みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

25人分のケーキ

2016-06-05 10:28:00 | Weblog

昨日、近所の小規模多機能型居宅介護ホームにケーキを作って届けた。

スタッフとあわせて25人分にもなったが、昔からこれぐらいの人数分のケーキや料理は作り慣れている。

ついでにこの前作った桑の実ジャムも添えて(オヤツの時間に)食べてもらった。

小規模多機能型居宅介護ホームなんて長ったらしいことば、一般の人はほとんど知らないだろう。

特別養護老人ホームや有料介護つき老人ホーム、サービス付き高齢者住宅、老人保健施設、認知症グループホームとか、最近の介護サービスはいろいろあり過ぎて(私でさえ)ついていけない。

まあ、多様化ということ自体は全然悪くないのだけれども、その内容を把握していないと一般の人はそのどれが良いのかまったく見当がつかない。

私が時々訪ねるこの小規模多機能というのは、できるだけ家庭に近い形で(自立の)お世話するデイサービスやショートステイのサービスといえば一番的を得た説明なのだが、それでもこの分野に馴染みのない人には「?」ではないのか。

じゃあこのホームが実際家庭に近いのか?と冷静に考えてみる。

うん、確かにもともと普通の家屋(伊豆高原の桜並木沿いのとても環境の良いところ)だったところを改造して使っているので(お庭もとても奇麗で)、家庭っぽさは十分あるし皆さんけっこう自由に活動しているのだけれども、まあやはり「自分の家」ではないだろう。

だって、それぞれの家族が一緒にいるわけではないし、同じようなお年寄りがわ~っと集っているので、普通の家庭、家族とはやはり違う。

それでも、これまで見てきた有料や特養、デイサービスのお年寄りよりは多少元気かナ?という感じ。

ただ、ほとんどの方が認知症気味なところは他の施設とあまり変わらない。

なので、私がケーキ焼いてきましたと言ってもどれぐらいストレートに伝わっているか疑がわしい(笑)。

やはり、できたらこの一人一人のお年寄りの家庭にお邪魔して「ケーキ焼いてきました。一緒に食べましょう」的な雰囲気が作れたらナと思う。

ではなぜそれができないかと言えば、ここに来るお年寄りも施設に入居しているお年寄りたちも、ある意味、それぞれの家庭から「ハジき出された」人たちだからだ。

要するに、先ほど並べたたくさんあり過ぎる介護サービスはすべて「介護している家族が休むため」に作られた(避難)場所に過ぎない。

この図式は何十年も前も今も変わっていない。

要は、この何十年に増え続けた高齢者のための「受け入れ先」の選択肢が増えただけのこと(それが、複雑な介護サービスにつながっている)。

じゃあ、この問題をどうやったら解決できるのか?

この地球上の人間が営む生産様式(つまり、生活を維持していくための生産方式、マネー経済による社会の仕組みそのもの)が変わらない限り、そこからはじき出されたお年寄りは「行き場」を失うことに変わりはない。

だって、ほとんどの年寄りはその「生産様式」に関わることができないからだ。

じゃあ、逆に、関われるようにすれば良いじゃん、とも思う。

そこで、リタイアした人たちや高齢者、障害者を雇用するような「セカンドチャンス」の仕組みを作ろうともしているけれど、これもそれほどううまくは行っていない。

だって、停年退職するまで営業畑や事務職だった人にいきなり農業や漁業、土木工事をやらせたって無理に決まってるじゃんと思う(趣味でやる分には問題ないだろうけど)。

なんで一生のスパンでその人の特技を死ぬまでやらせてあげる仕組みができないのかナ。

その点、音楽家やアーティスト、クリエーターは基本的に(同じことをしながら)死ぬまで現役でいられるのだけれども、これとて若い世代と対等に競争していくのは至難のワザだ。

だから、何か「特別」なものを持たない限り世の中に貢献していくことはできない。

まあ、きっとここが「個人(の肉体と資質)」と「社会(での役割)」が相反して成立する人間社会のサガ(あるいは原罪かナ)なのだろうナと思う。

世の中に社会学者と言われる人たちはゴマンといるけれども、彼ら彼女らの仕事ってこの相反するテーゼへの解答と解説をしてくれることなんじゃないかナと思う。

別に、この「弁証法」的な問題に対してヘーゲルのような哲学的な理論や解説をしてくれるよりも、じゃあ実際に「どうすれば老人と社会が共存できるのよ」という問題に答えを与えて欲しいのにナといつも思う。

そこに「愛こそすべて」と(笑われてしまうような)ロマンチックな解答を持ち出すつもりもないけれど、どこかでそれを信じたい自分もいる。