「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

起き上がり小法師  Long Good-bye 2022・06・17

2022-06-17 04:54:00 | Weblog



  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」
   掲載の記事「 周恩来 」から 。
   引用は 、「 生い立ち・日本留学 」「 死去 」「 評価 」「 逸話 」 。
   事績は 、長いので割愛 。

   引用はじめ 。

  「 周恩来( しゅう おんらい 、簡体字 : 周恩来 ; 拼音 : Zhōu Ēnlái 、
   1898年3月5日 - 1976年1月8日
)は 、中国の政治家 、革命家 。字は翔宇 。
   中華人民共和国の初代首相 で 、建国された 1949年10月1日 以来 死去する
   まで 一貫して在任した 。
    毛沢東共産党主席 の 信任を繋ぎとめ 、文化大革命中も 失脚しなかった
   ことなどから「 不倒翁 」( 起き上がり小法師 )の 異名 がある 。
    妻は 鄧穎超 、子女は 孫維世( 養女・文化大革命で迫害死 )、李鵬( 養子・
   後に 国務院総理 )である
。」

  「 生い立ち・日本留学
    1898年3月5日 、江蘇省淮安府 に誕生し 、天津 の 南開中学校 で学んだ 。
    南開中学卒業後の 1917年に 日本に留学した
日本語の習得不足により
   第一高等学校 と 東京高等師範学校 の 受験に失敗した 。その後 東亜高等
   予備学校( 日華同人共立東亜高等予備学校 )、東京神田区高等予備校
   ( 法政大学付属学校 )、明治大学 政治経済科( 旧政学部 、現在の政治
   経済学部 )に通学した


    日本では 勉学に励んだ他 、友人と活発に交流して 祖国の将来について
   語り合っている 。また 日比谷公園・靖国神社・三越呉服店・浅草など 、
   各所を 積極的に 見てまわっている 。1918年5月1日には 靖国神社の大祭
   を見物し 、『 それを見て 甚だ 甚だ 大きな感慨を催す 。』と語った 。
    また 6月2日にも 游就館 を訪れたことも 日記に記している 。日本社会や
   日本人についても よく観察しており 、これが知日派としてのベースを作
   った 。同年に 留学生の一斉帰国運動も起きるが 、周恩来は 冷静な対応を
   している 。一旦 中国に帰るが 、再び 来日した 。帰国前の数ヶ月について
   は記録も無く 、よく分かっていない 。苦渋の中で 酒に溺れがちだった と
   いう説もある 。やがて 、母校の 南開学校 が 大学部を創設するということ
   を知って 、帰国を決意した 。

    船に乗るために 神戸に向かう途中 、京都の嵐山に寄って歌った詩の『 雨中
   嵐山 』は 、嵐山の周恩来記念碑 に刻まれている 。河上肇 の 著書 で 初めて
   マルクス主義 に触れ 、京都大学で その講義を聴講もしている 。1919年4月に
   帰国し 、南開大学文学部 に入学 。その直後に 中国近代史の起点となる 五・四
   運動が起きる 。周恩来は 学生運動のリーダーとなって 頭角を現していく

    なお 日本滞在中の様子については 、『 周恩来 十九歳の東京日記 』が 最も
   正確で詳細な記録である 。東京日日新聞 の 神近市子 記者 のインタビューを
   受けたという 、従来の伝聞や伝記にあった誤り も指摘されている 。」

  「 死 去
    1972年に膀胱癌が発見される 。その後も休むことなく職務を続けたが 、病状は
   悪化の一途をたどった 。1974年6月1日 、北京の解放軍第305病院に入院 。病室
   で なおも 執務を続けた 。1975年1月の 第4期全国人民代表大会第1回会議 では 、
   病身を押して 、国務院総理 として 政治活動報告 を行う 。同会議において 総理に
   再選 。しかし 、同年秋から 病床を離れられなくなり 、ついに 1976年1月8日 、
   周恩来は死去
。後に 病名は 膀胱ガン であったことが 明らかにされた 。
    その遺骸は 本人の希望により 火葬され 、遺骨は 飛行機で 中国の大地に 散布
   された 。これらは 生前に 妻の 鄧穎超 と 互いに約束していたことであった 。
    四人組によって 遺骸が辱められることを恐れたためと言う 。周の葬儀には 宋慶齢
   も参列した


 「 評 価
    外国人による評価

  ・ 1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをした キッシンジャー は 、周恩来を
   『 今までに会った中で 最も深い感銘を受けた人物 」の 一人 に数え 、『 上品で 、
   とてつもなく 忍耐強く 、並々ならぬ 知性 をそなえた 繊細な人物 』と評している 。

  ・ 国連事務総長だった ダグ・ハマーショルド は『 外交畑で 今まで 私が 出会った
   人物の中で 、最も優れた頭脳の持ち主 』と証言している 。

  ・ カンボジア国王 ノロドム・シハヌーク は カンプチア王国民族連合政府 として
   北京に亡命していた時期に ポル・ポト を カンボジアの指導者に推す 康生 と対立
   もしていた 周恩来 と親しくし 、シハヌーク は 周恩来 を 『 私より よっぽど王族
   らしい 』と評している 。

  ・『 周恩来伝 』を書いた ジャーナリスト の ディック・ウィルソン は 、周恩来 を
   ケネディ や ネルー と比較し 、『 密度の濃さ が 違っていた 。彼は 中国古来の徳
   としての 優雅さ 、礼儀正しさ 、謙虚さ を 体現していた 』と最大級の賞賛をして
   いる 。

  ・ また 、1954年以来 チャーリー・チャップリン とも親交を持ち( ジュネーヴ会議
   出席の際 、1952年からスイス在住であった チャップリン を訪ねている )、彼の
   作品の一つ「 黄金狂時代 」の 名シーンである チャーリー が 靴を食べる場面を見て 、
   長征の際の苦難を思い出し 、懐かしがった と言う 。

  ・ 日本でも 周恩来に傾倒した著名人は多く 、日本人70名が寄稿した文集『 日本人の
   中の周恩来 』がある 。

  ・ しかし 、周恩来 と インド訪問などで 活動をともにした ダライ・ラマ14世 は 毛沢東
   を その振る舞いから『 革命の真の偉大な指導者 』と評した一方で 、周恩来 は『 大変
   ずる賢いと思った 』と その強かさ を評している 。

   中国人による評価

    鄧小平 は 周恩来 が 文革期に 毛沢東に妥協して 走資派( 実権派 )粛清 に 協力した
   ことに複雑な胸中だった と言われるが 、周 の没後 ジャーナリストに対しては 以下の
   ように語っている 。

    『 彼( 周恩来 )は 同志と人民から尊敬された 人物 である 。文化大革命 の時 、
    我々は 下放( 地方 、農村 での 思想矯正 )したが 、幸いにも 彼は 地位を保っ
    た 。文化大革命 のなかで 彼のいた立場は 非常に困難なものであり 、心に違う
    ことをいくつも語り 、心に違うことをいくつもやった 。しかし 人民は 彼を許し
    ている 。彼は そうしなければ 、そう言わなければ 、彼自身地位を保てず 、
    中和作用 をはたし 、損失を減らすことが 出来なかったからだ


  逸 話
  ・ 清国最後の皇帝であり 、その後 満州国の皇帝 となったため 、中華人民共和国の
   建国後には 一時戦犯となった 愛新覚羅溥儀 を 、満州族の代表として 中国人民
   政治協商会議全国委員 に推薦した 。下層階級の出身者が多く 、教育 、教養程度が
   低く 、伝統 、古典文化に拙い者が多い 当時の 共産党幹部 の中では 、珍しく 日本
   やフランス留学の経験 もあり 、士大夫 の 名家の出 であった 周恩来 は 廃位後の
   溥儀 の不遇を 哀れんでいた とも言われている 。
  ・ 溥儀の弟の 愛新覚羅溥傑 に対しても 親切であった 。1954年に 日本にいる 溥傑
   の長女の 慧生 からの手紙を読んで感動し 、獄中の 溥傑 と 日本にいる妻子( 浩
   と2人の娘 )との文通を認めた 。また 、1960年に 溥傑 が釈放された際も 、当
   時 まだ 日本と中華人民共和国の国交がなかった にもかかわらず 、浩 の訪中を
   歓迎した 。

  ・ 中華人民共和国建国以来 、毛沢東との人間関係においては 、軍政両面で 実権を
   手に入れて 軍師 のような立場になろうとした 野心家 の 林彪 に対して 、周 は
   丞相のような 古来の中華帝国の形式に則る『 皇帝に従属する中国の宰相 』と
   いう 実直なスタンス を 生涯貫き通した 。1950年代からの第三世界との連携 、
   1970年代に実現した 国連加盟 や 日米との国交正常化 の 最大の功績者 は 周で
   あるが 、これらの首脳対話の場面においても 周 は あくまで 毛沢東 を 中国
   サイドの主役 として 立て続けた 。尤も 、第一次国共内戦中 の 1932年に ゲリ
   ラ戦術を巡って 批判を浴びた 毛 に変わって 周 が 前線指揮を執ったことなど
   から 、毛 は 周 のことを 信用しておらず 、文化大革命初期には 自己批判 を
   強いた 。林彪事件後は 周 が 謀反を企んでいる と思い込んでいた 毛 は 、
   死去の報を聞くと 祝いの花火 を打ち上げ 上機嫌であった


  ・ 1939年に 落馬事故に遭って以来 、右腕が不自由になり 、以後 物を書くときは
   不自然な体勢になった 。

  ・ 建国後 北京の有名な料理店で 店員間で起こった 揉め事 の 仲介人を かって出て
   いる 。双方の言い分を聞いてから『 どっちも悪いことがわかった 』と言った 。
    なぜかと尋ねる店員たちに対して『 お前さんたち 、お客さんに 料理を出して
   あげていないじゃないか 』と答えたという 。

  ・ 1964年2月27日 、セイロン訪問時に 、周恩来を乗せた車が 踏切を渡ろうとした
   時に 停止信号を無視して 突っ込んできた 急行列車と あわや衝突しそうになった
   事がある 。この時に 周恩来の乗った車の一台前の車は 列車と接触事故を起こした 。
    そして 周恩来を乗せた車は 急ブレーキをかけて 踏み切りの数メートル手前で 停
   止し 、その目の前を 猛スピードで急行列車が通過して 事なきを得た 。セイロン
   は すぐに周恩来へ深く謝罪すると共に 鉄道省の責任者を更迭した 。

  ・ 中国東北地区方正( ほうまさ )地区には 、ソ連軍の満州進駐 、日本の敗戦によ
   って 、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきて 、ここで数千人もの人が虐殺
   された 。当時 総理だった 総理周恩来 の 指示によって 、これらの犠牲者を弔う
   ために 中国方正県政府に指示し 『 方正地区日本人公墓 』を作らせた 。そして 、
   文化大革命の時に この『 日本人公墓 』も破壊されそうになったが 、周恩来の
   『 彼らも 日本軍国主義の犠牲者であり 、破壊してはならぬ 』との指示と 、地元
   住民の努力で破壊されずに済んだ 。

  ・ 1972年の国交正常化 で 田中使節団 を迎える時 、周恩来は 新潟出身の 田中首相 、
   香川出身の 大平外相 、鹿児島出身の 二階堂官房長官 のために 、軍楽隊に 新潟の
   佐渡おけさ 、香川の 金比羅船々 、鹿児島の おはら節 を演奏させた 。

  ・ 田中角栄総理 が 北京を訪問する前 、周恩来総理が 田中総理 について いろいろと
   調べるように 部下に指示した時『 田中角栄首相にはいろいろ女性問題がある 』と
   週刊誌を集めて報告した部下がいた 。周は『 中国と日本が 歴史的な和解をしよう
   としているんだ 。そういう話は 何の関係もない 』と叱りつけたという 。
    日中国交正常化のため尽力していた 日中覚書貿易事務所代表 で 当時 日中唯一の
   窓口となっていた 岡崎嘉平太 と初めて会った時に 周 は こう言ったという 。

   「 日清戦争以来 、日本は 我が国を侵略し 、人民を傷つけ 苦しめてきました 。
   我々には その深い恨みがあるのです 、恨みがあるといえども 、中国と日本には
   2000年にわたる『友好の歴史』があります 。戦争による不幸な歴史は 、わずか
   数十年に過ぎないのです 。我々は 恨みを忘れようと努力しています 。これから
   は 中日が力を合わせて 、アジアを良くしていこうではありませんか」

  ・ 岡崎は 周恩来 の印象 を こう語っている 。

    「 周総理 と会っていると 、偉い人と会って 話しているような感じがしないんです 。
    まったく 、何十年来の友人と話しているような 、そんな感じを醸す人でしたね 」

   ある時 、周恩来 は 岡崎に『 歳 』を尋ねた 。すると 、岡崎は 自分よりも一つ年上
   だった 。周 『 じゃあ 、あなたが兄だ 』。二人は 兄 、弟 と呼び合うほどに 、信頼
   し合うようになっていったという 。

  ・ 民間レベルでの 日中貿易協定 を結ばせた 岡崎嘉平太 の行動は 日本国民や右翼団体
   の反発を招いた 。息子の 彬 は 父親について 中国へ行き 初めて 周恩来 と会った 。
    その時 、周恩来 は 静かに 話しかけてきたという 。『 君のお父さんはね 、たぶん
   自分のことを言わない 。でも 、私たち中国人は 友のために生死をかけるような人を 、
   本当に信頼するんだよ 』『 中国にいる私は 、すごく安全だ 。誰も 私を殺そうとなど
   しない 。でも 、君のお父さんが 日本に帰ると 、ちょっと危ないんじゃないかな 。
    それでも 君のお父さんは 、中日のために 命を賭けてきたんだ 。だから 、私たちは
   信用しているんだよ 』

  ・ 日中国交正常化の際には 田中角栄総理 が 北京を訪問する 2日前 、周恩来 は 岡崎
   嘉平太 をもてなすために 、食事会を開いた 。「 中国には『 水を飲むときには 、
   その井戸を掘ってくれた人を忘れない 』という言葉があります 」「まもなく田中
   総理 は 中国に来られ 、国交は正常化します 。しかし その井戸を掘ったのは 岡崎
   さん 、あなたです 」と言ったという 。

  ・ 犬肉料理 を こよなく愛したとされる 。一方で 、周 は もともと犬食を嫌っており
   (『 戦争中 、犬食好きな仲間によって 周辺から集められた 仔犬 を使って出された
   犬肉料理に 、周 は 怒って手を付けなかった 』)、のちに 金日成 や ホー・チ・ミン
   を人民大会堂へ招き 宴会を行った際 、給仕された料理に 犬肉が使われていると知ら
   ず『 大変良い味( 很好 ,很好 ,味道不錯呀 !)』と答えたことの言質をとられて
   この逸話が広まったとの意見がある 。

  ・ 1962年末か 1963年春頃 、朝鮮民主主義人民共和国( 北朝鮮 )の 最高人民会議常任
   委員会 の 崔庸健委員長 は 、周恩来に たびたび中国東北部の考古調査や発掘を進行
   するよう要求した 。韓東育 ( 東北師範大学副学長 )は 、その時の 周恩来 と 崔庸健
   のやり取りを紹介している 。

    崔庸健の主張の大意は 、以下のようである 。
    国際上の帝国主義修正主義や反動派は 我国を封鎖して孤立させ 、我々を 小民族 、
   小国家 、自己の歴史や文化を持たず 、国際的な地位を有しない と中傷した 。我々
   は 中国東北地方の考古学を進行させ 、自己の歴史を明確にし 、古朝鮮の発祥地 を
   探すことを要求する 。周総理 は 一面では 同意を示し 、他面では 婉曲的に 古朝鮮
   が 我国の東北地方に起源を持つ という観点に対して 反対した 。
    周総理が言うには 、
    『 我々は 、古朝鮮の起源が 我国の東北地方とは決まっておらず 、我国の福建省を
   起源とする可能性がある 。朝鮮の同志は 、水稲を植え 、米を食し 、また みんな下
   駄を履いており 、飲食や生活習慣が 福建 と同じである 。また 、朝鮮語の 一 、二 、
   三 、四 、五 、六 、七 、八 、九 、十 の発音と 我国福建の 一 、二 、三 、四 、五 、
   六 、七 、八 、九 、十 の発音は 同じであり 、福建の古代住民 が 朝鮮半島に渡来
   した可能性がある 』というものであった 。 」

    引用おわり 。

     ( 筆者註 : 「 起き上がり小法師( おきあがりこぼし 、おきあがりこぼうし )は 、
           福島県会津地方 に 古くから伝わる縁起物・郷土玩具 の 一種 。起姫
           ( おきひめ )
ともいう 。会津の人にとっては『 赤べこ 』の次に 馴染
           みのある郷土玩具
である 。稚児をかたどった可愛らしさがある 。
           会津地方では この 小法師 を『 十日市 』という 毎年 1月10日に 行な
           われる 初市 の 縁日 で 家族の人数 + 1個 を 購入し 一年間 神棚など
           に飾る 。」

          「 おきあがりこぼし は 重心を利用した玩具 である 。国 、地域 に
           よっては丸底人形roly-poly toy 、tilting doll 、タンブラー 、また
           は wobbly man などと 呼ばれる 。一般的には 卵形の球面の底をし
           た玩具 であり 、斜めにされても 勝手に起き上がる 。一般に 中は
           空洞 で 、底の半球部分の中に おもり がはいっており 、重心は半
           球の中心より下にある 。おもちゃを傾けたり 倒したりすると 重心
           が上がり 、重力の位置エネルギーが最小となる平衡である直立方向
           に戻ろうとするが 、勢いがつきすぎて 行き過ぎてしまうために
           逆側の重心が高くなって 再び重心を戻そうと 直立方向に戻る
           という動きを繰り返し 少しのあいだ ぐらつく が 、やがて 静止する
。」

           以上 、ウィキ情報 。・・・ 言葉で説明するって 難しい 。
           因みに 、roly-poly は「 丸々太った 」、tilting は「 傾く 」とか「 揺れる 」、
           wobbly は 安藤優子さんによると「 ぐらぐらして不安定な 」とか「 不定見 」
           という意味であるとか 。
           辞書には「 a wobbly government 、不安定な政府 」
           という例文が載っている 。
           連れ合いが乗っているのは 、「 tilt manual wheelchair 、ティルト式車椅子 」 。)





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