「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

雀百まで踊り忘れず KISSINGER vs. ZELENSKYY Long Good-bye 2022・06・03

2022-06-03 05:19:00 | Weblog

   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」
  掲載の記事「 ヘンリー・キッシンジャー 」ほか から 。
   満99歳 。

  長い記事の さわり のみ 適宜取捨 して 、引用します 。
   「 ニクソン政権 および フォード政権 」に入閣していた頃の 事跡 ・ 事績 は 、
  長いので 、割愛 。スイスのダボスで開催された 世界経済フォーラム での 発言
  は 、死してのち已む 彼の 痼疾 のようなもの 。

  引用はじめ 。

  「 ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー( 英語 : Henry Alfred Kissinger 、
   1923年5月27日 -  )は 、アメリカ合衆国の国際政治学者 。
   ニクソン政権 および フォード政権期の 国家安全保障問題担当大統領補佐官 、
   国務長官 。ノーベル平和賞受賞者。」

  「 来 歴
   生い立ち
   1923年 、ドイツ国のフュルトでユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれた 。
   本来の姓名はハインツ・アルフレート・キッシンガー( ドイツ語 : Heinz Alfred
   Kissinger )で 、姓は バート・キッシンゲン( 英語版 )に由来する 。
   父 ルイス・キッシンガー は女子高で歴史と地理を教え 、母 パウラ( 旧姓 シュ
   テルン )は アンスバッハ近郊 ロイタースハウゼン 出身の 富裕な家畜業者の娘


   亡 命
    1歳下の弟 ヴァルター と共に幸福な少年時代を過ごしたが 、1933年に 、
   アドルフ・ヒトラー を党首に擁( いだ )き 反ユダヤ人政策 を推し進める ナチ党
   が 、多くのドイツ人の支持を受けて 自由選挙の末に 政権を掌握した ために 運命
   が一変した 。
    一家は 多くのドイツ人が支持した 反ユダヤ人政策 を嫌って 1938年に アメリカ合
   衆国 へ移住し 、第二次世界大戦中の 1943年に 同国に帰化
。なお 、ドイツに残った
   親類はナチに殺害された とされる 。親類が本当に存在したか 、殺されたかの詳細
   は不明 。
    移住後は ジョージ・ワシントン高校 に3年半通う 。後半2年間は夜間クラスで 、
   昼間は 髭そり用ブラシの工場で働き 、週 約15ドルの賃金 が 一家のアパート住まい
   の生活を助けていた 。高校卒業後は 、工場で働く一方 職場近くにあったニューヨ
   ーク市立大学シティカレッジ経営・行政管理学部( ニューヨーク市立大学バルーク
   校の前身 )にも パートタイム学生として通い 、特に 会計学で優秀な成績を修めた

   軍 歴
    第二次世界大戦中の1943年 、大学での学業を中断して アメリカ陸軍に入隊する 。
    陸軍では ドイツ語の能力を生かし ヨーロッパ戦線の対諜報部隊軍曹として 従軍
   した 。すなわち 、アレン・ダレス の部下として OSS( 後のCIA )に配属された
   のである


   ハーバード大学院
   1946年に復員し 、ハーバード大学 に入学1950年 、政治学の学士学位を取得し
   最優等で同大学を卒業する
。引き続き 同大学大学院に進学し 、ウィリアム・ヤン
   デル・エリオット( 英語版 )の指導のもと 19世紀のヨーロッパ外交史を研究し 、
   1952年に 修士学位 を
、1954年には ウィーン体制についての研究 で 博士学位
   取得する 。

    この論文では 、その後の 100年間 、欧州で大きな戦争が防がれた国際秩序が 、
   どのようにして作られたかが論じられている
。その要因の一つとして 、敗れた
   ナポレオンのフランスに対して 、メッテルニヒ や カスルリーらが 、懲罰よりも
   力の均衡の回復を重視したことを上げている


    1951年には 日米学生会議 に参加している 。大学院生時には 指導教授の庇護を
   受け 、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて 国際情勢につい
   て講義や議論を行うサマー・セミナーの幹事役となり 、国内外に その後のワシ
   ントン入りにも繋がる人脈を形成した 。日本からの参加者としては 、中曽根康
   弘 などがいる


   外交問題評議会参加
    ハーバード大学院における博士課程修了後に 、同大学政治学部で教鞭をとって
   いたが 、外交問題評議会への参加を通じて 、同時代の外交政策にも積極的な提
   言をはじめる。

    特に キッシンジャーは アイゼンハワー政権の採用した核戦略(『 大量報復戦略 』)
   の硬直性を辛辣に批判し 、のちのケネディ政権が採用する『 柔軟反応戦略 』の
   ひな型ともいえる 、核兵器・通常兵器の段階的な運用による 制限戦争の展開 を
   主張した 。1960年代には ケネディ大統領の顧問 として 外交政策立案に一時的に
   関与することとなる 。しかし 、ケネディ政権で 国家安全保障問題担当大統領補
   佐官に就任した マクジョージ・バンディ が ベルリン危機 ( 1961年 )( 英語版 )
   に際して ドイツ問題の専門家である キッシンジャー を遠ざけたため 、1年足ら
   ずの 1961年11月に 辞職している 。また 、南ベトナム駐在大使 ヘンリー・カボ
   ット・ロッジ・ジュニア の長男が ハーバード大学で同僚だった関係で 、大使の
   顧問として 1965年から1966年にかけ3回 サイゴンを訪問し 、ベトナム戦争の
   現実を知った 。この時 キッシンジャーが国務省に行った報告 が 、ウィリアム・
   ウェストモーランド大将 を ベトナム派遣軍司令官から更迭する遠因 になったと
   いう 。また 学者として チェコスロバキアの情報機関と接触した ことから 、国
   務省が行っていた 北ベトナム政府との秘密工作のひとつ(『 ペンシルベニア 』
   と呼称 )と関わったが 成果は上げられなかった 。」

   ( 中 略 )

  「 退任後
    1977年 、キッシンジャーは フォード政権の退陣と共に 国務長官を退任した 。
   コロンビア大学から教授就任の誘いを受けたが 、学生の激しい反対に会い 、
   就任を断念する 。その後 ジョージタウン大学戦略国際問題研究所( CSIS )に
   招かれ 、在職中 次々と政権時代の回想録を発表し 、話題を呼ぶこととなった 。
   1980年に『 キッシンジャー秘録 』で 全米図書賞受賞 。

   1982年 、国際コンサルティング会社『 キッシンジャー・アソシエーツ 』を設立
   し 、社長に就任 。同社には ジョージ・H・W・ブッシュ政権で国務副長官を務め
   た ローレンス・イーグルバーガー( 後に国務長官 )や 、国家安全保障担当大統
   領補佐官 を務めた ブレント・スコウクロフト などが参加している 。また 、バラ
   ク・オバマ政権で 財務長官 に就任した ティモシー・ガイトナー も 、一時同社に
   籍を置いていた 。

    現在は『 現代外交の生き字引的存在 』として 多くの著書を持つ ほか 、世界各国
   で講演活動を行っている 。また 、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめ
   とする世界各国の指導層と親交を持っており 、国務長官退任から30年以上たった
   現在でも その国際的影響力は『 最大級 』と評価されている 。

    最近では 、ジョージ・W・ブッシュ政権 において 指南役 として活躍した 。ブッ
   シュはキッシンジャーとは定期的に会談の機会を設けており 、政権外で最も信頼
   する外交アドバイザーであった 。キッシンジャーは ブッシュ政権下で行われてい
   るイラク戦争も基本的に支持していた 。

    また 、2007年1月4日には ジョージ・シュルツ 、ウィリアム・ペリー 、サム・ナン
   らと連名で『 核兵器のない世界に( A World Free of Nuclear Weapons )』と題し
   た論文を『 ウォール・ストリート・ジャーナル 』紙上に発表した 。同論文は イラ
   ン・北朝鮮などが核開発を試み 、また 国際テロリスト・グループによる核保有の
   可能性すら存在する現代において 、核兵器に過去のような抑止効果は存在しない
   として 核兵器廃絶 を アメリカが唱道すべき ことを訴えており 、注目を集めている 。


    2009年4月20日 、岡山大学にて特別講演会を実施 。この模様は 後日 岡山放送でも
   放映された 。2011年11月11日夜には 、首相官邸を訪問 、野田佳彦首相と会談し 、
   『 TPP交渉参加方針を歓迎する 』と述べた 。

    2016年 アメリカ合衆国大統領選挙で当選した 第44代アメリカ合衆国大統領 の
   ドナルド・トランプ とは トランプ曰く『 政治の世界に入るずっと前からの友人 』
   という旧知の仲であり 、大統領就任前後から トランプ は キッシンジャー に助言
   を仰いできた 。キッシンジャー・アソシエーツ に所属した キャスリーン・マク
   ファーランド( 英語版 )国家安全保障問題担当大統領副補佐官 や CSIS で同僚
   だった レックス・ティラーソン国務長官 の抜擢は キッシンジャー の 推薦 だった
   とされる 。これらのことから 非公式の外交顧問 になっていると 目されている 。

    2016年12月には 、訪中して 習近平国家主席( 党総書記 )と 北京で会談し 、
   タイミング的に 勝利した トランプ新政権の対中外交方針を伝えた ものとされて
   いる 。2017年5月10日には 、ホワイトハウス大統領執務室にて 報道陣と応対 、
   トランプ が『 キッシンジャー氏と議論ができて光栄だ 』とコメントしている 。
    同年7月に ティラーソン国務長官に対して『 米中は 北朝鮮の政権崩壊に向けて
   在韓米軍撤退を事前合意すればよい 』と提言した とされ 、同年8月には ウォー
   ル・ストリート・ジャーナルで『 北朝鮮問題は 専ら米中で解決すべき 』とする
   寄稿を行った 。同年10月10日には 、トランプは 日中韓3か国への初のアジア
   歴訪に備えて キッシンジャーと会談した際に『 キッシンジャー氏を尊敬して
   いる 』と発言した 。

    2017年6月29日 、ロシアを訪問して ウラジミール・プーチン大統領 と会談 。
   その直後 、ホワイトハウスは 同年7月に 米露首脳会談を実施すること を発表
   したことから 、ロシアの報道機関は キッシンジャーが調整役を担った との見
   方を示した 。2016年2月にも プーチン の招待 で 訪露していた


    2020年1月15日 、米中貿易戦争の打開に向けて結ばれた 米中経済貿易協定 の
   署名式 では 同じく中国と関わりの深い ラスベガス・サンズ 会長兼CEO の シェ
   ルドン・アデルソン や ブラックストーン・グループ CEO の スティーブン・
   シュワルツマン らとともに出席した 。

    2020年11月25日 、トランプ政権の クリストファー・ C・ミラー国防長官代行 は
   国防総省の諮問機関である 国防政策委員会( 英語版 )から キッシンジャーら 11
   人の委員を解任し 、同年12月15日に 対中強硬派の マイケル・ピルズベリー を新
   たな委員長とする人事刷新を行った 。

    2021年3月 、リチャード・ニクソン財団主催のセミナーに出席し 、2020年アメリカ
   合衆国大統領選挙で当選した ジョー・バイデン大統領 に対して アブラハム合意 など
   対イランで イスラエルの防衛を強化したトランプ前大統領の中東政策を継承すること
   を助言した 。」

  「 2022年5月24日 、スイスのダボスで開催された 世界経済フォーラム での ビデオ講演
   で 、早期にロシアとの戦争を終わらせるために ウクライナがロシアに領土を割譲すべ
   き と発言した 。これに対し 、ウクライナ側は反発 、ウォロディミル・ゼレンスキー
   大統領の ミハイロ・ボドリャク顧問 は『( ロシアによる )ポーランド 、あるいは
   リトアニア の奪取も許すのだろう 』と厳しく非難した 。また ロシア国営通信社 の
   RIAノーボスチ も『 ウクライナが 少しでもロシアに領土を割譲するような和平は
   ありえない 』との見通し を述べている 。発言当日 、アメリカの ロイド・オース
   ティン国防相 は『 われわれとしては 、ウクライナ国民が 自らの目標を確実に達成
   できるよう 、あらゆる支援を行うという方針を貫く つもりだ 』『 結局のところ 、
   これがどうなるのか 、終結状態がどのようなものになるかは 、ウクライナ国民に
   よって決められるものであり 、われわれが決めることではない 』と記者会見で述
   べている 。ゼレンスキー大統領 は 翌25日の動画メッセージで 、ロシアによる民間
   人への攻撃・虐殺 や 都市の破壊 、そして 避難民を選別キャンプで選別し 、殺害や
   拷問を行っていることをあげたうえで 、『 キッシンジャー氏のカレンダーは 2022
   年ではなく 1938年のままであり 、ダボスではなく 当時のミュンヘンの聴衆に向け
   話をしていると考えているようだ 』と キッシンジャーが ナチスドイツの迫害を受け
   て アメリカに移住したことにも触れている
。」

  「 日本に関して
    日本については 、経済大国である以上 政治・安全保障両面でも 大国として台頭し
   ようとする欲求を持つだろう との見方を 一貫して示している 。特に 、1971年の
   周恩来との会談で 日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が 日本の『 軍国主義 』
   回帰を抑えており 、同盟関係を解消すれば 日本は手に負えない行動を取り始める と
   警戒感を示した『 瓶の蓋 』論 は有名である 。冷戦後間もない時期の著書である
   『 外交』でも 将来 日本が政治的に台頭するとの予測を示した 。2008年1月放送の
   『 日高義樹のワシントン・リポート 』でも変わらず 、『 日本は10年後に強力な
   軍隊を保有しているだろう 』と述べ 、日本の核武装 や 憲法改正 については『 日本
   が決めることだ 』と発言している


    佐藤栄作首相の密使として 沖縄返還交渉に当たった 若泉敬の著書『 他策ナカリシヲ
   信ゼムト欲ス 』( 1994年 )によると 、キッシンジャー は 1969年11月に 、『 返還
   後も 緊急事態の際に 事前通告により 沖縄に核兵器の持ち込み および 通過を認める
   権利 』を要求 、若泉との交渉により『 事前通告 』を『 事前協議 』とすることで諒
   解したという 。この条項を含む 密約 の存在について 、1995年に NHKの取材を受け
   た キッシンジャー は 、『 お国( 日本 )の政府に聞きなさい 』と 返答を拒んだ 。
    その後 、2007年に 信夫隆司・日本大学教授 による アメリカ国立公文書記録管理局
   での 機密解除公文書調査 で 、キッシンジャー が 1969年11月19日 から 21日 にかけ
   ての 日米首脳会談のために ニクソンに宛て作成した 、核密約締結手順 を 記載した
   メモ が発見されている


    田原総一朗 に 日本への原子爆弾投下について インタビューされたことがあり 、
   『 あなた方は 広島と長崎に原爆を落とした 。そして まったく何の罪もない一般市民
   を大量に殺した 。この責任を アメリカは どうとるつもりなのか 』と聞いたら 、
   キッシンジャー は 『 広島と長崎に原爆を落とさなければ 日本は 本土決戦をやる
   つもりだった 。本土決戦で 何百万人 、あるいは 一千万人以上の日本人が亡くなる
   はずだった 。原爆を落とすことで その人数を かなり減らしたんだから 、むしろ
   日本はアメリカに感謝すべきだ 』と 答えたという
。」

   ( 中 略 )

  「 評 価
    キッシンジャー が ニクソン政権で推進した外交の特徴は その 現実主義( リアリズム )
   にあった 。これは イデオロギーの代わりに アメリカの実益として国益を外交の中心に
   据え 、世界的なバランス・オブ・パワーに配慮しつつ 、国際秩序をアメリカにとって
   受け入れられる形の安定へと導くこと を目的としていた 。このような国際秩序像の背
   景には かつてキッシンジャーが研究し 、その安定性を高く評価していた ウィーン体制
   が 一つのモデルとして存在していたことが 、多くの研究で指摘されている 。
   キッシンジャーらの発想は 冷戦時代の恐怖の均衡という冷酷な現実の中で 、従来 アメ
   リカが 基本的国策 としていた 孤立主義 と 理想主義 という 極端な外交の二分化 が もは
   や機能しなくなったことを端的に表すものだった 。

    キッシンジャーの推進した デタント政策 は 、ベトナム戦争からの脱出 という短期的な
   意味と 、米ソという二つの超大国間の対立 という 約20年間 継続されてきた従来の冷戦
   構造 に 、当時 朝鮮戦争や中ソ国境紛争を経て 3つの世界論 に基づく第三世界という立場
   で 米ソと敵対した 中華人民共和国 を『 第三勢力 』として 新たなプレイヤー に組
   み入れること( 『 米中ソ三角関係 』などとも評される )、ソ連が 核戦力の面で アメ
   リカ と対等な立場にあること を 明示的に認めることによって 、大国間の勢力バランス
   を現状に即したものへと 安定的に再編成するという、長期的な意味を持った戦略の組み
   合わせだった


    キッシンジャー は 、国家安全保障担当補佐官時代から 国務長官( 1973年8月23日 指名 )
   時代に至るまで 、その独特な風貌 や ドイツ風のアクセント 、さまざまなパーティで 有名
   女優を同伴して登場する などの 派手なパフォーマンス 、日本で『 忍者外交 』などと
   形容された 神出鬼没の外交スタイル 、さらに ベトナム戦争終結への貢献によるノーベル
   平和賞受賞 などといった さまざまな理由から 、歴代の前任者たちとは比較にならない
   ほど目立つ存在だった 。1972年後半には『 もし キッシンジャーが 今死んだら 、ニクソン
   が アメリカ大統領 になるんだ 』というジョークが広まったほどだった 。
    今日では『 ドクター・キッシンジャー 』は 20世紀後半を代表する外政家 とする認識が
   一般的である。
    しかし 、このような『 外交の達人 』という一般的な評価は 、キッシンジャーが 国務長官
   退任後 繰り返し発表してきた 著書 や 回想録 に拠るところが大きく 、前記の 若泉敬 は
   『 キッシンジャーの回想録を鵜呑みにするな 』と語っている 。

    近年では ニクソン外交の実態について 、公開された文書史料をもとに『 外交政策の構
   想者・決定者は 、外交通だった大統領・ニクソンであり 、キッシンジャーは そのメッ
   センジャー・ボーイ に過ぎなかった 』などとし 、ニクソンの比重をより重く見る研究
   も現れている 。

    冷徹なリアリストとして 軍事介入 や 秘密工作 も辞さなかったことから 、ベトナム戦
   争時のカンボジア侵攻 、チリ・クーデターの画策 、インドネシアによる東ティモール
   占領への協力を指揮した キッシンジャー に対して 、クリストファー・ヒッチンス や
   シーモア・ハーシュ らは『 人道に対する罪 』『 戦争犯罪人 』として糾弾した 。」

  「 家庭生活
    高校時代 、アン・フライシャー( Ann Fleische r)と知り合い 交際をしていたが 、
   戦争の影響でしばらく疎遠となった2人が結婚したのは 1949年2月6日 で 、ヘンリ
   ー が 25歳 、アン が 23歳だった 。結婚式は ワシントンハイツにある ヘンリー
   のアパートで行われ 、12名ほどが出席した 。ユダヤ教正統派に則って式が行わ
   れた 。長女が1959年 、長男が1961年に 生まれたが 、1963年 別居状態となり 、
   1964年に離婚する 。
    その後 アンは 女性解放運動 に参加 。1973年に 化学者の ソール・コーエン( Saul
   Cohen )と 再婚 。一方の キッシンジャー は 1974年 、ハーバード時代の教え子で
   ネルソン・ロックフェラーの秘書 だった ナンシー・シャロン・マギネス( Nancy
   Sharon Maginnes 、1934年生まれ )と再婚した 。式には 前妻との2人の子供も
   出席した 。

    キッシンジャーは 離婚から再婚までの間に 少なからぬロマンスを報じられていた
   こともあり 、この際 UPI通信 は 、『 浮名を流したヘンリー年貢を納める( Swinging
   Henry Ends His Days of Bachelorhood
)』と報じている 。

   逸 話
    歴代国務長官の肖像画を省内に飾る予定で キッシンジャーの肖像画 を ガードナー・
   コックスに依頼したが 、背を低めに 寸詰まりに描写された と 本人はいたく気に病み 、
   描き直しの要請までしたが 、コックスは そのままでいいと相手にしなかった 。
    ただし コックスにも 製作料が払われず 、喧嘩両成敗となった模様 。
    強いドイツ訛りの英語について聞かれた時『 私は 外国語を流暢に話す人間を信用
   しない 』と切り返したことがある 。
    国連難民高等弁務官事務所のテレビCMでは 、ソ連から亡命した ルドルフ・ヌレエ
   フ や 、同じドイツからの亡命者の マレーネ・ディートリヒ とともに 、身近にいる
   難民( 亡命者 )の例として紹介されている 。
    テレビ東京の番組『 日高義樹のワシントン・リポート 』に 年1回出演し 、1月に
   放送されるのが恒例であった 。
    愛人として ハリウッド女優の ジル・セント・ジョン( IQ162 、14歳で飛び級で
   UCLA に入学 )の名前が 挙がったこともある 。
   1972年の 田中角栄首相の日中国交正常化交渉 について " Jap " の語を用いて批難
   した 。
    1972年に チェスプレイヤー の ボビー・フィッシャー が 当時の世界チャンピオン
   の ボリス・スパスキー に挑戦するにあたり 、フィッシャー に激励の電話をかけて
   いる 。
    スティーブ・ウォズニアック は 自ら開発した ブルーボックス( 英語版 )を使い
   キッシンジャー を騙って バチカンに電話をかけ 、当時の ローマ教皇パウロ6世 を
   呼び出したところ 、担当者から『 就寝中なので 今から起こす 』と言われ 慌てて
   電話を切ったという 。 」

  引用おわり 。

  " A leopard cannot change its spots . "
  政界に限らず 、「 死してのち已む人 」、「 無視するとすぐ怒る人 」が 多いのは 困りもの 。

  梅雨間近 、そろそろ 虫コナーズ プレミアム とか 買ってこようかしら 。
  キンチョーのラジオCM が 面白い 。

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