「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

真白き富士の嶺 Long Good-bye 2025・01・27

2025-01-27 05:37:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、「 ましろきふじのね 、

 みどりのえのしま 」という歌いだしで始まる歌曲 。

 6番まである歌詞のうち 、筆者がそらで歌えるのは

 1番 のみ 。

  因みに 、歌詞全文は以下のとおり 。

 「 一 真白き富士の嶺 、緑の江の島

    仰ぎ見るも 、今は涙

    歸らぬ十二の雄々しきみたまに

    捧げまつる 、胸と心


  ニ ボートは沈みぬ 、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)

    風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に

    力も尽き果て 、呼ぶ名は父母

    恨みは深し 、七里ヶ浜辺


  三 み雪は咽(むせ)びぬ 、風さえ騒ぎて

    月も星も 、影を潜め

    みたまよ 何処に迷いておわすか

    歸れ早く 、母の胸に


  四 みそらにかがやく 、朝日の み光

    暗(やみ)に沈む 、親の心

    黄金(こがね)も宝も 、何にし 集めん

    神よ早く 、我も召せよ 。


  五 雲間に昇りし 、昨日の月影

    今は見えぬ 、人の姿

    悲しさあまりて 、寝られぬ枕に

    響く波の 、音も高し


  六 帰らぬ浪路に 、友呼ぶ千鳥に

    我も恋し 、失(う)せし人よ

    尽きせぬ恨みに 、泣くねは共々

    今日も明日も 、かくて とわに 」

 

  「 真白き富士の根 」または「 真白き富士の嶺 」の題名

  で知られ 、「 七里ヶ浜の哀歌 」とも呼ばれる 、明治時

  代 末 、神奈川県下 相模湾で起きた海難事故の鎮魂歌である 。

    1910(明治43)年1月23日 、逗子開成中学校生徒11名

  と逗子小学校児童 1名 を乗せたボート「 箱根号 」が 、

  許可なく 葉山 を出艇し 、七里ヶ浜の 行合川沖で 突風

  に煽られ転覆した 。悪天候の中 、海軍 、漁船 、潜水器

  船等による懸命の捜索が続けられたが 、事故発生から4

  日後の1月27日までに 、遭難者全員が遺体で発見される 、

  という最悪の結末となった 、という 。

   時代的には 、日本海海戦のあった 1905(明治38)年5

  月から四年半経った 、真冬の海で起きた事故である 。

   115年後の今 、七里ヶ浜は夏でも遊泳禁止の海であるが 、

  サーフィンはいいらしく 、サーファーはうようよいる 。

   +!(〇∇〇)!*

  ( ついでながらの

    筆者註:「『 真白き富士の根 』(ましろきふじのね)は 、
        1910年に逗子開成中学校の生徒12人を乗せた
        ボート『 箱根号 』が七里ヶ浜沖で転覆 、全員
        死亡した事件を歌った歌謡曲である 。
         『 真白き富士の嶺 』 、『 七里ヶ浜の哀歌 』
        (しちりがはまのあいか)とも呼ばれる 。
         逗子開成の系列校である鎌倉女学校(現在の鎌倉
        女学院中学校・高等学校)の生徒が鎮魂歌として
        合唱し 、世間に知られるようになった 。
         生徒の死が美しく表現された この歌により 、世
        間は事件への同情を深めることとなった 。1915年
        にレコードが発表され 、日本全国で歌われた 。

         この歌を演奏することは逗子開成中学校ではタブ
        ーとされてきたが 、逗子開成創立90周年の1993年
        にPTAが歌うことを希望して記念式典で合唱され 、
        解禁となった 。この時に『 PTAコーラス 』が発足
        し 、2004年には在校生と卒業生の保護者による女
        声コーラスグループ「 逗子開成コール・レーネ 」
        が発足した 。

        基本データ
        ・成立年: 1910年(明治43年)
        ・作詞者: 三角錫子(みすみ すずこ、1872年生 - 
             1921年没)
          作詞当時、系列校である鎌倉女学校の数学教師。
          東京都目黒区にあるトキワ松学園中学校・高等
          学校の設立者でもある。
        ・作曲者: ジェレマイア・インガルス
        ・当初三角が発表した題名は『 哀悼の歌 』。『 七
         里ヶ浜の哀歌 』の方が原題に近いが 、一般には 、
         歌い出しの歌詞から『 真白き富士の根(嶺)』 と
         呼ばれた 。
        ・歌詞: 6番まで
        ・拍子: 6/8拍子
        歴 史
         ・1910年(明治43年)1月23日: ボート転覆事故発 
          生。
         ・1910年2月6日: 逗子開成中学校で追悼大法会開
           催 。
           鎌倉女学校生徒約70名により 、鎮魂歌として
           この歌が初演された 。オルガン伴奏は三角錫
           子 。
        ・1915年(大正4年): 事故から5年を節目に雑誌
           『音楽界』159号(1月号)41ページに歌詞が掲
           載 、翌月160号(2月号)巻頭に楽譜付で掲載さ
           れた 。
        ・1915年(大正4年)8月: レコードが発売された。
        ・1916年(大正5年)1月23日: 楽譜が音楽社から
         刊行された 。楽譜の題名は『 哀歌 』といい 、
         三角の「眞白き富士の根」と山本正夫作曲の
         『 母のなげき 』が収録された 。このころから
         演歌師によって一般に広められた 。
        ・1916年(大正5年)6月: 『 七里が浜の哀歌 』
         の題名で単行本の楽譜が出版された 。世間は
         この歌の楽譜を待ち望んでいた 。
        ・1935年(昭和10年)8月29日: 松竹により映画
         化 。題名は『 真白き富士の根 』。主題歌は
         覆面歌手ミス・コロムビア(松原操)が歌唱 。
        ・1954年(昭和29年)8月4日: 大映により映画
         化 。題名は『 真白き富士の嶺 』。主題歌は
         菊池章子が歌唱 。
        ・1962年(昭和37年):逗子信用組合の屋上に
         『 真白き富士の根 』のオルゴール時報が流
         れるスピーカーを設置 。1992年(平成4年)
         まで 。
        ・1963年(昭和38年):逗子開成正門入って右側
         に 、折れたオールと『 真白き富士の根 』1番
         の歌詞を共にして『 ボート遭難の碑 』建立 。
        ・1964年(昭和39年):稲村ヶ崎公園にボート遭
         難事故慰霊像建立 。これは『 真白き富士の
              根 』1番と2番の歌詞を刻んだ犠牲者の兄弟像
         であり 、小学生であった坊やは沈まぬように
         兄に抱きかかえられている
        ・1993年(平成5年)4月18日:逗子開成創立90周年
         式典において PTAコーラスにより合唱 。」

        行合川(ゆきあいがわ)は 、神奈川県鎌倉市
         七里ヶ浜を流れる 、単独水系の川 。日蓮に関
         する逸話が多い事で知られる 。

         地 理
          全長 670メートル と短い河川ではあるが 、
         鎌倉市の下水処理場(七里ガ浜浄化センター)
         からの処理水が大量(約40000立方メートル/日)
         に流れ込む事から 、水流は比較的急である 。」

        「 カッターボート(cutter boat)は 、船舶に
         搭載される大型の手漕ぎボートである 。省略
         して『 カッター 』と呼ばれることが多い 。」

         以上ウィキ情報 。

         小学生の坊やは 、日頃から ボートのコックス〈操舵手〉

        役を務めていたんだろうか 。漕ぎ手12人の6mカッタ

        ーと呼ばれる大きさのボートかと思われる 。)  

 

 

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