3月11日(月)、曇りがちでした。
あれから8年が経ちます。あの時も私は、駒づくりをしていました。46時中、点けっぱなしのラジオから「緊急地震速報のチャイム」が鳴りました。おやッとラジオに耳を傾けると、尋常ではないことを察しました。で、すぐさまテレビをつけて、情報を得ようとしました。見ていると、やっぱり尋常ではありませんでした。地震発生の直後は、どこかの海に近い駐車場を映していました。空だった海辺に近い駐車場に、1台2台とやってきました。何事が起ったんだろうかと、確かめに来たのですね。私は、その人たちに向かって、「早く逃げないと・・」と怒鳴りました。もちろんテレビ画面に向かってですからその人たちに聞こえるはずはありません。それでも、怒鳴らずにはおれませんでした。その後、画面は川に架かるどこかの大きな道路に。右に左に、ゆっくり走っている車や、高架で弓なりで一番高いところに停車したりしている自動車もあります。ここでも私は思わず画面に向かって「もっと高いところに、早く逃げないと・・」と叫んでいました。
それから、何十分か1時間かしたころ、真っ黒な悪魔の塀のような津波が田畑に押し寄せ、何もかも巻き込んで進む光景が映し出されました。こんな映像は、これまで見たことがありません。恐ろしい8年前の記憶での一部です。
もう一つの映像は、福島県の原発崩壊の映像でした。建屋の屋根が次々とはじけて吹っ飛ぶ光景と、東京都のヘリが、はじけた屋根の隙間から必死で「水(海水)を注入しよう」としている映像です。
この天災と原発事故で、亡くなったり家族を亡くした人々。そしてふるさとを追われた人たち。その人たちのことを思うと・・。
もう一つ、あの事故の時、8年が経過した今でも憤りを忘れない。 それは当時の政府、「官房長官」の被災者(国民)に向けたメッセージです。何と言ったかです。覚えている人も、きっといるはずです。まき散らされた放射能について、「ただちに人体への影響はありません」でした。この言葉には、人間性が微塵もなく、被災者(国民)の命と健康を何とも思っていない言葉であり、今も憤りを拭い去るわけにはゆきません。 その時の官房長官は、今は、野党の親分になっているのです。