森達也のFAKEを観た。
そして、振り返った。
今まで私はドキュメンタリー映画を観たことはなかったことに気付く・・・
いや、マイケル・ムーアの映画なら何作か観ている。
しかし、あれがドキュメンタリー映画なのか???
「一般的にドキュメンタリーは制作者の意図や主観を含まぬ事実の描写」
という、定義づけのようなものがあるようだ。
このことから考えて、マイケル・ムーアの映画はドキュメンタリーと言えるとは思えない。
そもそも、
ドキュメンタリーを撮る人は、その人が撮りたいように撮るだろう。
その人の意図・主観で成り立つ作品じゃないのか?
制作者の意図も主観も含まない作品は作品として成り立つのか??
FAKE
佐村河内守という人物にフォーカスした作品
日本人なら誰もが(ある程度)知っている人物ではないだろうか。
ゴーストライター事件
その後、詐欺師と叩かれ表舞台から姿を消す。
その後を森達也が追いかける。
「ドキュメンタリー映画は人間の生々しい部分をあぶりだす」
カメラを向けられる人の趣味趣向、日常が暴かれる。
映画の前半
佐村河内家のその日の夕食はハンバーグだ。
奥さんが焼き立てのハンバーグをテーブルに運ぶ。
「いただきます」と言って、食べ始める。
奥さんはハンバーグに箸をつけるのだが、
佐村河内氏は箸を持つ気配もない。
豆乳をコップに並々注ぎ、グイグイと飲む。
全部飲んだから、またコップに並々注ぎ、飲み始める。
正直、事件のことで精神的に追い詰められて、
奇行に走るようになってしまったのか・・・
と思っていたら、森達也が尋ねた。
「豆乳が大好きですから」と、当たり前のように返事がきた。
1リットルの豆乳のパックを指示しながら、
「まずはこれを飲んでからなんです」と、当然のことのように言う。
映画館に笑いが起こった。
この笑いは演技によって起こる笑いではないと思う。
と、同時にドキュメンタリー映画の残酷さも感じた。
被写体となる人物の生活がさらけ出されている。
ドキュメンタリー映画
他人の生活を切り取って、編集して、世の中に披露する。
そうとも捉えられる。
「人の不幸でメシを食っている」
森達也はそう自らコメントしている。
卑しい仕事だと。
そして、自覚的であれと言う。
そして、振り返った。
今まで私はドキュメンタリー映画を観たことはなかったことに気付く・・・
いや、マイケル・ムーアの映画なら何作か観ている。
しかし、あれがドキュメンタリー映画なのか???
「一般的にドキュメンタリーは制作者の意図や主観を含まぬ事実の描写」
という、定義づけのようなものがあるようだ。
このことから考えて、マイケル・ムーアの映画はドキュメンタリーと言えるとは思えない。
そもそも、
ドキュメンタリーを撮る人は、その人が撮りたいように撮るだろう。
その人の意図・主観で成り立つ作品じゃないのか?
制作者の意図も主観も含まない作品は作品として成り立つのか??
FAKE
佐村河内守という人物にフォーカスした作品
日本人なら誰もが(ある程度)知っている人物ではないだろうか。
ゴーストライター事件
その後、詐欺師と叩かれ表舞台から姿を消す。
その後を森達也が追いかける。
「ドキュメンタリー映画は人間の生々しい部分をあぶりだす」
カメラを向けられる人の趣味趣向、日常が暴かれる。
映画の前半
佐村河内家のその日の夕食はハンバーグだ。
奥さんが焼き立てのハンバーグをテーブルに運ぶ。
「いただきます」と言って、食べ始める。
奥さんはハンバーグに箸をつけるのだが、
佐村河内氏は箸を持つ気配もない。
豆乳をコップに並々注ぎ、グイグイと飲む。
全部飲んだから、またコップに並々注ぎ、飲み始める。
正直、事件のことで精神的に追い詰められて、
奇行に走るようになってしまったのか・・・
と思っていたら、森達也が尋ねた。
「豆乳が大好きですから」と、当たり前のように返事がきた。
1リットルの豆乳のパックを指示しながら、
「まずはこれを飲んでからなんです」と、当然のことのように言う。
映画館に笑いが起こった。
この笑いは演技によって起こる笑いではないと思う。
と、同時にドキュメンタリー映画の残酷さも感じた。
被写体となる人物の生活がさらけ出されている。
ドキュメンタリー映画
他人の生活を切り取って、編集して、世の中に披露する。
そうとも捉えられる。
「人の不幸でメシを食っている」
森達也はそう自らコメントしている。
卑しい仕事だと。
そして、自覚的であれと言う。