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AUDIO ARCHITECTURE

2018-10-27 22:13:20 | アート


AUDIO ARCHITECTURE
音のアーキテクチャ展


アーキテクチャ(構造物)として音楽を捉えデザインし曲にする。
リズム、メロディー、音域、楽器
それぞれが組み合わさり、バランスを取ったり、バランスを外したり
曲として組み立てていく。
確かに構造物だといえる。

しかしだ
オーケストラは、その最たるものではないだろうか・・・
様々な楽器の音が折り重なっていく。
100人以上で編成されるオーケストラだってある。
音色の違う楽器
音を出すタイミングも楽器によって違う。
打楽器だってある。
まさしく構造物だろう。

「音楽を構造物としてデザインする」
今までそんな言い方をしなかっただけで
昔々から続けられてきたことでないか?
そんな気がするのだがね・・・

しかし、なかなかに斬新な企画だった。
ミュージシャン、コーネリアスの小山田圭吾が
この企画展のために曲を書き
ライブ映像も撮って流れている。
そして、様々なアーティストが
この曲をイメージして映像作品を作っている。

映像も楽しめるライブ会場のような様相を呈してた。
(企画展はすでに終了しています)



AUDIO ARCHITECTURE (Studio Live Version)

1984年

2018-10-16 01:01:07 | 本・映画・テレビ

1984年
ジョージ・オーウェル(1903〜1950)

1949年に書かれた作品
未来の1984年を舞台に描いた物語
ただし、内容はディストピア(暗黒世界)を描いている。

ストーリーをかいつまんで話していこうと試みたのだが
とてもうまく要約できそうもないので途中で放棄した。

暗黒世界とは、平易に言うとぜんぜんハッピーではない世界。
絶えず戦争が繰り返され
党から国民は監視され続ける。
表情すらも監視対象になってしまっている世の中だ。
どこに思想警察が潜んでいるかもわからず
いつ密告されるかもわからない。

党のリーダーは実在するかどうかも不確かな存在。
だが、絶対的な存在として君臨しているかのように
すべてのシステムが出来上がっている。

全てが党の歯車のような存在ともいえる。
そこに「個」の存在は必要なくなっている。

過去の歴史の改ざんを繰り返し
現在の党の政策の正当性を誇示させる。

常に仮想敵国を作り出し国威発揚させ
民衆の目を外に外に向けさせるように仕向けて行く。

非常事態を常態化させ
国民の物資や食料は常に足りず、困窮状態にさせる。

語彙を減らし、言葉の意味すらも減らし
考える余地を余地を奪っていく。

党に不都合な言葉を削除していき
反旗を翻す意思さえも奪っていく。


1984年はとうに過ぎたのだが
この小説の内容が、現代にあてはまる部分が多い。
もちろん良くない意味でのことではある。


この小説の帯に書かれている言葉の通りでもある。
国や政府、世の中のシステムに疑問を持っている人は読んでみてほしい。
内容的には、読みやすい本ではないかもしれないが
現実の危うさが実感できることと思う。

カーソルをアートに。

2018-10-09 13:29:22 | アート

「2.5次元の触覚」

懸谷 直弓さんの作品
上野公園に2019年3月まで展示中

パソコンの画面に出てくるカーソル
それを現実に引っ張り出してきた。

なんと4メートル!
近くでみると、粗いドットのガタガタ矢印
しかし、遠くから見るとパソコン画面のようなかたちに切り取ることができる。




「境界線」
ディスプレイの中でマウスの指令に忠実に動くカーソル
現実には出てくるはずのない存在。
それが巨大になり、確かな質感を伴いそこに存在する。

全てをパソコンやスマホに集約していこうとしている世の中において
逆行するような印象がこの作品にはあり
現実的質感をどんどん失っていく世の中に対して
アンチテーゼのようにも感じ取れる。

ディスプレイの中の存在を、敢えてリアルにした理由とは・・・

最初は異質にかんじた作品ではあるが
すぐにその感覚は溶けてなくなっていた。
それもそのはず
パソコンを使っている人には、毎日動かしている存在だ。
馴染みがある、なんてものではなく
手足のように動いてもらっている存在である。
言葉が通じない人同士であったとしても
このカーソルに対しては、共通認識を持つことができるのではないだろうか。
グローバルな存在だともいえる。

多くの人に受け入れられる可能性の高い存在ではないだろうか。

「藤」から見る表現のかたち

2018-10-05 18:53:35 | 日々を歩む



週に一度は通る、見慣れた道
藤の文字が建物の前に佇んでいた。

一度そのまま素通りしたが
引き返して写真を撮った。
私にとっての日常の道、日常の風景
そこに異物が溶け込んでいる。
アンバランスが発生していた。

日常の中に入り込んだ異物。
私としては、とても刺激を受けるモチーフだ。

しかし考える。
この「藤」はどこから来たのか?

少しの想像力があれば答えはすぐに導き出せる。
100%とはいえないが
週末の台風の風で飛ばされたのではないだろうか。
個人商店のお店の上にある名前の一部が
剥がれ飛ばされ行き着いたのでないだろうか。

そうだとするならば
この写真はそのお店の人にとっては
刺激を受けるとか、ワクワクするようなものでは当然なくて
怒りや悲しみを感じさせるような写真となるだろう。
少なくとも、嬉しくもなければ楽しくなるような写真でもないだろう。


表現の二面性とでも言えようか。
今回このようなかたちで切り取った写真表現
私にとってはビックリするような刺激を受けるプラスな作用を及ぼしているわけだが
見る人によっては、不快なマイナスな作用を及ぼす可能性もある。

そういった可能性をはらんでいるものだ。
表現全てがそうだともいえるような気がする。

だからといって、委縮してしまっては
なにも表現できなくなってしまうわけだが
完全に開き直っていいというわけでもないだろう。

要するに、自覚的であるべきだと思う。
表現するにおいて(情報発信も同じく)
どこかの誰かを加害する可能性があることを。

写真を撮った2日後
同じ場所を通ったのだが、藤の字はなくなっていた。
元の場所に無事に戻ることができたのだろうか・・・