今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。
備忘のため 、「 捨聖(すてひじり)一遍 」と題
された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。
一遍上人の話柄 、読み進み 、読み返しつつ 、
書き写す 。
引用はじめ 。
「 この信州佐久平へ発つ前 、なにげなく『 一遍
上人絵伝 』( 鎌倉末に成立 ) をながめていると 、
一遍が信州へ出かけている 。
一遍が京より信濃にくだったのは弘安二( 1279 )
年で 、元寇の再来の二年前である 。八月 、善光
寺に参籠し 、その後 、しばらく信濃路を歩いて
ひとびとに念仏をすすめた 。
一遍の本質は 、むろん念仏にある 。その念仏
は 、その師といえばいえる法然より思想的に徹
底し 、また『 念仏を申すひと 』としての言動
は芸術性をもっていたという点で法然よりも豊潤
で 、さらには念仏を勧めあるく聖(ひじり)とし
ての生涯も 、その思想に苛烈なほどに忠実だっ
たという点で 、諸事おだやかな日常を好む法然
の及びがたいところだった 。
法然は 、流罪に遭ったとき以外は 、寺住いを
欲した 。それもほとんど京にいた 。しかし一遍
はたえず諸国を遊行(ゆぎょう)し 、一所にとど
まらなかった 。
聖と鹿とは 、里にひさしくありて難にあふ 。
と 、前記の絵巻物の詞(ことば)にあるが 、一
遍が生前自戒のためにたえず言っていたことば
かもしれない 。聖というのは 、僧として無位
無官の乞食僧のことであることはすでに『 高野
山みち 』のくだりでふれた 。聖という存在が
日本の思想史に重要な位置を占めることも 、す
でにふれたかと思うが 、そのなかでも一遍がも
っとも巨大かもしれない 。かれはみずから『 捨
聖( すてひじり )』といった 。南無阿弥陀仏
のほかは 、生涯捨てに捨てたこの人物は 、死に
臨んで自分の法義を書いたものさえ焼きすてた 。
かといって 、およそみずから誇ることのなかっ
たこの人物は 、捨聖であるという自分の生き方
さえ誇らず 、『 一切を捨ててやっと往生できる
というのは 、自分が下根(げこん)であるからだ 』
といっている 。
念仏の機に三品(さんぼん)あり 。上根(じゃう
こん)は妻子を帯し家に在りながら 、著(ちやく)
せず(註・執着せず)して往生す 。
というのは 、同時代人である親鸞の生活形態が
それにあてはまるかもしれない 。法然は 、不犯
(ふぼん)の人で 、生涯妻帯しなかった 。強いて
あてはめれば 、
中根(ちゆうこん)は妻子をすつるといへども 、
住処と衣食を著して往生す 。
が 、法然の形態に近いかもしれない 。これらに
対し 、一遍は 、『 我等は下根(げこん)のものな
れば 』として 、
一切を捨てずば定めて臨終に諸事を著して往生を
し損ずべきなり 。
と 、いう(『 一遍上人語録 』)。名利(みょうり)
や妻子はおろか 、学問も 世俗的な勢力への野望も 教
線を張るという望みも 、すべて捨てる 。捨てると
いう主体であるおのれをさえ捨て 、ただ南無阿弥陀
仏ということのみに化(か)さなければ 、下根の自
分は往生しがたい 、という 。これを下根といって
卑下する一遍に 、法然や親鸞に見られないすさまじ
さがある 。
ともかくも 、一遍が佐久平に入ったのは 、すでに
捨聖としての境地を確立した四十一歳のときであっ
た 。五十一歳で生を畢(おえ)たかれとしては 、晩
年といっていい 。」
引用おわり 。
神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院 「 清浄光寺 」
(しょうじょうこうじ)( 通称 遊行寺 ) の緑青色の屋根
を遠くに望みつつ 、本書を読んでいる 。遊行寺の近く
で 、「 街道をゆく 」の捨聖 一遍上人が登場するくだり
を読んでいるのも 、何かのご縁あってのことか 。
。。(⌒∇⌒); 。。
( ついでながらの
筆者註:「 一遍(いっぺん 、英語: IPPEN)は 、鎌
倉時代中期の僧侶 。時宗の開祖 。全国各
地で賦算(ふさん)と呼ばれる『 念仏札 』
を渡し 、踊りながら南無阿弥陀仏(念仏)
と唱える『 踊り念仏 』を行った 。徹底
的に自身の所有物を捨てたことで『 捨聖
(すてひじり)』とも呼ばれた 。
一遍は 、承久3年(1221年)の承久の乱に
より没落した伊予国(愛媛県松山市)の豪
族の河野家の次男として延応元年(1239年)
に生まれる 。宝治2年(1248年)に10歳よ
り仏門に入り 、建長3年(1251年)からは
太宰府の聖達上人の元で 、浄土教を学ん
だ 。弘長2年(1262年)に父の訃報を受け
ると 、一度故郷に帰り 、半僧半俗の生活
を続けていたが 、文永8年(1271年)に33
歳で再出家し 、文永11年(1274年)より
全ての財産を捨て一族とも別れ 16年間の
遊行の旅に出る 。」
「 旅ころも 木の根かやの根 いづくにか
身の捨られぬ 処あるべき 」
以上ウィキ情報 。)