心の満足感だったり癒しだったりの方がなんぼか価値があるのではと思うからだ。
「それじゃあ、全然科学的じゃないじゃないか」と突っ込まれるのは承知の上で、それでも何とか説得力のあることばを(私が)発していくためには「施設で十回演奏しました」より「千回演奏した」上で得られることばの方がはるかに説得力があるだろうという思いから、私は大手介護企業にこだわってプレゼンを続けてきたのだ。
先日伊東市役所でやったコンサートで私が語った「認知症に対する音楽の役割」みたいなことも、世の中では認知症に関することはいつも「それで認知症予防ができるのか?」とか「治療には役立つのか?」というコンテクストで語られることが多いのだが、ある意味、私は「認知症の予防に役立つものなんて本当にあるの?」とも思っているし、ましてや治療薬なんてのも本当に存在するのかなと思っている(進行を遅らせたかに見えるような薬はたしかにあるようだが)。
だから、メディアで「こうすると(これを食べれば、飲めば)認知症予防になります」と語る多くの人に「おいおい、本当にそんなこと言っちゃっていいの?」と心の中でいつも突っ込まずにはいられない。
そんな「不毛なこと(認知症の予防と治療)」に一生懸命になるよりも、「ボケたらボケたで良いじゃない。それよりも、たとえボケても毎日ちょっとでも明るく生活する方法考えた方がよっぽど幸せなんじゃないの」とつい思ってしまう。
「そのためなら音楽はものすごく役立つよ」。
私の考え方の基本はここだ。
「音楽は介護や医療に役に立つんです。でも、それをもっと説得力のあることばで語りたい。それにはもっともっとたくさん現場を体験していかないと…」。
そうした私の考えが理解されないまま、ただ「仕事先が増えれば良いのでしょう」的なお誘いを古い友人から受けた私は、「こんなに長くつきあっていて、これだけ私のことをいろいろ知っているはずなのに、なんでこの人は私の考えを理解してくれないんだろう?」とちょっと寂しさを感じてしまったのだった。
それが故郷で説教をしたイエスが感じた「絶望感」や「寂しさ」と同じかどうかは私にもよくわからないが、案外身近な人ほど「理解」ということばからは遠い存在なのかもしれないなとも思う。
それに、身近な人に対しては「この人はきっとわかっているに違いない」という勝手な思い込みもきっとあるのだろうし、甘えもあるのだろう。
結局、人を納得させていくには、やはり「行動」と「結果」しかないのかもしれない。
私は「たとえ理解者が一人もいなくなって自分だけになってしまっても正しいと思ったことをやりきるゾ」と思うと同時に、やはり、「世の中に理解される道は果てしなく遠いな」と思ったことも確かだ。
単に、人の気持ちというのは身近なところほど理解されないものんだろうかと思ったからだ。
聖書に出てくる話で、生まれ故郷のナザレに帰って説教をしたイエスが「あいつは大工の子だ」と言われ故郷の人々からまったく相手にされなかったエピソードをつい最近の自分の出来事から思い出したのだ。
小学校以来の友人が私に「この老人ホームに話をしてみると良いわよ」と「親切心」からある介護施設を紹介してくれたのだが、結局仕事としては成立しなかった。
例によって、介護施設でやる音楽にお金を払う必要はないという部分で先方とまったく折り合いがつかなかったからだ(「またそこからですか?」という話なのだが)。
私が現在やっている有料の介護施設での音楽サービスは、「有料でなければならない」というところからスタートしているので、通常の介護施設と話をする場合、まずこの部分で交渉は壁にぶちあたる。
先方は「ボランティアで当たり前」と思っているところにこちらが「お金払ってください」と交渉するのだから、そこの最初の壁をどうやったら乗り越えられるかが最初で最大の難関になってくるのも当たり前の話だ。
ただ、この部分だけ見てしまうと私のやろうとしていることは「介護施設相手の商売の一つ」と受けとられかねない。
おそらく、私の知り合いもきっと「取引先を紹介するよ」的な発想で私に紹介してくれたのかもしれない。
それはそれで私に対する親切心からなのだろうが、それだったら、私がなぜ数年前から介護施設を多数経営する大手企業にばかりプレゼンをしているかまで理解した上で声をかけて欲しかった。
ところが、この友人、私のこうした意図をまったく理解してくれてはいなかった(私の最新刊『奇跡のはじまり』を読んでくれていたのだからそんなことぐらい理解できたはずなのに…)。
ある意味、「演奏できる施設が一つ増えれば良いのでしょ」的なノリで私の営業先を一つ紹介したつもりだったようだ(これも親切心なのかナ?)。
これでは、ちょっと具合が悪い。
というか、私の目的そのものが誤解されかねないからだ。
私がなぜ介護関連の大手企業にばかりこだわってきたのか。
それは、一にも二にも「たくさん体験しなければならない」と思ったからだ。
では、なぜたくさん体験しなければならないと思ったのか。
それも単純な理由からだ。
十の施設で体験してわかることと百の施設で体験してわかることでは、単に「量」の違いだけではなく、「質」」が本質的に違ってくると思ったからだ。
十の体験で「見える」ことと百の体験で「見える」ことの違いは大きい。
そう思ったからだ。
いつも、私は知り合いの科学者や医師などから「音楽が医療や介護や人の心に関わる部分でとても重要な役割を果たしていることは<実感>できるんだけど、そのことを科学的に証明できるエビデンスはどこにもないんだよね」と言われ続けてきた。
もちろんそうだと思う。
西洋科学というのは、どんな時も方程式のように論理的に「こうだからこうだ」という理屈を「ことば」や「目に見える形」で証明できなければ何の役にもたたないのだから。
だから、STAP細胞の騒ぎにしても、あれだけエビデンスの信憑性が突っ込まれ続けているのだと思う。
現在の科学は、エビデンスを出さない限り何の価値もないと思われているからだ。
だからこそ、私は、「音楽が人の心や身体にどんな影響を及ぼしてどんな風に役に立つのかをもっと説得力のあることばで語りたい」と思い続けてきたのだ。
それは「音楽療法の範疇でしょう?」という人がいるが、私はそうは思わない。
なぜなら、現在の音楽療法(日本だけでなく世界でも事情はまったく同じダ)は、最初から答えを用意していて、そこに無理矢理、治験者の体験や臨床、論理をこじつけるやり方しかしていないからだ。
これでは、万人を納得させることはできない。
だから、いつも音楽療法は「まやかし(眉唾ものということか)」とか「スピルチュアルであやしげなもの」という印象しかもたれないのだと私は思っている。
ただ、一方で私は「音楽がどういう風に人の身体や心に影響を及ぼしていく」かを科学的に検証して無理にエビデンスを出す必要もないのではと思っている。
それはやれば「可能なこと」なのかもしれないが、それがもし仮に証明されたとして「それが何?」という気が私にはしてならないからだ。
それよりも、施設で『上を向いて歩こう』に涙を流す人の心の満足感だったり癒しだったりの方がなんぼか価値があるのではと思うからだ。
「それじゃあ、全然科学的じゃないじゃないか」と突っ込まれるのは承知の上で、それでも何とか説得力のあることばを(私が)発していくためには「施設で十回演奏しました」より「千回演奏した」上で得られることばの方がはるかに説得力があるだろうという思いから、私は大手介護企業にこだわってプレゼンを続けてきたのだ。
先日伊東市役所でやったコンサートで私が語った「認知症に対する音楽の役割」みたいなことも、世の中では認知症に関することはいつも「それで認知症予防ができるのか?」とか「治療には役立つのか?」というコンテクストで語られることが多いのだが、ある意味、私は「認知症の予防に役立つものなんて本当にあるの?」とも思っているし、ましてや治療薬なんてのも本当に存在するのかなと思っている(進行を遅らせたかに見えるような薬はたしかにあるようだが)。
だから、メディアで「こうすると(これを食べれば、飲めば)認知症予防になります」と語る多くの人に「おいおい、本当にそんなこと言っちゃっていいの?」と心の中でいつも突っ込まずにはいられない。
そんな「不毛なこと(認知症の予防と治療)」に一生懸命になるよりも、「ボケたらボケたで良いじゃない。それよりも、たとえボケても毎日ちょっとでも明るく生活する方法考えた方がよっぽど幸せなんじゃないの」とつい思ってしまう。
「そのためなら音楽はものすごく役立つよ」。
私の考え方の基本はここだ。
「音楽は介護や医療に役に立つんです。でも、それをもっと説得力のあることばで語りたい。それにはもっともっとたくさん現場を体験していかないと…」。
そうした私の考えが理解されないまま、ただ「仕事先が増えれば良いのでしょう」的なお誘いを古い友人から受けた私は、「こんなに長くつきあっていて、これだけ私のことをいろいろ知っているはずなのに、なんでこの人は私の考えを理解してくれないんだろう?」とちょっと寂しさを感じてしまったのだった。
それが故郷で説教をしたイエスが感じた「絶望感」や「寂しさ」と同じかどうかは私にもよくわからないが、案外身近な人ほど「理解」ということばからは遠い存在なのかもしれないなとも思う。
それに、身近な人に対しては「この人はきっとわかっているに違いない」という勝手な思い込みもきっとあるのだろうし、甘えもあるのだろう。
結局、人を納得させていくには、やはり「行動」と「結果」しかないのかもしれない。
私は「たとえ理解者が一人もいなくなって自分だけになってしまっても正しいと思ったことをやりきるゾ」と思うと同時に、やはり、「世の中に理解される道は果てしなく遠いな」と思ったことも確かだ。