「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

もののあはれ Long Good-bye 2024・12・14

2024-12-14 05:28:00 | Weblog

 

   今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため  、「 望月の御牧(みまき) 」と題された小

  文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州は 、「 望月の御牧 ( 官牧 ) 」のお話 。

   引用はじめ 。

  「 清少納言の『 枕草子 』に 、

     駅(むまや)は 梨原(なしはら)。望月
     (もちづき)の駅(むまや)。山の駅は 、
     あはれなりしことを聞きおきたりし
     に 、またもあはれなることのありし
     かば 、なほとりあつめてあはれなり 。

    と 、ある 。

    この駅(むまや)は 、律令制における官道の
   宿駅のこと 。宿駅には馬や人夫が置かれて旅
   人のもとめに応じ 、つぎの駅まで乗り継ぎさ
   せる 。右の文章にある梨原の駅は近江(おう
   み)にあり 、望月の駅というのは 、いうまで
   もなく信濃(しなの)にある 。山の駅というの
   はどこにあるのか未詳だが 、文章の後半は山
   の駅について書かれていて『 深くしみじみと
   心ひかれることをきいていたが 、また別な話
   をきき 、かさねがさね心のひかれることであ
   る 』という 。梨原や信濃の望月の駅につい
   てはどういう説明もされていないが 、要する
   に『 あはれ 』ということであろうし 、あは
   れ という語意には景色のよさということも 、
   重要な要素として入っているに相違ない 。
    かといって清少納言が信州に来たとは思えな
   い 。

    彼女は 、中宮定子(ていし)に仕えた 。宮廷
   での話題のひとつは 、諸国の名所についてで
   あろう 。国々へ受領(ずりょう)としてくだっ
   た者やそれに随行した者などが 、国々の名所
   についてのみやげ話を持ちかえるために 、京
   においては女官でさえ諸国の地理についての
   知識を相当持っていたと思われる 。
   『 駅は数あるが 、信濃なる望月の駅の御牧
   (みまき)ケ原の景色がもっともよく 、秋の夕
   暮など 、草遠き原に駒の群れるあり 、散る
   あり 、蓼科(たでしな)のふもとに黄葉(もみ
   じ)して 、その風情(ふぜい)はえもいわれな
   い
    などと 、地方に馴れた男どもが 、旅をせぬ
   宮廷の女官たちになによりもの話のたねとし
   て語ったにちがいなく 、自然 、清少納言の
   脳裏に望月の駅の景色がありありと浮かぶよ
   うになっていたのであろう 。」

  「 平安朝までの公家(くげ)政権が 、奥羽の地
   を十分に掌握していたとはいわれないという
   ことについては 、すでに触れた 、自然 、
   日本第一等の良馬を産する奥羽には御牧(官牧)
   がなく 、このため官牧にあっては信濃の馬 、
   とくに望月の馬がもっともよいとされた 。
    御牧の管理をする者は 、千曲川の流れの両側
   で農場をひらいている者たちである 。それら
   はやがて武士として成長してゆく 。
    木曽に住む木曽義仲は 、手勢といってもわず
   かだった 。旗あげに際し 、かれはわざわざ東
   信の佐久平までやってきて 、千曲川畔で兵を
   あつめた 。かれが佐久平をもって挙兵の地と
   した理由は 、一つには馬を獲るためであった
   であろう 。騎兵をもって圧倒すれば平家軍は
   かならずしもおそるるに足りない 。そういう
   軍事的な知恵は 、当時 、東国のつわものども
   にとって 、ごく常識的なものであったかと思
   える 。」

  「 依田の城というのは上田の南にあり 、千曲川
   に流れこむ依田川の岸にあった 。いま依田と
   いう地名はないが 、依田川という河川名はあ
   る 。このあたりを本拠にすれば 、いまの軽井
   沢付近の長倉の御牧はもとより 、望月の御牧
   の馬もことごとくおさえることができる 。
   『 馬の産地さえ制すれば 』
    というつもりが 、木曽義仲にあったにちがい
   ない 。義仲は 、鎌倉の頼朝からみれば源氏の
   傍流である 。たがいに競立する立場にあった 。
   頼朝にとって義仲は無用有害の存在であり 、
   共通の敵である平家よりも むしろ分派の状況に
   ある 味方 をほろぼさねばならない 。このこと
   は一つの敵を共有する在野党の宿命的な生態な
   のかもしれない 。」

   引用おわり 。

  。。(⌒∇⌒);。。

   司馬遼太郎さん の 紀行文「 街道をゆく 9 」の「 信州

  佐久平みち 」の筆写は 、ここまで 。

 

   

   

   

 

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