いつの頃からか 、我に有利と見るや 、耳にした情報
を 、右から左へネットに流す人士が増えてきた 。
まるで愉快犯のように 、不特定多数が参加するSNS
を使って他人を炎上させて 、ひとり悦に入ってる感じ 。
俗に 、マッチポンプと言う 。
大人の「 見て見て 」言動にはうんざりさせられる 。
世の中 、自己顕示欲全開のひとが多いこと 、多いこ
と 。ジェンダーにかかわりなく 、承認欲求の強いこ
と 、強いこと 。年齢にかかわりなく見られる 現代人
の通弊 。
いくつになっても 、己が前にラッパを鳴らす人が
多いこと 、多いこと 。大人しく、ハムブルでいら
れないものか 、と思ってしまう 。
「 ラッパを鳴らす 」って表現 、どこで見たんだっけ
と考えていて 、思いだした 。最近読んだ 新約聖書の
文語訳 、「 マタイ傳福音書 」の第六章 第1節から
第18節の中にあったのだ 。
ご参考までに そのくだりを以下に引用 、「 ラッパを
鳴らす 」が出てくるのは はじめの方の 第2節 。
引用はじめ 。
「 第六章
1 汝(なんぢ)ら見(み)られんために己(おの)が義(ぎ)
を人(ひと)の前(まへ)にて行(おこな)はぬやうに心
(こころ)せよ 。然(しか)らずば 、天(てん)にいま
す汝(なんぢ)らの父(ちち)より報(むくい)を得(え)
じ 。
2 さらば施濟(ほどこし)をなすとき 、僞善者(ぎぜ
んしゃ)が人(ひと)に崇(あが)められんとて會堂(く
わいだう)や街(ちまた)にて爲(な)すごとく 、己(お
の)が前(まへ)にラッパを鳴(なら)すな 。誠(まこと)
に汝(なんぢ)らに告(つ)ぐ 、彼(かれ)らは既(すで)
にその報(むくい)を得(え)たり 。3 汝(なんぢ)は施
濟(ほどこし)をなすとき 、右(みぎ)の手(て)のなす
ことを左(ひだり)の手(て)に知(し)らすな 。4 是(こ
れ)はその施濟(ほどこし)の隱(かく)れん爲(ため)な
り 。さらば隠(かく)れたるに見(み)たまふ汝(なんぢ)
の父(ちち)は報(むく)い給(たま)はん 。」
ちょっと長いけど 、このまま引用を続ける 。
「 5 なんぢら祈(いの)るとき 、僞善者(ぎぜんしゃ)の
如(ごと)くあらざれ 。彼(かれ)らは人(ひと)に顯(あ
らは)さんとて 、會堂(くわいだう)や大路(おほじ)の
角(かど)に立(た)ちて祈(いの)ることを好(この)む 。
誠(まこと)に汝(なんぢ)らに告(つ)ぐ 、彼(かれ)ら
は既(すで)にその報(むくい)を得(え)たり 。
6 なんぢは祈(いの)るとき 、己(おの)が部屋(へや)
にいり 、戸(と)を閉(と)ぢて隱(かく)れたるに在(い
ま)す汝(なんぢ)の父(ちち)に祈(いの)れ 。さらば隱
(かく)れたるに見給(みたま)ふなんぢの父(ちち)は報
(むく)い給(たま)はん 。 7 また祈(いの)るとき 、異
邦人(いはうじん)の如(ごと)くいたづらに言(ことば)
を反復(くりかへ)すな 。彼(かれ)らは言(ことば)多
(おほ)きによりて聽(き)かれんと思(おも)ふなり 。
8 さらば彼(かれ)らに效(なら)ふな 、汝(なんぢ)ら
の父(ちち)は求(もと)めぬ前(さき)に 、なんぢらの
必要(ひつえう)なる物(もの)を知(し)りたまふ 。
9 この故(ゆゑ)に汝(なんぢ)らは斯(か)く祈(いの)
れ 。『 天(てん)にいます我(われ)らの父(ちち)よ 、
願(ねが)はくは御名(みな)の崇(あが)められん事(こ
と)を 。10 御國(みくに)の來(きた)らんことを 。
御意(みこころ)の天(てん)のごとく地(ち)にも行(お
こな)はれん事(こと)を 。11 我(われ)らの日用(に
ちよう)の糧(かて)を今日(けふ)もあたへ給(たま)
へ 。12 我(われ)らに負債(おひめ)ある者(もの)を
我(われ)らの免(ゆる)したる如(ごと)く 、我(われ)
らの負債(おひめ)をも免(ゆる)し給(たま)へ 。
13 我(われ)らを嘗試(こころみ)に遇(あ)はせず 、
惡(あく)より救(すく)ひ出(だ)したまへ 』
14 汝等(なんぢら)もし人(ひと)の過失(あやまち)
を免(ゆる)さば 、汝(なんぢ)らの天(てん)の父(ち
ち)も汝(なんぢ)らを免(ゆる)し給(たま)はん 。
15 もし人(ひと)を免(ゆる)さずば 、汝(なんぢ)ら
の過失(あやまち)を免(ゆる)し給(たま)はじ 。
16 なんぢら斷食(だんじき)するとき 、僞善者(ぎ
ぜんしゃ)のごとく 、悲(かな)しき面容(おももち)
をすな 。彼(かれ)らは斷食(だんじき)することを
人(ひと)に顯(あらは)さんとて 、その顔色(かほい
ろ)を害(そこな)ふなり 。誠(まこと)に汝(なんぢ)
らに告(つ)ぐ 、彼(かれ)らは既(すで)にその報(む
くい)を得(え)たり 。17 なんぢは斷食(だんじき)
するとき 、頭(かしら)に油(あぶら)をぬり 、顔
(かほ)をあらへ 。18 これ斷食(だんじき)すること
の人(ひと)に顯(あらは)れずして 、隱(かく)れた
るに在(いま)す汝(なんぢ)の父(ちち)にあらはれん
爲(ため)なり 。さらば隱(かく)れたるに見(み)た
まふ汝(なんぢ)の父(ちち)は報(むく)い給(たま)は
ん 。」
引用おわり 。
第6章 、結構気に入っている 。この章も 、一つ前の
第5章も「 山上の垂訓 」の一部であるが 、こうした
弟子や群衆を伴っての行動が 、時の権力者や批判の
対象となった 宗教指導者たち をいらだたせたであろ
うことは 、容易に想像がつく 。
新約聖書の文語訳を拾い読みする傍ら 、他の電子書籍を
読むこともある 。最近読んだものの中では 、早川書房 刊 、
ロアルド・ダール 著 、永井淳 訳 「 来訪者 ( The Visitor ) 」
が面白かった 。「 オズワルド叔父さん 」のスピンオフ的
な短編小説で 、叔父さんが書き遺した 二十八巻の日記 の
二十八巻目に含まれる 数少ない公開可能な エピソード と
いう設定で物話りは始まる 。「 オズワルド叔父さん 」同
様 、 ブラック・ユーモアの利いた 艶笑譚 。