みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

認知症カフェは成功するか

2016-06-12 10:52:02 | Weblog

数年前から始まり最近日本全国で急に盛んになり始めた認知症カフェ。

その必要性と居場所作りに行政がやっと本腰を入れ始めているようだ。

でも、私が今住んでいる静岡県のI市というのは全てにおいてスローな場所(というか、私には緊張感も危機意識もまったくないような場所にしか見えないのだが)。

なので、ここで起こることは私にしてみれば「何を今さら」ということばかり。

私が認知症カフェに関心を持ちいろいろセミナーに出席したり実際に名古屋とか大阪のカフェを見学に行ったのもはるか遠い昔だ。

 I市よりもはるかに人口の少ない近隣の小さな行政区でも既に(認知症カフェを)始めている。

という現状を見てI市もやっと(カフェを)作るのかと思いきや(調査のために)違う市まで見学に行くのだと言う(なんだ、たったそれだけかい?)。

先日そのお知らせが来た。

ただ、これも「?」だらけのお知らせ。

一緒に行きたかったら何月何日に市役所の前に集合して「自分の車でついてきなさい(もちろんこんな口調ではないけれど)」という上から目線のお達し。

う~ん?何? 見学したかったら自分の車で追いかけてこい?

ばかも休み休み言え、ダ。

この町の役所のやることというのはどこまでずれているのだろう(役所ならマイクロバスぐらい納税者のために出しなさいヨ)。

私は、以前の市内で自腹をきって「認知症カフェ」の新しい形を実践したことがある(レストランのオーナーに話しをして14、5人の認知症患者、あるいはその予備軍の人たちのための音楽カフェを市の援助なしでやった)。

これを実施する前の行政の言い分はこうだった。

「(他にもいろんなことをやっている人や団体がいるので)市はアナタ一人の要求を聞いているわけにはいかない」。

ふ~ん、私が認知症の音楽カフェを自分の私利私欲のためにやっているとでも言いたげな口調だ(この市の高ビーな対応は、公営ギャンブルの収益が多いからなのだろうか)。

最近話題の東京都のM氏は、随分前に「私は自分の親の介護をこれだけ一生懸命やりました」と大いばりで言っていた。

瞬間、私は「ウソだ!」と思った。

ちょっとでも本気で介護に関わったことのある人ならM氏の言う介護が口だけだということを瞬時に見抜けるはずだ。

介護は決してきれいごとでは済まされない。

文字通りさまざまな汚物(精神的なものも含めて人間の吐き出すあらゆる汚物がそこに垂れ流される)と格闘して人としての「普通の生活」を懸命に維持していこうとするのが介護。

それだけの覚悟と実践を経験した人のことばとは思えないほど(この人の)ことばは表面的にしか聞こえてこなかった(でも、介護経験のない人にはM氏のことばはかなり美しく「感動的」に聞こえたかもしれない)。

 

翻って認知症カフェそのものの考えは別に悪いことではないけれど、月に一回、週に一回だけの居場所を作って一体何が変わるのかナと思う。

今の認知症カフェって「時限的に」空間を作り出して講演聞いたり勉強会やったりイベントやったりするだけのモノなので、私は、その意味ではあまり評価していない(というか、ほとんど評価していない)。

お茶を飲んで話しができるから「カフェ」と言うのだろうか(カフェって、いつ行ってもお茶が飲めて、カフェごはんが楽しめる所じゃないの?)。

だったら「認知症カフェ」と「老人クラブ」は一体どこが違うのだろうか。

そう。私がずっと介護の仕事や介護関係の人たちと話しをしていて一番感じる違和感は、介護を「老人問題」だと決めつけていることだ。

絶対に違うと思う。

介護というのは、北欧の福祉システムがそうなったように、「ゆりかごから墓場まで人はどうやって生きていくか」という文脈で考えない限りその本質は絶対に理解できない。

この一番肝心な部分に北欧はいち早く気がついたからこそ、今のような充実した介護システム、福祉政策を実行できているのだと思う。

今私は個人的に、お産、保育、子育ての方により強い関心を持っている。

だって、人生はそこから始まるのだから、その部分から「看取り」までの一環した流れを作っていかない限り介護問題の解決なんて遠い夢のまた夢なのではと思う。

 それに「居場所」というのは、本来「自分」で見つけるもの。

自分の居場所がないからその場所を他人や行政が作ってあげる。

うん?

違うと思う。

自分をなくしてしまった人(=認知症の人)だから自分を見つける場所(自分がいられる場所)を提供してあげる。

これも違うような気がする。

実際に認知症の患者と日々接している人たちでも「(認知症患者は)何もわからない」という言い方をする人は多い。

何もわからないって誰が決めたの?

ぼうっと遠い目をした人たち(認知症患者の人たち)は、本当に「何もわかっていない」のだろうか(誰だってそんなことぐらいいくらでもあるじゃない)。

それに、「わかる、わからない」のボーダーラインってどこにあって、誰が決めるのだろうか。

四六時中、24時間「私」が問いかけるたびに「私がアナタの娘である」ことを認識できていないと、子は親を親として認めないのだろうか。

1日のうち10分でもわかっていれば「わかっている」でいいんじゃないの。

どうしてもっと自分の親に優しくできないのかナ。

愛のない介護なら(そんなもの)ドブに捨ててしまった方がマシだと思う(今は、ドブすら存在しない世の中だけどネ)。