乱鳥の書きなぐり

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説経節 6  文字的文化への移行  他の芸能・文芸への影響 /説経節と八王子車人形 西川古柳座公演からその2 信田/

2024-08-27 | 説経節、幸若舞、舞の本等
説経節と八王子車人形 西川古柳座公演からその2 信田妻―葛の葉子別れ(初葛)




説経節 6  文字的文化への移行  他の芸能・文芸への影響 /説経節と八王子車人形 西川古柳座公演からその2 信田/


文字的文化への移行
 説経節が、中世末から近世にかけての時期、にわかに芸能として脚光を浴びるようになったのは、操り芝居との提携という契機もあったが、これまで延べてきたように、説経節の語りそのものに、人びとを惹きつける独特の魅力や時代を越えた普遍性が備わっていたからであろうと考えられる。



 慶長年間(1596年-1615年)の日本においては、一部の人は別として大多数の人びとは文字や書籍になじまない生活を送っていた。

 もとより写本はさかんになされていたし、絵巻物よりも簡便な奈良絵本も当時さかんに製作されていた。

 また、南蛮人や朝鮮半島からもたらされた新しい印刷技術もあって活字本も刊行されていたのであるが、しかし、それは必ずしも社会的に広汎におよんだものではなかった。

 それが、寛永年間(1624年-1645年)に入り、従来の木活字に代わって、原稿そのままを木の板に彫って印刷する整版印刷がなされるようになると、出版は完全に商業ベースに乗った。

 これにともない、出版の大衆化が大いに進み、一般庶民を読者とする大衆文学も読まれるようになったのである。

 整版印刷は、漢字を自由に用い、読み仮名なども付して読みやすくすることができるうえ、はるかに低廉な価格で印刷物が刊行でき、版元の経営を安定させたのであった。



 こうして進行した出版大衆化もあって、民衆の側にも文字に対する旺盛な学習意欲が生まれた。

 慶長より約100年後の宝永3年(1706年)の浄瑠璃『碁盤太平記』には、大星力弥が文盲の岡平を笑って
「世には無筆も多けれども、一文字引く事も読む事もならぬとは、子供に劣った奉公人」
と語る場面が出てくるまでに至り、その間の民衆の識字率の向上にはめざましいものがある。



 ところが、慶長の頃にあっては一般民衆はまだまだ文字の文芸からは遠い世界にあり、口承文芸とくに語りものの世界にあったのである。

 そして、寛永期以降の出版大衆化の進行は次第に文芸における文字の比重を増大せしめた。

「古説経」
といわれる寛永から明暦にかけての説経正本は、このような経緯のなかで生まれたのである。



 そしてまた、説経節が18世紀に入って急速に衰退していくことは、都市を中心とした民衆の文化が、口頭的な文化から文字的な文化へと大転換を遂げたことと軌を一にしているのであり、これは文化史上の大きな画期であった


 もとより、青森県のイタコ祭文や新潟県の瞽女唄など、かつての説経節と形式や素材において共通点をもつ口承文芸が細々と続いてきたことは確かではあるが、とはいえ、これらの芸能がその内容においてひじょうに衰弱してしまったものであることは否定できない。



 これに対し、かつての説経節とりわけ「古説経」と呼ばれる説経節は、日本の口承文芸史上高度に花開いた作品群であり、ある意味では最後の鮮光とも呼びうる存在である。

 それが、幸いにも製版印刷の普及の時期にあたっていたため、文字によるテキストとして後世に伝えられたのである。



他の芸能・文芸への影響


他の芸能・文芸への影響
 
 浄瑠璃と説経節は相互に影響をあたえあい、浄瑠璃作品に多くの素材を提供したのは既述のとおりである。

 説経節の演目から素材を得た浄瑠璃(文楽)の作品には上述の『摂州合邦辻』のほか『小栗判官車街道』『苅萱桑門筑紫車榮』『芦屋道満大内鑑』などがある。

 元禄期以降の説経節はまた、換骨奪胎されて歌舞伎の演目としても演じられるようになった。




『山椒大夫』は、歌舞伎では『由良湊千軒長者』という演目になったが、現在ではあまり上演されなくなっている。



     『俊徳丸』は謡曲『弱法師』の題材となっており、歌舞伎・文楽の『摂州合邦辻』

     『苅萱』の石童丸の物語は歌舞伎の『苅萱道心』
     『小栗判官』は歌舞伎・文楽の『小栗判官車街道』の題材となっている。




 浪花節(浪曲)は、祭文語りと説経節の双方を源流として生まれた語りものといわれ、ちょぼくれ、ちょんがれ、浮かれ節なども同系統とされる。


 浪花節の起源は享保(1716年-1735年)ころに活躍した浪花伊助であると説明されることも多いが、実際に流行したのは幕末期が最初であるという。




 また、落語は説教と説話、講談は説教を源流としており、ともに近世初頭に成立した話芸である。


 説教(説経)からは節談説教と説経節が派生しているが、説経節における石童丸や小栗判官の話は、講談でも多く取り上げられ、明治・大正に至るまで庶民にはなじみ深い話であった。





映画『山椒大夫』のポスター

 ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得するなど海外でも高い評価を受けた。

 説経節は、文芸のうえでは江戸時代の絵入り娯楽本である草双紙(絵草紙)や伝奇小説(読本)の類にも多くの素材を提供した。



 曲亭馬琴も『石堂丸苅萱物語』や『松浦佐用姫石魂録』などの読本作品をのこしている。





 説経節の演目はのちに近代小説の題材ともなった。

 1915年(大正4年)に森鷗外によって小説『山椒大夫』が書かれ、雑誌『中央公論』に掲載された[25]。鷗外は、説経のあらすじをおおむね再現しながらも脚色を加え、親子や姉弟の骨肉の愛を中心に描き、近代的な意味で破綻のない世界にまとめあげたが、しばしば、原作のもつ荒々しさや陰惨さ、虐げられた者のどろどろとした情念の部分は取り払われたと指摘される。

 また、この翻案小説にあっては「道行」の下りはごく簡単に処理されており、死と再生という説経節がもつ独特の場と形式も軽視されている
と指摘されることがある。



 1917年(大正6年)には折口信夫によって短編小説『身毒丸』が発表されたが、これは説経節『俊徳丸』や謡曲『弱法師』のもととなった高安長者伝説を「宗教倫理の方便風な分子をとり去つて」短編小説化したものである。

 主人公「しんとく(身毒)丸」は、ここでは先祖伝来の病を持つ田楽師の子息として描かれている[注釈 21]。




 昭和に入って、鷗外原作の『山椒大夫』が1954年(昭和29年)、溝口健二監督作品として映画化され、折口原作の『身毒丸』は寺山修司・岸田理生の脚本を得て、劇団天井桟敷によって舞台作品『身毒丸』として1978年(昭和53年)に初演されるなど、説経節の演目が新しいかたちでよみがえり、話題となった。


 また、『小栗判官』は、1982年(昭和57年)に初演された遠藤啄郎脚本・演出の横浜ボートシアターによる仮面劇『小栗判官照手姫』となって大反響を呼び、1991年(平成3年)に初演された梅原猛作のスーパー歌舞伎『オグリ』として注目された[39]。


 その他、説経節の素材は、日本列島各地で、たとえば瞽女唄として、盲僧琵琶として、あるいは大黒舞の歌などとして伝えられた。

 また、三味線による説経語りは、新潟県佐渡市の説経人形(国の重要無形民俗文化財)、埼玉県横瀬町の人形芝居(袱紗人形、埼玉県指定無形民俗文化財)、東京都八王子市の車人形(選択無形民俗文化財)など各地の民俗芸能として、そのなごりをとどめている。


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