17日の弘道館、おりからの強い南風で正庁前の桜がまさしく花吹雪、その一瞬をカメラは捉えられず、地に落ちた桜絨毯を撮りました。右側が三代目とされる左近の桜で、偕楽園にも同じ時に植えたものがありますが、自然環境の違いか、16mを超える大木になっています。
以下は説明文から抜粋…「弘道館を創設した水戸九代藩主徳川斉昭の夫人登美宮様は有栖川家から水戸家に御降嫁されるにあたり宮中にお暇乞いに参内せられた時、仁考天皇から下賜された鉢植の桜を弘道館が出来たときにここに植えられたもので、これは紫宸殿の左近の桜の苗(ひこばえ)であったが、長い年月を経たので枯朽してしまった。昭和38年5月弘道館修復工事完了したのを記念して縁りの桜の苗を宮内庁からいただき再びここに植えられたものである。」
水戸藩の藩内抗争は、明治元年10月1日、いわゆる弘道館戦争をもって集結しましたが、約200人近い藩士たちが殺し合いをしたその舞台に散る桜を見ると、主義思想はそれほど変わらないのに行き掛かり上突っ走っていった先人たちを偲ばざるを得ません。
散る桜 残る桜も 散る桜 良寛
桜花 何が不足で ちりいそぐ 小林一茶
以下は説明文から抜粋…「弘道館を創設した水戸九代藩主徳川斉昭の夫人登美宮様は有栖川家から水戸家に御降嫁されるにあたり宮中にお暇乞いに参内せられた時、仁考天皇から下賜された鉢植の桜を弘道館が出来たときにここに植えられたもので、これは紫宸殿の左近の桜の苗(ひこばえ)であったが、長い年月を経たので枯朽してしまった。昭和38年5月弘道館修復工事完了したのを記念して縁りの桜の苗を宮内庁からいただき再びここに植えられたものである。」
水戸藩の藩内抗争は、明治元年10月1日、いわゆる弘道館戦争をもって集結しましたが、約200人近い藩士たちが殺し合いをしたその舞台に散る桜を見ると、主義思想はそれほど変わらないのに行き掛かり上突っ走っていった先人たちを偲ばざるを得ません。
散る桜 残る桜も 散る桜 良寛
桜花 何が不足で ちりいそぐ 小林一茶