薬師寺
ぎりぎりセーフ:工事のシートに覆われる一週間前の東塔(11.11.25)と、西塔
東塔 (国宝)
ぎりぎりセーフで薬師寺東塔を見ることができました。
ご住職のお話では、わたしたちが訪れた一週間後には工事のシートで覆われる層です。
工事完成予定は七年後。
その間、東塔外観はシートで覆われていて見ることはできません。
ですが、中の工事のようすは、工事中も見ることができるそうです。
塔内部の工事のようすが楽しめるなんて、興味深いですね!
国宝。現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。
相輪の中心部の柱の最下部には「東塔檫銘」(さつめい、「さつ」の漢字は木扁に「察」)と称される銘文が刻まれており、薬師寺の創建と本尊造立の趣旨が漢文で記されている。塔の建築年代については飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説と、平城京で新たに建てられたとする説とがあったが、『扶桑略記』の記述のとおり、天平2年(730年)に平城京にて新築されたとする説が有力である。当初、東塔・西塔の初層内部には釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管されるのみである。
前述のような特徴的な姿から、この塔を評してしばしば「凍れる音楽」という評語が使われる。なお、「明治時代に本寺を訪れたアーネスト・フェノロサが、この塔を指して「凍れる音楽」と表現した」と説明されることが多いが、その出典は不明であり、フェノロサがそのように述べたという証拠はない[3]。佐佐木信綱と会津八一はそれぞれ東塔を題材にした短歌を残しており、両人の歌碑が薬師寺境内に建立されている。
西塔
東塔と対称的な位置に建つ。旧塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、現在ある塔は1981年に伝統様式・技法で再建されたものである。デザインは東塔と似ているが、東塔が裳階部分を白壁とするのに対し、西塔は同じ箇所に連子窓を設けるなどの違いもある。東塔も元々は連子窓であったが修復で白壁にされた。一見すると東塔に比べ若干高く見えるが、これは1300年の年月の内に、東塔に材木の撓みと基礎の沈下が起きたためであり、再建された西塔はそのような年月の経過を経験していないため、若干高く見えるとのことである。西塔の再建に当たった文化財保存技術者西岡常一によれば、500年後には西塔も東塔と同じ高さに落ち着く計算とのことである
奈良県奈良市西ノ京町457