顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

常陸國一之宮 鹿島神宮   (鹿嶋市)

2017年10月27日 | 歴史散歩

日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社の鹿島神宮は、天皇元年(紀元前660年)の創建と伝えられ、日本建国・武道の神様である武甕槌(たけみかづち)大神が御祭神です。
今回はボランティアガイドさんの案内、大変詳しくわかりやすく、しかも女性の声はとても聞き取り易いと再認識しました。

大鳥居は従来の笠間の御影石製のものが東日本大震災で倒壊した後に、神宮の森から切り出した杉の巨木4本で再建されました。高さ10.2m、幅14.6m、樹齢は左右の柱が約500年、笠木が約600年です。

この楼門は、寛永11年(1634)水戸藩初代藩主徳川頼房公の奉納で,日本三大楼門に数えられ国の重要文化財です。かかっている鹿島鳥居という扁額は東郷平八郎の書になります。

境内の広さは約70ha、そのうち約60%は鹿島神宮樹叢として茨城県の天然記念物に指定されてます。鬱蒼とした大木に囲まれた約300mの奥参道は、5月の御田植祭の後に行われる流鏑馬の舞台になるため、砂が敷かれていました。

本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる社殿は元和5年(1619)2代将軍秀忠奉納のもので国の重要文化財に指定されています。この拝殿も北を向いています。

極彩色の組物をほどこされた本殿も北向きですが、これは北方の蝦夷を意識した配置ともいわれ、内陣の神坐はちゃんと東を向いているそうです。
後ろに立つのは、樹高43メートル・根回り12メートルで樹齢約1,000年といわれる杉のご神木です。

この仮殿は新しい社殿造営のため徳川2代将軍秀忠公が奉納しました。まずこの仮殿に神様をお遷ししてから、旧本殿を奥宮まで曳いていき、その跡地に新しい社殿を造営したのです。

奥宮は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきました。

凹みの見える石が、地震を起こす大鯰を抑える要石、光圀公が7日7晩石の周りを掘らせたが根元に届かなかったと伝えられています。水戸の藩校弘道館には、文武両道を標榜しているので、学問の神様である孔子廟と武道の神、鹿島神社が分祀されており、敷地内に斉昭公の歌が刻まれた要石の碑がありますが、ここの要石にちなんでいます。

神の使いとされる鹿が30数頭、奈良の春日大社の鹿もここから行ったと伝えられています。ご当地の鹿島アントラーズの"アントラー"は鹿の枝角のことで鹿島神宮の鹿にちなみ、枝角は茨城県の茨をイメージしているそうです。

車窓から撮った北浦に建つ一の鳥居、川底からの高さは18.5メートルで、水上の鳥居としては厳島神社(16m)の鳥居を超える日本最大級の大きさです。