顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

浄光寺の山門(ひたちなか市)

2016年04月26日 | 歴史散歩
ひたちなか市館山の小高い丘の上には、真宗の七カ寺が密集し、「館山七カ寺」と呼ばれるところがあります。その入口にある立派な浄光寺の山門は、佐竹氏統治時代の水戸城にあった門を拝領したものとの記事を新聞で読んで行って来ました。


浄光寺は、那珂郡枝川村に居住した藤原隼人佑頼貞が、建保二年(1214年)、親鸞聖人が稲田の居住していた時にその教化を受け、貞応元年(1222年)剃髪して、法名唯仏房浄光と賜わり自らの館を衆宝山無量光院常光寺と名づけ、開基したのが始まりとされています。


その後水戸城主江戸氏は水戸城内の東北(鬼門)に浄光寺を移築し、さらに佐竹氏に代わってからも保護を受けましたが、城郭拡張のため常葉村に移され、徳川時代になって元禄9年 (1696年)光圀公より、湊村古館の地(現在の館山)に11,605坪及び人夫2万人等の寄付を賜り、堂宇を移し名も浄光寺と改め、他の6つの寺も一箇所に集められ現在の七カ寺になりました。浄光寺十九代住職唯弘のもとへは、光圀公養女、たにん姫が輿入れをしたとあります。本堂、山門、袖塀などにある葵紋の謂われはそのあたりにあるのでしょうか。
元治元年(1864年)の藩内抗争では、武田耕雲斎率いる天狗党が布陣して激戦場となり、この一帯はすべて戦火に焼かれてしまいました。ということは、水戸城からの山門移築は、明治になってからということでしょうか。


 今、浄光寺の墓地には、当時の戦いで戦死した幕府追討軍・福島藩兵の墓があります。多分市川三左衛門の要請を受けた幕府の命で仕方なく出兵してきたのでしょう。
なお浄光寺の住職が、この市川三左衛門の縁戚になっていたため、明治維新後しばらくの間当地から追放となり、寺も廃寺となっていましたが、檀家の熱心な運動により、明治11年に再興されということです。

水戸城の古地図を見ると、東から下之丸、本丸、二之丸、三之丸と続く連郭式平山城で、下之丸は東二之丸とも浄光寺曲輪ともいい、現在は水戸第一高校の運動場になっているところ。曲輪の東端に浄光寺門があったとありますが、これで浄光寺の名が水戸城址に残っていることが分かりました。


浄光寺山門の左、葵紋軒丸瓦の下に館山の晩鐘という石碑が見えますが、これは、湊八景のことです。撰者など詳細は不明ですが古文書によると宝暦13年(西暦1763年)の記述があることから、斉昭による水戸八景選定よりも古いことが分かっています。ただその選定地も文献により異なるため、幾種類かの八景があったようです。