「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

すてひじり Long Good-bye 2024・12・03

2024-12-03 05:11:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り」 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

  連載されたもの 。

   備忘のため 、「 捨聖(すてひじり)一遍 」と題

  された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   一遍上人の話柄 、読み進み 、読み返しつつ 、

  書き写す 。

   引用はじめ 。

  「 この信州佐久平へ発つ前 、なにげなく『 一遍
   上人絵伝 』(  鎌倉末に成立  ) をながめていると 、
   一遍が信州へ出かけている 。
    一遍が京より信濃にくだったのは弘安二( 1279 )
   年で 、元寇の再来の二年前である 。八月 、善光
   寺に参籠し 、その後 、しばらく信濃路を歩いて
   ひとびとに念仏をすすめた 。
    一遍の本質は 、むろん念仏にある 。その念仏
   は 、その師といえばいえる法然より思想的に徹
   底し 、また『 念仏を申すひと 』としての言動
   は芸術性をもっていたという点で法然よりも豊潤
   で 、さらには念仏を勧めあるく聖(ひじり)とし
   ての生涯も 、その思想に苛烈なほどに忠実だっ
   たという点で 、諸事おだやかな日常を好む法然
   の及びがたいところだった
    法然は 、流罪に遭ったとき以外は 、寺住いを
   欲した 。それもほとんど京にいた 。しかし一遍
   はたえず諸国を遊行(ゆぎょう)し 、一所にとど
   まらなかった 。

    聖と鹿とは 、里にひさしくありて難にあふ 。

    と 、前記の絵巻物の詞(ことば)にあるが 、
   遍が生前自戒のためにたえず言っていたことば
   かもしれない聖というのは 、僧として無位
   無官の乞食僧のことであることはすでに『 高野
   山みち 』のくだりでふれた 。聖という存在が
   日本の思想史に重要な位置を占めることも 、す
   でにふれたかと思うが 、そのなかでも一遍がも
   っとも巨大かもしれない 。かれはみずから『
   聖( すてひじり )』といった 。南無阿弥陀仏
   のほかは 、生涯捨てに捨てたこの人物は 、死に
   臨んで自分の法義を書いたものさえ焼きすてた
    かといって 、およそみずから誇ることのなかっ
   たこの人物は 、捨聖であるという自分の生き方
   さえ誇らず 、『 一切を捨ててやっと往生できる
   というのは 、自分が下根(げこん)であるからだ
   といっている 。

    念仏の機に三品(さんぼん)あり 。上根(じゃう
    こん)は妻子を帯し家に在りながら 、著(ちやく)
    せず(註・執着せず)して往生す

    というのは 、同時代人である親鸞の生活形態が
   それにあてはまるかもしれない 。法然は 、不犯
   (ふぼん)の人で 、生涯妻帯しなかった 。強いて
   あてはめれば 、

    中根(ちゆうこん)は妻子をすつるといへども 、
    住処と衣食を著して往生す 。

    が 、法然の形態に近いかもしれない 。これらに
   対し 、一遍は 、『 我等は下根(げこん)のものな
   れば 』として 、

    一切を捨てずば定めて臨終に諸事を著して往生を
    し損ずべきなり 。

    と 、いう(『 一遍上人語録 』)。名利(みょうり)
   や妻子はおろか 、学問も 世俗的な勢力への野望も 教
   線を張るという望みも 、すべて捨てる 。捨てると
   いう主体であるおのれをさえ捨て 、ただ南無阿弥陀
   仏ということのみに化(か)さなければ 、下根の自
   分は往生しがたい 、という 。これを下根といって
   卑下する一遍に 、法然や親鸞に見られないすさまじ
   さがある
    ともかくも 、一遍が佐久平に入ったのは 、すでに
   捨聖としての境地を確立した四十一歳のときであっ
   た 。五十一歳で生を畢(おえ)たかれとしては 、晩
   年といっていい 。」

    引用おわり 。

    神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院 「 清浄光寺 」

   (しょうじょうこうじ)( 通称 遊行寺 ) の緑青色の屋根

   を遠くに望みつつ 、本書を読んでいる 。遊行寺の近く

   で 、「 街道をゆく 」の捨聖 一遍上人が登場するくだり

   を読んでいるのも 、何かのご縁あってのことか 。

   

   。。(⌒∇⌒); 。。

   ( ついでながらの

    筆者註: 一遍(いっぺん 、英語: IPPEN)は 、鎌
        倉時代中期の僧侶 。時宗の開祖 。全国各
        地で賦算(ふさん)と呼ばれる『 念仏札 』
        を渡し 、踊りながら南無阿弥陀仏(念仏)
        と唱える『 踊り念仏 』を行った 。徹底
        的に自身の所有物を捨てたことで『 捨聖
        (すてひじり)』とも呼ばれた 。

         一遍は 、承久3年(1221年)の承久の乱に
        より没落した伊予国(愛媛県松山市)の豪
        族の河野家の次男として延応元年(1239年)
        に生まれる 。宝治2年(1248年)に10歳よ
        り仏門に入り 、建長3年(1251年)からは
        太宰府の聖達上人の元で 、浄土教を学ん
        だ 。弘長2年(1262年)に父の訃報を受け
        ると 、一度故郷に帰り 、半僧半俗の生活
        を続けていたが 、文永8年(1271年)に33
        歳で再出家し 、文永11年(1274年)より
        全ての財産を捨て一族とも別れ 16年間の
        遊行の旅に出る 。」

       「 旅ころも 木の根かやの根 いづくにか
               身の捨られぬ 処あるべき

        以上ウィキ情報 。)

 

  

 

  

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