みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

41回目のアニバーサリーは

2014-04-22 21:14:57 | Weblog
病院の中で迎えた。
これは初めての体験。
彼女が病気になったのは3年前の秋だが、退院したのは翌年の3月31日なので、39回目も40回目の記念日も自宅で過ごせたのだが、今年は思いがけず病院の中になってしまった。
まあ、ある意味これまでで最もつまらないアニバーサーリーと言えば言えるのだが、たとえ病院の中であっても二人で記念日を過ごせるということが大事(と、二人で無理矢理納得する)。
最近はお菓子を作ったりする時間的余裕もないのでスイーツ作りはパス。代わりに、病院の中で着るスラックスが足りないというので彼女のお気に入りのブランドのすごく明るい春らしい色を買って持っていく(このリハビリ病棟は、日常に戻ることを目的にしているので、患者さんは全て朝寝具から普段着に着替え、また夜寝具に着替えることが義務化され、いわゆる病院着は着用しないことになっている)。
結婚三年目で私は単身先にアメリカに留学した。
一年間日本に残された彼女に私はアメリカから百本の赤いバラを贈った(若かったとはいえ随分とキザなことをしたものだ)。
やはり今回もバラを贈りたいなと思い、アレンジを作ってもらおうといつも行くショッピングモールの中にある花屋さんを朝イチ9時で訪れるが看板に開店は10時からだと(ナニ?)。
仕方がないので、モール内のスーパーマーケットで買い物をして時間をつぶすことにした(スーパーは9時からオープンだが、こんな朝早くてもお客さんがたくさんいることにちょっと驚く。みんな早いナ!)。病室で花を置くスペースはあまりないので小さめなアレンジにしてもらうが、赤、黄色、ピンクのバラだけで作ってくださいと言うと花屋のオネエサンに怪訝な顔をされてしまった(カスミ草とかの白ものや緑ものを混ぜないと料金が高くならないからかナ?)。
それでもけっこうキレイなアレンジができあがり病院に持っていくと恵子は早速スケッチを始めた。

41年前のこの日は、季節はずれの台風一過のように生温かい日だったことをよく覚えている。
私はまだ学生だったので(彼女の方は既に就職していたが)まるっきりお金がなく(こればかりは今も変わっていないのはナゼだろう)神田のYMCAで会費制の披露宴を行った。
彼女の父親が牧師のくせに結婚式はしなくて良いというものだから(彼の方から言い出したことなのでこれ幸いとそのことばに便乗した)友人を中心にちょっとハデ目なパーティを行った。
当時、会費制の結婚式をやる人たちなどほとんどいなかった。
別に時代の先駆けになろうなどという気持ちはサラサラなかったが、親に迷惑をかけずに結婚する方法が他に考えつかなかっただけの話だった(私には既に親はいなかったが、彼女の両親にもあまり迷惑はかけたくなかった)。 
その後、二人で共働きしながら子供を作らずに家計も別々に(私が光熱費、向こうが食費みたいな分担をしながら)やってきた二人だ。
なので、彼女が倒れて彼女の貯金通帳も私が管理するようになるまで、私は彼女に収入がいくらあるのかもまったく知らなかったし、彼女も私の収入がいくらかなどまったく知らなかったはずだ。
ある意味、結婚している夫婦というよりも、仲の良い男女の同棲に近いような状態の結婚生活を40年近く送ってきたわけだ。
彼女が病気になり、私には生命保険(入院費もカバーしてくれる)をかけていたが、彼女にはかけなかったことをちょっとヌカッタなとも思ったが、何とかここまで生きてこれたのも奇跡的なことかもしれないと思う。
この先金婚式までイケるのかナ?とも思うが、予測不能なのが人生なので、そればかりは何とも言えない。
この話、どこにオチを持ってくればいいのかなと思っていたら、彼女からメールがあった。
大阪に行ってしまった彼女の叔母から彼女の携帯に電話があったのだという。
私たちの記念日のこと覚えていてオメデトウのひとことでも言うためにかけてきてくれたのかと聞くと、いやそんなことはまったく覚えておらず単なる偶然なのだという。
「そういう人だよな、あの人は。単に自分が寂しくなったから電話してきただけなのだろう」。
かくして、恵子は、今日も看護士さんとまるでトンチンカンな会話しかできない向いのクメさんと「イテテテ、イテテテ」の叫びを五分おきに繰り返す隣のオバアさんの二人に病室で攻め続けられ、挙げ句にもう一人の身勝手な85才の叔母からの愚痴電話で攻められるさんざんなアニバーサリーを迎えたというわけだ。
41回のうちの一回ぐらいはこういうこともあるんだろうナ。
明日、何をして取り返してあげようか...。