今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝
日」に連載されたもの 。
備忘のため 、「 望月の御牧(みまき) 」と題された小
文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。
信州は 、「 望月の御牧 ( 官牧 ) 」のお話 。
引用はじめ 。
「 清少納言の『 枕草子 』に 、
駅(むまや)は 梨原(なしはら)。望月
(もちづき)の駅(むまや)。山の駅は 、
あはれなりしことを聞きおきたりし
に 、またもあはれなることのありし
かば 、なほとりあつめてあはれなり 。
と 、ある 。
この駅(むまや)は 、律令制における官道の
宿駅のこと 。宿駅には馬や人夫が置かれて旅
人のもとめに応じ 、つぎの駅まで乗り継ぎさ
せる 。右の文章にある梨原の駅は近江(おう
み)にあり 、望月の駅というのは 、いうまで
もなく信濃(しなの)にある 。山の駅というの
はどこにあるのか未詳だが 、文章の後半は山
の駅について書かれていて『 深くしみじみと
心ひかれることをきいていたが 、また別な話
をきき 、かさねがさね心のひかれることであ
る 』という 。梨原や信濃の望月の駅につい
てはどういう説明もされていないが 、要する
に『 あはれ 』ということであろうし 、あは
れ という語意には景色のよさということも 、
重要な要素として入っているに相違ない 。
かといって清少納言が信州に来たとは思えな
い 。
彼女は 、中宮定子(ていし)に仕えた 。宮廷
での話題のひとつは 、諸国の名所についてで
あろう 。国々へ受領(ずりょう)としてくだっ
た者やそれに随行した者などが 、国々の名所
についてのみやげ話を持ちかえるために 、京
においては女官でさえ諸国の地理についての
知識を相当持っていたと思われる 。
『 駅は数あるが 、信濃なる望月の駅の御牧
(みまき)ケ原の景色がもっともよく 、秋の夕
暮など 、草遠き原に駒の群れるあり 、散る
あり 、蓼科(たでしな)のふもとに黄葉(もみ
じ)して 、その風情(ふぜい)はえもいわれな
い 』
などと 、地方に馴れた男どもが 、旅をせぬ
宮廷の女官たちになによりもの話のたねとし
て語ったにちがいなく 、自然 、清少納言の
脳裏に望月の駅の景色がありありと浮かぶよ
うになっていたのであろう 。」
「 平安朝までの公家(くげ)政権が 、奥羽の地
を十分に掌握していたとはいわれないという
ことについては 、すでに触れた 、自然 、
日本第一等の良馬を産する奥羽には御牧(官牧)
がなく 、このため官牧にあっては信濃の馬 、
とくに望月の馬がもっともよいとされた 。
御牧の管理をする者は 、千曲川の流れの両側
で農場をひらいている者たちである 。それら
はやがて武士として成長してゆく 。
木曽に住む木曽義仲は 、手勢といってもわず
かだった 。旗あげに際し 、かれはわざわざ東
信の佐久平までやってきて 、千曲川畔で兵を
あつめた 。かれが佐久平をもって挙兵の地と
した理由は 、一つには馬を獲るためであった
であろう 。騎兵をもって圧倒すれば平家軍は
かならずしもおそるるに足りない 。そういう
軍事的な知恵は 、当時 、東国のつわものども
にとって 、ごく常識的なものであったかと思
える 。」
「 依田の城というのは上田の南にあり 、千曲川
に流れこむ依田川の岸にあった 。いま依田と
いう地名はないが 、依田川という河川名はあ
る 。このあたりを本拠にすれば 、いまの軽井
沢付近の長倉の御牧はもとより 、望月の御牧
の馬もことごとくおさえることができる 。
『 馬の産地さえ制すれば 』
というつもりが 、木曽義仲にあったにちがい
ない 。義仲は 、鎌倉の頼朝からみれば源氏の
傍流である 。たがいに競立する立場にあった 。
頼朝にとって義仲は無用有害の存在であり 、
共通の敵である平家よりも むしろ分派の状況に
ある 味方 をほろぼさねばならない 。このこと
は一つの敵を共有する在野党の宿命的な生態な
のかもしれない 。」
引用おわり 。
。。(⌒∇⌒);。。
司馬遼太郎さん の 紀行文「 街道をゆく 9 」の「 信州
佐久平みち 」の筆写は 、ここまで 。