「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

コロッケの唄 Long Good-bye 2021・12・09

2021-12-09 05:30:00 | Weblog


  今日の「 お気に入り 」は 、大正時代の流行歌「 コロッケの唄 」と戦前の昭和の流行歌「 ルンペン節 」 。


  まずは 、「 コロッケの唄 」( 作詞 :益田太郎冠者 ) 。四番まであるよう 。

  筆者が 覚えているのは 、歌詞に「 コロッケ 」が出てくる「 一番 」とそのメロディーだけ 。

  二番以下は記憶にありません 。多分 、懐かしのメロディーとして 、昭和20年代か30年代にラジオか

  テレビで聞いたはずで 、その時に歌っていたのが 、どこの どなただったのかは覚えていません 。


  「 一 .
   ワイフもらって 嬉しかったが
   何時も出てくる
 副食物(おかずはコロッケ
   今日もコロッケ 明日もコロッケ
   これじゃ年がら年中コロッケ
   アハハハ アハハハ
   こりゃ可笑し(おかし)
 ♬

   二 .
   晦日( みそか )近くに 財布拾って
   開けて見たらば金貨が
   ザッククザク ザックザク
   株を買おうか 地所を買おうか
   思案最中に 眼が覚めた
   アハハハ アハハハ
   こりゃ可笑し  ♬

   三 .
   芸者が嫌なら 身受けしてやろ
   帶も買ってやろ
   ダイヤもやろう やろう
   今日は三越 明日は帝劇
   いふて呉れるやうな客がない
   アハハハ アハハハ
   こりゃ可笑し  ♬

   四 .
   亭主もらって 嬉れしかったが
   何時も出て行っちや滅多に
   帰らない 帰らない
   今日も帰らない 明日も帰らない
   これじゃ年がら年中 留守居番
   アハハハ アハハハ
   こりゃ可笑し  ♬          」


   コロッケが日本の食堂・洋食屋で提供開始されたのは明治30年代のことだそうです 。

   この 「大正時代の流行歌『 コロッケの唄 』により 、コロッケ料理の知名度が高まり 」 、

  コロッケは 、「 以後日本人にとって最もポピュラーな洋食の一つになった 」そうです 。


   もう一つは 、戦前の昭和の流行歌「 ルンペン節 」( 作曲 松平信博 ( ビクター文芸部 ) 作詞 柳水巴 )。

  戦後生まれで 、団塊世代の筆者の記憶にあるのは 、「 スッカラカーンの 空財布 でも 、

  ルンペンのんきだね
」 というフレーズとメロディーのみ 。


  「 ♬ 青い空から紙幣の束が降って

     とろり昼寝の 頬ぺたをたたく

     五両十両百両に千両

     費い切れずに 目がさめた

     アーハッハッハ アッハッハ

     スッカラカンの 空財布

     でも 、ルンペンのんきだね


     ( 中 略 )

     金がないとて くよくよするな

     金があっても 白髪ははえる

     お金持ちでも お墓はひとつ

     啼くも笑うも 五十年


     アーハッハッハ アッハッハ

     スッカラカンの 空財布

     でも 、ルンペンのんきだね
  (^^♪  」


   このルンペン節を歌ったのは 、戦前から戦中の昭和時代に活躍した芸大出のバリトン歌手 、

  徳山 璉( とくやま たまき )さん
。インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」に

  は 、以下の経歴記事が掲載されています 。ちょっと長いですが引用します 。


  「 徳山 ( とくやま たまき 、1903年〈 明治36年 〉7月27日 - 1942年〈 昭和17年 〉1月28日 )は、

   戦前から戦中に活躍した日本の声楽家( バリトン )・流行歌手・俳優 。

   愛称は『 徳さん 』。


   人物・来歴

   1903年( 明治36年 )7月27日 、神奈川県高座郡藤沢町( 現在の同県 藤沢市 )の開業医の家に

   生まれた 。

    開校したばかりの 逗子開成中学校( 現在の逗子開成高等学校 )を経て 、1928年( 昭和3年 )、

   東京音楽学校声楽科( 現在の東京芸術大学音楽学部声楽科 )を卒業 。武蔵野音楽学校( 現在の

   武蔵野音楽大学 )の教師になった
が 、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子

   のピアノ伴奏をした縁で 、1930年( 昭和5年 )、ビクターから『 叩け太鼓 』で流行歌手として

   デビュー 。翌年には『 侍ニッポン 』が大ヒットとなった 。その後も『 ルンペン節 』や 、四家

   文子と共演の『 天国に結ぶ戀 』など数多くのヒット曲に恵まれた 。『 隣組 』、『 歩くうた

   など 、国民歌謡からヒットした曲もある 。


   一方 、声楽家としても活躍し 、ジョルジュ・ビゼーのオペラ『 カルメン 』のエスカミーリョが

   当たり役
であった 。ベートーヴェンの『 交響曲第9番 』の演奏にも 、バリトン・ソロとして何回

   か出演
している 。昭和10年代前半には 古川ロッパ一座 に入り 、『 ガラマサどん 』、『 東海道

   中膝栗毛 』などの舞台に出演したり 、「 シネオペレッタ 」と呼ばれた音楽映画にも出演するなど

   幅広く活躍
した 。

   レコードとして残っているのはほとんどが流行歌だが 、明るく軽やかなバリトンで 、小節などの

   『 邦楽的 』な発声法は全く使われていない 。音楽学校出身の歌手としては珍しく 、コミック・

   ソングも得意とし『 ○○ぶし 』『 歌ふ弥次喜多 』( 古川ロッパと共演 )など多数の傑作を遺

   している


   ルンペン( ホームレス )・療養所・盲学校 などへの慰問活動にも熱心で 、東京の盲学校で全盲

   の生徒に自慢の太鼓腹を触らせ 、『 お相撲になっていたら 今頃は双葉山を負かしていたかもね 』

   などと笑わせたという話も残っている 。

    1935年 結婚し 、藤沢町鵠沼に新居を構えた 。私生活面では 、外見の豪放磊落さとは反対の小心

   な性格で 、勝ち気な妻( 寿子・旧姓 萩谷 、1902年 - 1992年 )に頭が上らず 、かなりいじめ

   られたが 、友人たちにはさも楽しそうにそのことを話していたという 。人気絶頂のころの1942年

   ( 昭和17年 )1月28日 、敗血症のため死去 。満38歳没 。
友人の古川ロッパは舞台出演中に徳山

   の訃報を聞いて衝撃を受け 、弔問であたりはばからず号泣した 。墓所は 常光寺( 藤沢市 )。

    妻・寿子は( 坂本龍一『音楽は自由にする』新潮社、2009年 )に『 1902年 大阪府生まれ 。

   母は女医 。東京女子高等師範学校( 現・お茶の水女子大学 )に入学するが中退し 、音楽学校

   に編入 。コップなどを使った創作楽器の演奏で活躍し 、「 徳山寿子のキッチン楽団( 坂本も

   参加 )」はテレビ番組にも出演 。高校の校歌の作曲や 、童謡の編曲も手がけた 。

   また 、『 モガ 』の先駆けとしてもメディアに登場している 。92年没 。』とある 。

    息子には 、ジャズ・ピアニストの徳山陽がいる 。              」

   引用 、ここまで 。


   夫 、満38歳で病死 、妻 、90歳まで長生き 。

   ( 筆者註 : ルンペンは 、ドイツ語の Lumpen で 、「 スーパー大辞林 」には
        「〔襤褸 ( ぼろ ) ・ 屑 の意 〕襤褸をまとってうろつく人 。浮浪
         者 。乞食 ( こじき ) 。」と書かれている 。
        「 ウィキペディア 」には 、 「 ルンペン : ホームレス 、浮浪者 、乞食 。
         ルンペンプロレタリアートの略 。」とニ、三行の説明があるのみ 。
         また 、「 ルンペンプロレタリアート 」については 、次のような解説記事が掲載されている 。

         「 ルンペンプロレタリアート( 独 : Lumpenproletariat )とは 、
          カール・マルクスが使用した用語で 、プロレタリアート( 労働者階級 )のうち
          階級意識を持たず 、そのため社会的に有用な生産をせず 、階級闘争の役に立たず 、
          更には無階級社会実現の障害となる層を指す呼称 。略して「 ルンプロ」ともいう 。
          ルンペンプロレタリアート( Lumpenproletariat )の用語は 、
          「 ぼろ 、浮浪者 、悪漢 」などを意味する「ルンペン」( 独 : lumpen )と、
          労働者階級を意味する「 プロレタリアート 」( 独 : proletariat )より作られた 。

          カール・マルクスは 、『 共産党宣言 』( 1848年 )や『 ルイ・ボナパルトのブリュ
          メール18日 』( 1852年 )において 、無産階級や労働者階級の中でも革命意欲を失
          った極貧層を「 ルンペンプロレタリアート 」と定義した 。
          中でも『 ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 』でルイ・ボナパルト( 後のナポレ
          オン3世 )の支持組織「 12月10日会 」の背景と構成を説明するくだりで 、「 ルンペン
          プロレタリアート 」の「 職業 」を以下のように述べている 。

           「 なんで生計を立てているのかも 、どんな素性の人間かもはっきりしない 、
             おちぶれた放蕩者とか 、ぐれて冒険的な生活を送っているブルジョアの
             子弟とかのほかに 、浮浪人 、兵隊くずれ 、前科者 、逃亡した漕役囚 、
             ぺてん師 、香具師 、ラッツァローニ 、すり 、手品師 、ばくち打ち 、
             ぜげん 、女郎屋の亭主 、荷かつぎ人夫 、文士 、風琴ひき 、くず屋 、
             鋏とぎ屋 、鋳かけ屋 、こじき 、要するに 、はっきりしない 、ばら
             ばらになった 、浮草のようにただよっている大衆
、フランス人がラ・
             ボエムと呼んでいる連中
             — 『 ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 』( 大月文庫版 ) p.89~90 」 

           モノマニアックなマルクスさんのお言葉の数々 。170年前の 、19世紀の半ばとはいえ
          文章の中に差別用語が溢れ 、差別意識が充満していて 、現代社会なら 炎上間違いなし 、
           読むのが 辛い 。

           列挙されている職業・職種が 、ほぼ全部 、21世紀の日本社会に形を変えて存在して
          いる事実に驚愕する 。
          
          「 ルンペン 」という日本語を新聞紙上で見かけることがなくなり 、死語 に近い 言葉
          になっている理由が何となく察せられる 。「 ホームレス 」の一語で十分 。

           この世は、マルクスさん が定義した「 ルンプロ 」で溢れ返っているような 、いずこの国も 、
          今も 、昔も 。

           ラッツァローニ って 何 ? フランス人が ラ・ボエム と呼んでいる連中 って 何 ? )




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