今日の「 お気に入り 」は 、年初からじっくり
読み進めてきた本の中から 、 備忘のため 、抜き
書きした 文章 。
五十年ぶりに山本周五郎著「 ながい坂 」を読み
了えた いま 、これまでの七十五年余りの人生で 、
この小説の中に書かれた多くのことに 、折々 道
案内されながら 生きてきたような思いがしていま
す 。ところどころで 、主人公の良い子ぶりに 辟
易するところがないではありませんが 、それを
揶揄する人物を対話相手に配することで 、修身
の教科書になることを回避して 、リアリティあ
る文学作品に仕上がっているように思います 。
おしまいのほうにある 、この本の題名の由来とな
ったくだりも 抜き書き しました 。
引用はじめ 。
「 大五はにやっと笑って仮綴(かりとじ)の帳面を
二冊 、そこへ差出した 、『 この天と題したほ
うがこっちの側の人名 、地と題してあるのが波
岡一味の名簿です 』
『 早かったな 』主水正は二冊を手に取った 。 」
「 ・・・ 『 五人衆の報告もほぼ揃ったし 、こ
の二冊に誤りがなければ 、もう打つ手の計画を
たてなければならない 、―― 大五さんならわか
るだろう 、こういう計画の 、表面的な部分には
難点はない 、大切なのは細部だ 』
『 重箱の隅(すみ)ですか 』
『 楊子(ようじ)で摘発するようにではなく 、ど
う無事に押えておくか 、ということだ 』
『 一味のほうへ寝返った連中はわかっているん
ですよ 』と大五が云った 、『 尤も 、殆んど
は利益でつながっているんですが 、中にはいま
の位地を足がかりに出世をしようと 、しんけん
に考えている者も少なくはない 、これらを押え
ておく 、などというなまぬるいことでは承知し
ないと思いますがね 』
『 ではどうしたらいい 』
『 ひと纏(まと)めにして押しこめるんですね 』
『 かれらが抵抗しないと思うか 』
『 むろん 、一騒ぎやニた騒ぎは避けられない
でしょうな 』
『 だめだ 、断じて騒ぎにしてはいけない 、手
を付けるのは六条一味に限ると 、江戸の殿にも
その点をよく申送ってある 、家中で一味のほう
へ寝返った者たちは 、大五の云うとおり藩家の
大事よりも 、おのれの個人的な欲によってつな
がっている 、そうだとすれば 、その足場が崩
壊した場合 、それを挽回しようとするよりも 、
まず身の安全を考えて 、おそらく大部分の者が
こちらへ寝返るか 、いまの自分の席からはなれ
るに違いない 』
『 あなたは楽天家だな 』大五は湯呑の酒を飲
み 、横坐りに腰掛けた毛だらけの脛を 、さも
愉快そうにゆらゆらとゆすった 、『 外聞に構
わず利にはしるような人間を 、あまく見てはい
けません 、侍の本分とか名聞(みょうもん)で動
く人間より 、自分の欲のために動くやつのほう
が執念ぶかいし 、一度にぎった綱を奪われまい
とすると 、どんな恥知らずなことでもやっての
ける連中ですよ 』
『 仮にそうであっても 、かれらが人間である
ことに変りはないだろう 』
『 まさか性善説なんぞをもちだすわけじゃない
でしょうね 』
主水正は大きく一と呼吸した 、『 性格と境遇
によって 、人の進退はそれぞれに違う 、世の
中には先天的な犯罪者か狂人でない限り 、善人
と悪人の区別はない 、人間は誰でも 、善と悪 、
汚濁と潔癖を同時にもっているものだ 、大義名
分をふりかざす者より 、恥知らずなほど私利私
欲にはしる者のほうに 、おれは人間のもっとも
人間らしさがあるとさえ思う 、いや 、もう一と
言 』主水正は片手をあげて 、大五を制止しなが
ら云った 、『 ―― こんどの御新政改廃は 、陰
謀でもなし転覆でもない 、まったく新しい出発
なのだ 、巳(み)の年や亥(い)の年の例などを考
えてはいけない 、ああいう騒動とはまったく関
係のない 、当面の事実だけを処理することだ 、
これだけはここではっきり云っておく 、去年の
花は今年の花ではない 、それは忘れないでくれ 』
『 昨日の雨も今日の雨ではない 』大五はにっと
微笑した 、『 三浦さんにしては珍しく 、風流
なことを仰いますね 、いいでしょう 、あなた
が大将だ 、山からおりて来られるのを待ってい
ますよ 』
『 大五なら心配ないと思うが 』と主水正も微笑
を返しながら云った 、『 おれが戻るまで 、あ
んまりいさましく動かないように頼むよ 』 」
( ´_ゝ`)
「 城の大手門をはいって 、枡形(ますがた)を ( このお城の名は「鵬(おおとり)城」 )
左右に曲ってゆくうち 、幾人かの侍が主水正
に丁寧な挨拶をした 。明らかに城代家老に対
する挨拶のしかたで 、彼はそれらにこたえな
がら 、しだいに胸苦しさと 、全身に重圧の
かかってくるのを感じた 。
『 たいしたことはない 』主水正は声に出し
て呟(つぶや)きながら 、思わず呻(うめ)き 、
頭を振った 、『 たかが七万八千石の城代家
老ではないか 、しかも自分で選んだ道だ 、
自分で選んだ道がここへ続いていただけでは
ないか 』
石を運び 、土を掘る人足(にんそく)たちと ( 「人足」はポリコレに反するらしい )
少しも違いはない 。一文菓子を売り 、馬子 、
駕籠(かご)かきをしても 、人間が生きてゆく
には 、それぞれの苦しみやよろこびがある 。
そのありかたはいちようではないし 、どっち
が重くどっちが軽いという差別も評価もでき
ない 。城代家老という役が特に重大であり 、
苦しいものであることはない 、と主水正は
思った 。
最後の枡形を曲ると 、道は二つに別れる 。
左へゆけば本丸 、右へゆけば二の丸 、飛騨
守昌治は二の丸御殿にいる筈であった 。主水
正が二の丸のほうへ曲ったとき 、その道が緩
い勾配の坂になっているのに気づいた 。
『 ここは坂だったのか 』彼は立停(たちどま)
って 、道の上下を眺めながら 、びっくりした
ように呟いた 、『 ―― 知らなかった 、まる
で気がつかなかった 、これまで幾十度(たび)
となくここを通ったのに 、ここが緩い勾配な
がら坂になっていたことに 、まったく気がつ
かなかった 』
主水正は土堤(どて)になっている左右を見や
った 。刈り込んだ若草と松林 、薄曇った空か
ら 、初夏のやわらかい日光が 、あたりにあた
たかく満ちあふれていた 。正面には二の丸御
殿の大屋根が 、松林の上にぬきんでて見える 。
本丸のほうで馬の嘶(いなな)く声がするのは 、
誰かが昌治の乗馬の調練をしているのであろう 。
『 ここが坂であったことに初めて気づいたよ
うに 』と彼はまた呟いた 、これまでどれほど
多く 、人や大事なものごとに気づかず 、みす
ごしてきたかもしれないし 、これからも気づ
かずに聞きのがしたり 、見のがしたりするこ
とがいかに多いかもわからない 』
主水正は引きずるような足どりであるきだし
た 。城代家老は馬子でもなし 、一文菓子屋で
もない 。人足や駕籠かき 、百姓 、町人の心
配や苦労をも背負わなければならないのだ 。
堰堤(えんてい)工事や 、御用商制度や運上(う
んじょう) 、年貢の合理化など 、多くの仕事が
待っている 。しかも 、どんなにそれらを合理
的に処理しても 、そのまま十年とは続かない
だろう 。時勢の変化にしたがって 、そのたび
ごとに修正してゆかねばなるまい 。
『 おれは少年のころから 、脇見(わきみ)をす
る暇さえなく 、けんめいにながい坂を登って
きた 』とあるきながら彼は呟いた 、『 多く
の困難や 、むずかしい仕事や 、いのちを覘
(ねら)われたことさえある 、三十八の今日ま
で生きてくることができたのは 、幸運という
べきだろう 』
しかし 、今日までは自分の坂を登ってきた
のだ 、と彼は思った 。
『 そして登りつめたいま 、おれの前にはも
っと嶮(けわ)しく 、さらにながい坂がのしか
かっている 』と主水正はまた呟いた 、
『 ―― そしておれは 、死ぬまで 、その坂
を登り続けなければならないだろう 』 」
引用おわり 。
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