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今日の「お気に入り」は、一昨日と同じ作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した文章の続きです。
「二
先ず盲目の祖母のことだ。彼女はたった四年ぐらいしか、私とともに生きていない。しかも、私が四つの時の死だから、私がいま瞼にのこしている祖母のくわい髪に朱い玉のついた耳かき兼用のカンザシをさしていたのを見たのは、たぶん道びきを背中に負われてやった二、三歳の記憶だろう。その祖母は、盲目のくせによく縫いものをした。木綿針を指先の腹にくっつけ、糸はしを口でしごいて細くかたくし、針にそわせて、穴へうまく入れ、足袋のつぎ当てをするのだ。縫う時には線の切れた電球に裏返した足袋をはかせ、針で突いてゆくと、針先が電球にすべってうまくいざるのである。盲目の祖母には光る電球は不要だったが、切れた電球が必要なのだった。私は四歳までこの祖母の裁縫に立ちあっていたから、世の中に切れた電球が、いかに尊いものかを学んだ気がする。友人の家へゆくと、クズ箱に捨ててある電球に、自然と手が走った。世間の人は、私が、電燈もない家にうまれているから、切れた電球に執心した心の裏側をどう見たかしらぬ。が、少しでも大きな電球があれば、祖母の足袋縫いの能率があがるだろうという思いがあって私はそれを拾ったのである。」
(山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
「二
先ず盲目の祖母のことだ。彼女はたった四年ぐらいしか、私とともに生きていない。しかも、私が四つの時の死だから、私がいま瞼にのこしている祖母のくわい髪に朱い玉のついた耳かき兼用のカンザシをさしていたのを見たのは、たぶん道びきを背中に負われてやった二、三歳の記憶だろう。その祖母は、盲目のくせによく縫いものをした。木綿針を指先の腹にくっつけ、糸はしを口でしごいて細くかたくし、針にそわせて、穴へうまく入れ、足袋のつぎ当てをするのだ。縫う時には線の切れた電球に裏返した足袋をはかせ、針で突いてゆくと、針先が電球にすべってうまくいざるのである。盲目の祖母には光る電球は不要だったが、切れた電球が必要なのだった。私は四歳までこの祖母の裁縫に立ちあっていたから、世の中に切れた電球が、いかに尊いものかを学んだ気がする。友人の家へゆくと、クズ箱に捨ててある電球に、自然と手が走った。世間の人は、私が、電燈もない家にうまれているから、切れた電球に執心した心の裏側をどう見たかしらぬ。が、少しでも大きな電球があれば、祖母の足袋縫いの能率があがるだろうという思いがあって私はそれを拾ったのである。」
(山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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