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アルベール・カミュ(Albert Camus、フランス語: [albɛʁ kamy]) (1913年11月7日 - 1960年1月4日)

2021年08月26日 | ことのは

 

アルベール・カミュ(Albert Camus、フランス語: [albɛʁ kamy]) (1913年11月7日 - 1960年1月4日)

 

 

 

 アルベール・カミュ(Albert Camus、フランス語: [albɛʁ kamy]

 (1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家、哲学者。

 

  フランス領アルジェリア出身。第二次世界大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで「不条理」の哲学を打ち出して注目され、戦後はレジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍した。

 また『カリギュラ』『誤解』などを上演し、劇作家としても活動した。

    舞台『caligula  カリギュラ』  アルベール・カミュ作 蜷川幸雄演出 小栗旬 若村麻由美 横田 栄司 他

 

 戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなり、エッセイ『反抗的人間(フランス語版、英語版)』において左翼全体主義を批判し、反響を呼んだ。

 

 小説『転落』発表の翌年、1957年、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した。

 

 1960年、交通事故により急死し、未完に残された小説『最初の人間』が1994年に刊行された。

 

 カミュの著作は「不条理」という概念によって特徴付けられている。

 カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。

 そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。

 

 カミュの文学的営為は、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力との闘いだった。

 それに対して、彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探しもとめた

 彼は「父」としての「神」も、その代理人としての「歴史」も拒否した。

 

 カミュは何よりも時代の妥協しない証言者であった。

 彼は絶えずあらゆるイデオロギーと闘い、実存主義、マルクス主義と対立した。

 ソビエト全体主義に対する批判は、彼をコミュニストたちと対立させ、サルトルと絶交するに至った。

 彼の著作のヒューマニズムは、歴史の最悪の時期における経験のなかで鍛えられたものであり、この意味で、彼は20世紀のもっとも高いモラルを体現した人物のひとりである。

 日本で活動するタレントのセイン・カミュは従孫(兄の孫)にあたる。(ウィキペディア)

 

 形成期

 

 1913年、フランス領アルジェリアのモンドヴィ(現ドレアン)近郊に生まれる。

 父リュシアン・オーギュスト・カミュは、農場労働者であったが、19世紀初め彼の祖父がフランスからアルジェリアに渡ってきた。父リュシアンはスペイン系の大家族の娘であるカトリーヌ・サンテスと結婚、リュシアンとカミュの二人の息子をもうけている。

 しかしカミュが生まれた翌年、この父はマルヌ会戦で戦死した。

 以後母と2人の息子はアルジェ市内のベルクール地区にある母の実家に身を寄せた。

 この家には祖母のほかに叔父が一人同居していたが、聴覚障害のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいなかった。

 カミュはこの家で、貧しくはあったが地中海の自然に恵まれた幼少期を過ごした。

 1918年に公立小学校に入学。

 貧しいサンテス家ではもともと高等学校へ進学する希望はなかったが、この学校の教諭ルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜いて彼の家族を説得し、おかげで1924年に、奨学金を受けながらアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学することができた(カミュは彼から受けた恩を生涯忘れず、ノーベル賞記念講演の出版の際に「ルイ=ジェルマン先生へ」との献辞を添えている)。

 

 リセ時代のカミュはサッカーに打ち込み、ときにアルバイトなどしながらも比較的優秀な成績を取っている。

 しかし1930年より結核の徴候が現れやがて喀血、病院を退院後もしばらく叔父の家で療養生活を送った。

 この結核は以後生涯を通じてカミュの健康をおびやかすことになる。

 またリセ時代にカミュはリセの教員ジャン・グルニエ(フランス語版)と出会っており、彼の著書『孤島』やアンドレ・ド・リショー(フランス語版)の『苦悩』などに触発されながら文学への志望を固めていった。

 グルニエとは卒業後も書簡を通じて交流を保ち、のちにグルニエは『回想 アルベール・カミュ』を著している。

 1932年、バカロレアに合格しアルジェ大学文学部に入学、在学中の1934年、カミュは眼科医の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚するが、これをきっかけに結婚に反対していた叔父と疎遠になり、カミュはアルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けた。

 しかし奇矯で派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚にいたることになる。

 カミュは1935年にグルニエの勧めもあって共産党に入党している。

 カミュは共産主義の思想自体にはそれほど共感を寄せていなかったが(マルクスもエンゲルスもほとんど読んでいなかった)、党の文化活動の一環として劇団「労働座」の創設に関わり、アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』を翻案し舞台にあげるなどした。

 しかし党幹部とアラブ人活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受けている。(ウィキペディア)

 ジャーナリズムと創作

 1936年5月、学位論文「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」を提出しアルジェ大学を卒業。

 1937年5月には処女作となるエッセイ集『裏と表』を出版するが、生活の安定のため12月からアルジェ大学付属の気象学・地球物理学研究所でデータ整理の職に就く。

 1938年、パスカル・ピアに誘われ人民戦線寄りの新聞『アルジェ・レピュブリカン』(のち夕刊紙『ソワール・レピュブリカン』となる)の記者となり、冤罪事件や植民地経営の不正を暴く記事を書いた。

 平行して『異邦人』の原型となった小説『幸福な死』を書き上げるが、これは完成度に不満があったため出版を見合わせている。

 1939年、第二次世界大戦の開始にともない徴兵を志願するも、健康上の理由で拒否される。戦争開始前後より、カミュは『ソワール・レピュブリカン』紙上で、当局の厳しい検閲を受けながらで平和主義を唱え続けており、1940年、このために同紙は発行停止処分となった。

 同紙から責任を問われ解雇されたカミュは、しかしまたもパスカル・ピアの助力で『パリ・ソワール』紙の編集部に雇われ、ここで印刷関係の仕事をしつつ、その傍らで不条理をテーマにした三部作『異邦人』『シーシュポスの神話』『カリギュラ』を書き進めていった。

 1940年、ナチスドイツによりパリが占領されると、『パリ・ソワール』紙編集部の移動に伴って自由地区のクレルモン・フェラン、ついでリヨンへと移り、占領体制下の1940年12月に同地にてオラン出身の女性フランシーヌ・フォールとの婚姻届を提出した。

 しかし物資の不足と読者の減少から『パリ・ソワール』紙でも人員整理が進み、失業したカミュは妻の実家のある北アフリカのオランに一時身を寄せた。

 この地で前述の三部作を完成、さらに『ペスト』の執筆に着手するが、1942年に喀血し、療養のため夫妻でフランス自由地区シャンボン・シュール・リニョン付近の小村ル・パヌリエに移る。

 そして6月に小説『異邦人』、12月にエッセイ『シーシュポスの神話』を刊行した。

 1943年からは非合法誌『コンバ(戦闘)』の発行に関わり、また占領下のパリでサルトル、ボーヴォワールらとも知り合い親交を深めている。

 1944年8月のパリ解放後は、それまで地下発行であった『コンバ』を公刊し同紙の編集長となった。

 なお同紙でカミュは対独協力派(コラボラシオン)に対しては厳しい姿勢を取り、極刑もやむなしという意見を示し、寛容派のフランソワ・モーリヤックと対立したが、後に自説を修正し死刑には反対するようになる。

 終戦前後にはまた『カリギュラ』『誤解』が上演され、1946年にはアメリカのコロンビア大学に招かれて講演を行い、現代に蔓延する物質崇拝に警鐘を鳴らした。

 同年、ガリマール社の企画審査委員会のポストにつき、ここで当時無名だったシモーヌ・ヴェイユを発見し、彼女の叢書を企画、「永久反抗論」に影響を受ける。

 1947年、極限状態での市民の連帯を描いた小説『ペスト』を刊行、復興期のフランス社会で幅広い読者を得てその文名を高めた。

 しかし、1952年に刊行されたエッセイ『反抗的人間(フランス語版、英語版)』は毀誉褒貶を受け、特にサルトルは一切の政治的暴力を斥けるその「反抗」の論理を、革命へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判した(カミュ=サルトル論争)。

 さらにカミュは故郷で起こったアルジェリア戦争に対しても、フランスとアラブの共同体という考えを捨てきれずに曖昧な態度を取って批判を受け、これらによってフランスでの彼は次第に孤立を深めていった。(ウィキペディア)

 ノーベル賞とその死

 1956年、現代人の二重性と罪の意識をテーマにした中編『転落』を発表、翌年6篇からなる短編集『追放と王国』を発表した。

 同年、彼の「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」ノーベル文学賞が贈られた。

 当時カミュは43歳であり、これは戦後では最年少の受賞である(史上最年少はラドヤード・キプリング)。

 しかしアルジェリア戦争をめぐる政治的態度やサルトルとの論争で左右両翼やアラブ人からも非難を浴びていたカミュへの授賞に対し、当時のフランスは冷淡だった。  

 カミュの墓 受賞後、カミュはプロヴァンス地方の田園地帯ルールマランに家を構え、しばしばパリとの間を往復する生活を送っていた。

 1960年、友人ミシェル・ガリマール(ガストン・ガリマールの甥)が運転する自動車(ファセル・ヴェガ)でパリに向かう途中、ヨンヌ県ヴィルブルヴァン(フランス語版)において立ち木に衝突、助手席のカミュは即死、ガリマールも手術中に死亡した。

 しかし、後部座席に同乗していたガリマールの妻子は怪我だけで済んだ。

 当時の報道では、スピード超過(時速約180km)や、運転していたガリマールのてんかんの発作(走行中の並木模様によって引き起こされたとされる)、それにいっそう可能性が高いものとしてタイヤのパンクが指摘されているが、イタリアの大学人であるジョヴァンニ・カテッリ(Giovanni Catelli)は、2011年に『コリエーレ・デラ・セラ』で「KGBによって暗殺された」という説を発表した。

 これは、カミュが『Franc-Tireurs』紙(1957年3月)で発表した記事において、1956年のソ連軍によるハンガリー動乱弾圧で、ソ連外相ドミトリー・シェピーロフを非難したことから、シュピーロフがKGBに暗殺指令を出したというものである。

 作家のルネ・エチアンブルは「ずっと調査してきて、このファセル・ヴェガが棺であったという証拠を握っているが、私の記事を公表したいという新聞は探したものの見つからなかった」と発言している。 執筆中であった自伝的小説『最初の人間』は未完となった。(ウィキペディア)

 思想

 カミュはその思想的な近さから実存主義者に数えられることがしばしばあるが、カミュ自身は実存主義との関係をはっきり否定していた。

『シーシュポスの神話』の中でもキルケゴール、シェストフ、ヤスパース実存主義哲学者の名を挙げ、その思想が不条理から発していながら最終的に不条理の世界から飛躍し、理性の否定へと向かってしまう「哲学上の自殺」だとして批判している。

 カミュによれば、「不条理(absurde)」という感情は単にあるものの感覚や印象の検討から生じるものではなく、馬鹿げた計画と明白な現実との比較、理に合わない結果と当然予想される結果との比較というように、「事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくる」ものであり、したがってそれは人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく「両者の共存のなかにあるもの」「両者を結ぶ唯一のきずな」である。

 そしてカミュは自殺を不条理な運命を見つめない態度として退け、逆に不条理を明晰な意識のもとで見つめ続ける態度を「反抗」と言い表し、それが生を価値あるものにするものだとして称揚している。

 

『反抗的人間(フランス語版、英語版)』でカミュはこの「反抗」に対する考察をさらに深めていく。

「反抗」とは、例えば長く虐げられてきた奴隷が突然主人に対して「否(ノン)」を突きつける態度である。このときこの「否」には、「これ以上は許すことができない」という境界線の存在が含意されている。

 つまり境界線の外側のものを「否」として退け、内にあるものを「諾(ウイ)」として守ろうとすることであり、言い換えれば自分の中にある価値に対する意識である。

 そして不条理の体験が個人的な苦悩に終わるのに対して、他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる反抗は超個人的なものであり、そこから連帯が生まれる。

 また『反抗的人間』ではかなりのページを割いて革命を中心とした歴史の記述に当てられており、そこでは「無垢への郷愁」であるところの反抗から起こったあらゆる革命が必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく様子が考察される。

 しかし革命に必要な政治的暴力を批判するカミュのこのような態度は、上述のように(コミュニストでもある)サルトルとの間の論争を呼び起こすことになった(カミュ=サルトル論争)。

 論争の直接のきっかけはフランシス・ジャンソンがサルトルの雑誌『レ・タン・モデルヌ(近代)』に『反抗的人間』に対する批判的書評を載せたことで、これに対してカミュがサルトル宛に反論、さらにジャンソンとサルトルが反論するという形で起こったが、ここでサルトルはカミュの思想を曖昧な態度と見なし、彼がモラリスムに陥り「美徳の暴力をふるっている」として徹底的に批判している。

 この論争ではカミュの文章が文学的な曖昧さを持つこともあり、論理の明晰さにおいてサルトルのほうが優勢なのは明らかだが、カミュの思想もまた革命や党派性の限界を示すものとしてその意義を失っていないばかりか、左翼革命の幻想が潰えた今日ますます価値を高めている。(ウィキペディア)

 

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