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今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 正岡子規の『歌よみに与ふる書』あらわれて以来、和歌は短歌と化して芸術を志すものになって
しまった。それまで和歌は風流でありたしなみであった。男子の教養は漢字を自在に操ることで、
平安の昔から明治の初めまで学のある男は日記を漢文で書いた。
教育ある婦人も漢詩文を読んだが、書くときは仮名で書いた。『源氏物語』がその代表である。
ことに和歌をよんだから男は女に恋の手紙を出すには仮名で書いて歌を添えた。手本はたいてい
『古今』である。
その『古今』を完膚なきまでに攻撃したのが子規だったのである。女たちは子規のけんまくに
恐れをなして和歌をよむことをやめてしまった。枕ことばも掛けことばも用いなくなった。『み
すず刈る信濃の旅』、『くれ竹の根岸の里』などといわなくなった。みすずなんてどんな笹か知
らないが、それを刈るというといかにも草深い信濃の感じがする。
和歌を短歌と改めたところで皆が皆芸術家になれるわけではない。そもそも凡夫凡婦にそんな
才はない。日常茶飯を歌によむのは散文精神で詩精神ではない。教科書中の子規や茂吉の写真を
見て、あれが詩人の顔かと『安哲』と呼ばれた哲学者安藤孝行は笑ったという(『新潮』61年3月
号白崎秀雄)。読んで私も笑った。私は歌は風流韻事でいいと思っている。」
「 人ごとに一つの癖はあるものを我には許せ敷島の道。
平安末期の僧慈円の作だそうで、ついこの間までは知らぬものがなかったのに今は知るものが
ない。和歌の道のことで、これを忘れて以来婦人に床しさをみること希になった。俗に断絶々々
というがそれは戦後生じたのではない。風流韻事が滅びたときすでに生じたので、これも大正デ
モクラシーの一特色だと私はみている。」
(山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)
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