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今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「神も仏もありませぬ」から。
「 いったいいくつになったら大人になるのだろう。混迷は九歳の時よりより複雑で底が深くなるばかり
だった。人間は少しも利口になどならないのだ。そしてうすうす気が付き始めていた。利口な奴は生
れた時から利口なのだ。馬鹿は生れつき馬鹿で、年をとって馬鹿が治るわけではないのだ。馬鹿は、
利口な奴が経験しない馬鹿を限りなく重ねてゆくのだ。そして思ったものだ。馬鹿を生きる方が面白
いかも知れぬなどと。
そして六十三歳になった。半端な老人である。呆けた八十八歳はまぎれもなく立派な老人である。
立派な老人になった時、もう年齢など超越して、『四歳ぐらいかしら』とのたまうのだ。私はそれが
正しいと思う。私の中の四歳は死んでいない。雪が降ると嬉しい時、私は自分が四歳だか九歳だか六
十三だかに関知していない。
呆けたら本人は楽だなどと云う人がいるが、嘘だ。呆然としている四歳の八十八歳はよるべない孤
児と同じなのだ。年がわからなくても、子がわからなくても、季節がわからなくても、わからない
からこそ呆然として実存そのものの不安におびえつづけているのだ。
不安と恐怖だけが私に正確に伝わる。この不安と恐怖をなだめるのは二十四時間、母親が赤ん坊を
抱き続けるように、誰かが抱きつづけるほか手だてがないだろうと思う。自分の赤ん坊は二十四時
間抱き続けられるが、八十八の母を二十四時間抱き続けることは私は出来ない。
そしてやがて私も、そうなるだろう。六十三でペテンにかかったなどと驚くのは甘っちょろいも
のだ。」
(佐野洋子著「神も仏もありませぬ」ちくま文庫 所収)
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