「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

耳がいい Long Good-bye 2022・06・30

2022-06-30 04:35:00 | Weblog


  今日の「 お気に入り 」は 、どこかのサイトで見かけた お言葉 の 数々 。

  ・「 かっこいいと思う物しか周りに置かない 。」

  ・「 面白いわよねぇ 、世の中って 。『 老後がどう 』『 死はどう 』って 、
    頭の中で こねくりまわす世界よりも はるかに大きくて 。
     予想外の連続よね 。
     楽しむのではなくて 、面白がることよ 。楽しむというのは 客観的
    でしょう 。中に入って面白がるの 。面白がらなきゃ 、やってけない
    もの 、この世の中 。」

  ・「 靴下でも シャツでも 最後は掃除道具として 、最後まで使い切る 。
     人間も 、十分生きて自分を使い切ったと思えることが 、人間冥利に
    尽きるということだと思う 。自分の最後だけは 、きちんと シンプル
    に 始末することが 最終目標 。」 ( 樹木希林 )

  ( 筆者註 : 「 樹木 希林( きき きりん 、1943年1月15日 - 2018年9月15日 )
     は 、日本の女優 。戸籍名:内田 啓子( うちだ けいこ ) 、
     旧姓:中谷( なかたに)。旧芸名: 悠木 千帆( ゆうき ちほ 、
     ( 初代 )

     東京府東京市神田区( 現・東京都千代田区 )出身 。
     2番目の夫は 内田裕也 。間に 娘・内田也哉子 がいる 。夫とは
     長く別居を続けていた 。
      父は 薩摩琵琶奏者・錦心流 の 中谷襄水( 辰治 )( 1917〜89 ) 。
      妹も 薩摩琵琶奏者 の 荒井姿水( 昌子 )。その息子も 薩摩
     琵琶奏者の 荒井靖水 。 」
    「 父は 若い頃は 警察官 で 希林が 幼稚園の頃は 会社勤め をして
     おり 、収入目的ではなく趣味で 薩摩琵琶奏者 をしていた 。
     警察官時代は 神田界隈を管轄としていて 、神田神保町でカフェ
     『 東宝 』を経営していた母と知り合い結婚 。父は 結婚後に
     カフェの主人になり 、一種のヒモであった 。母は 父より7歳上
     で 、二人の先夫との間には それぞれ一人ずつ子があった 。母は
     横浜市中区野毛に 料理店『 叶家 』を開いており 、樹木にとって
     母方の実家にあたる 。
      千代田女学園 に入学後は 演劇部に在籍 するとともに 、食いっ
     ぱぐれのないようにと 薬剤師 を目指していたが 、数学ができず
     大学受験にあまり気乗りしていなかった 。受験直前も そのよう
     な状況であったため 、気晴らしとしてスキーをしに 、友人の
     いる夕張へと向かう父について行くことになった 。しかし 、
     地元の子たちと滑っているうちに尻餅をつき 、足を骨折した
     ため 、大学受験を断念せざるをえなくなった 。このとき 、
     学校の卒業式にも出席できず 、新たな一歩を踏み出そうと
     している同級生と 家でじっとしている自分を比べて 、絶望
     感や疎外感を抱えていたという 。
      そんなとき 、戦後 初めて 三大劇団 が 研究生を募集してい
     る旨の記事を新聞で見つけ 、どこか毎日通えるような学校は
     ないかと考えていた希林は 願書を取り寄せることにする 。
      文学座 、俳優座 、民藝 の順番で試験があり 、一番早かっ
     た文学座の試験のみを受けた 。一次試験は 約千人いたが 、
     二次も通り 、1961年に 文学座一期生 として 付属演劇研究
     所に入る

      長岡輝子 からは 、『 あんたはね 、耳がいいから入った
     のよ 』『 自分のセリフだけ覚えて言うんじゃなくて 、人
     のセリフを聞いてる 』というように 、『 耳がいい 』こと
     が合格の理由であると説かれた 。」
    「『 悠木千帆 』名義で 女優活動をスタートする 。この芸名は
     『 芸能界では “ 勇気 ” が必要 』として父親が考案し( 最初
     は 、勇気凜々という言葉から『悠木凜子』という名を提案
     された )、千帆は 版画家の前川千帆から採られた 。当時は
     後年のイメージからは想像しづらい若者ファッションで街を
     闊歩していた 。文学座研究所では『 あんた 、勘のいい子
     ねッ 、来てちょうだい 』と 杉村春子の付け人 を務め 、
     1962年の小津安二郎監督『 秋刀魚の味 』の撮影に同行 。
      1963年 、文学座の分裂で 、杉村から『 あんた残ってちょう
     だい 』と頼まれ 、1965年に 文学座の正座員 となるが 、
     1966年に 文学座を退団
。1964年に 森繁久彌主演のテレビ
     ドラマ『 七人の孫 』にレギュラー出演し 、一躍人気を獲得
     した 。 」
    「 樹木は『 それまで新劇にいて まじめな芝居しかやってこな
     かったんで 、森繁さんが 本なんか無視して 、どんどんその
     場でつくっていく面白さに洗礼を受けました 。森繁さんと
     杉村さんの違いは 、森繁さんは 自分で表現していこうとす
     る人 、杉村さんは もう書かれた台詞を言う 。結果 、名作
     が残ったんですよね 。この二つを同時代に同時に見てきた
     わけですから 、両方のいいとこを取り入れていけば 、まだ
     食っていけるという感じはします 』と話していた ( この
     影響からか 、遅筆で有名だった向田邦子に痺れをきらして
     激怒し『 筋だけ書いてよ 、後はこっちでなんとかする 』と
     発言して大喧嘩に発展した事もあった )。2008年の是枝裕
     和監督『歩いても 歩いても』でキネマ旬報ベスト・テン助
     演女優賞を受賞した際の『キネマ旬報』のインタビューでは 、
    『 映画は脚本が第一 、監督が二番目 、三番目が映像で 、役
     者はその後ですよ 。優れた監督と出会ったら 、何も変な
     ことをする必要はない 。遅いけど 、監督に何も文句を言わ
     なかった杉村さんの良さが 今になって分かりました 』と話
     した 。 」
    「 なお 、樹木の死から約半年後の2019年3月17日 、夫の内田
     も死去した 。 」

     以上 ウィキ情報 。 )




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