8月15日(土。終戦の日)、晴れ。
終戦は、1945年8月15日。あれから64年が経過します。
前にも少し書いたことですが、終戦の数ヶ月前の名古屋の大空襲の時の場面を少しだけですが、恐ろしい絵柄としていくつか記憶しています。
とはいえ、終戦のことは、2歳半でしたのでまったく記憶はありません。
終戦後、3歳か4歳の頃に京都に移りまして、1年ぐらいですが、高野川の傍に住んでいた時期があります。
この頃だと思うのですが、今思えば軍事トラックかジープに乗った米兵の記憶があります。
米兵が車の後ろに座って、チューインガムか、チョコレートを、子供たちに撒いていた情景の記憶があります。
多分、こちらもそれを拾ったのだと思います。
それから1年後の5歳ぐらいの頃、住まいは下賀茂神社近くに移り、その頃はチューインガムは、確か5円でタバコ屋で売っていて、それを買った記憶もあります。
鴨川では、10歳と少し上の兄貴が、時々筒っぽの仕掛けで鰻を捕って、目打ちと切り出しナイフで裁いて食べた記憶があります。今思えば、このときの鰻は、大変なご馳走だったに違いありません。
夏、下賀茂神社の思い出は、ヤンマと玉虫です。
境内に、泉川という小川があって、小さな橋の欄干で鬼ヤンマを手で捕まえたのですが、指先をガブッと噛まれてしまいました。
びっくりして、引っ張ると、鬼ヤンマの首が千切れて、頭だけが指に喰らい付いたままでした。
玉虫は、鬱蒼としている高い木の上のほうに、時々止まっているのを見つけて、兄と網で捕らまえたり、逃がしたり。
高すぎて届かなかったことが多かったと思います。
京都は、爆撃を受けなかったので、戦争の爪あとの記憶はありませんでした。
物心が付いてから、戦争の爪あとの記憶は、大阪です。
小学校に入る少し前に、大阪に移り住んだのですが、遊びのテリトリーの上六(上本町6丁目)あたりは、まだ爆撃を受けた瓦礫がそのままになっていて、そこで冒険遊びをしていました。
近くには、真田山と呼ばれるところがあって、そこは昔、真田幸村の陣地のあったところで、大阪城に通じる秘密の抜け穴がありました。
小学校2年か3年くらいだったでしょうか。この辺りでも良く冒険遊びをしました。
上六の爆撃のあとは、やがて家が建ちビルが建って遊べなくなりました。
戦争関連の記憶は、こんなところです。
それに、もう1つ思い出しました。
「焼夷弾」の音です。
「シュルシュルシュル・・・」という音を出して、ゆっくり落ちてくるのです。
ぱあーっと、明るい色を出して、怖かったのですね。
母の背中に負われて、64年前、2歳の記憶でした。
終戦は、1945年8月15日。あれから64年が経過します。
前にも少し書いたことですが、終戦の数ヶ月前の名古屋の大空襲の時の場面を少しだけですが、恐ろしい絵柄としていくつか記憶しています。
とはいえ、終戦のことは、2歳半でしたのでまったく記憶はありません。
終戦後、3歳か4歳の頃に京都に移りまして、1年ぐらいですが、高野川の傍に住んでいた時期があります。
この頃だと思うのですが、今思えば軍事トラックかジープに乗った米兵の記憶があります。
米兵が車の後ろに座って、チューインガムか、チョコレートを、子供たちに撒いていた情景の記憶があります。
多分、こちらもそれを拾ったのだと思います。
それから1年後の5歳ぐらいの頃、住まいは下賀茂神社近くに移り、その頃はチューインガムは、確か5円でタバコ屋で売っていて、それを買った記憶もあります。
鴨川では、10歳と少し上の兄貴が、時々筒っぽの仕掛けで鰻を捕って、目打ちと切り出しナイフで裁いて食べた記憶があります。今思えば、このときの鰻は、大変なご馳走だったに違いありません。
夏、下賀茂神社の思い出は、ヤンマと玉虫です。
境内に、泉川という小川があって、小さな橋の欄干で鬼ヤンマを手で捕まえたのですが、指先をガブッと噛まれてしまいました。
びっくりして、引っ張ると、鬼ヤンマの首が千切れて、頭だけが指に喰らい付いたままでした。
玉虫は、鬱蒼としている高い木の上のほうに、時々止まっているのを見つけて、兄と網で捕らまえたり、逃がしたり。
高すぎて届かなかったことが多かったと思います。
京都は、爆撃を受けなかったので、戦争の爪あとの記憶はありませんでした。
物心が付いてから、戦争の爪あとの記憶は、大阪です。
小学校に入る少し前に、大阪に移り住んだのですが、遊びのテリトリーの上六(上本町6丁目)あたりは、まだ爆撃を受けた瓦礫がそのままになっていて、そこで冒険遊びをしていました。
近くには、真田山と呼ばれるところがあって、そこは昔、真田幸村の陣地のあったところで、大阪城に通じる秘密の抜け穴がありました。
小学校2年か3年くらいだったでしょうか。この辺りでも良く冒険遊びをしました。
上六の爆撃のあとは、やがて家が建ちビルが建って遊べなくなりました。
戦争関連の記憶は、こんなところです。
それに、もう1つ思い出しました。
「焼夷弾」の音です。
「シュルシュルシュル・・・」という音を出して、ゆっくり落ちてくるのです。
ぱあーっと、明るい色を出して、怖かったのですね。
母の背中に負われて、64年前、2歳の記憶でした。
駒の写真集
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