ウクライナで戦争(明らかに戦争です!)が起こっている最中であっても、明日11日は日本人なら忘れてはいけない日のひとつです。
東日本大震災
直接地震や津波の災害、そしてその後に起こった放射能汚染で被害を受けた方には及ぶべくもありませんが、私もこの震災の影響を受けた一人として、毎年のように《同じことを繰り返し》書いています。
まあ、自分自身で忘れないために...。
震災の起きる二か月ちょっと前、
前年の大晦日に35年務めた会社を早期退職しました。
一応「会社都合」扱いということで、退職金の割り増しも貰えるということもありましたが、社内で大きな仕事(自分にとっては)をやり終えた直後でもありましたし、その先の会社人としての目標が良く見えなくなっていた時でもありました。
直前まで7年間ほど単身赴任していて、妻に負担をかけているという気持ちもあって、思い切って会社を辞め、山梨に戻ったのです。
「山梨の小さな会社で、自分の知識経験が活かせる仕事をしよう。」
そう思って年明けからハローワークに通い始めたすぐの3月のあの日に震災に遭いました。
ハローワークに仕事を出していた会社が一斉に求人を取り下げました。
目の前に「計画停電」などという言葉が躍っていたのですから、企業にすれば無理もありません。
私の探していた仕事は見事に無くなってしまいました。
4月になると就職できなかった新卒の学生が街にあふれ(少し大げさでしょうか)、さらに大企業から雇止めされた非正規雇用の求職者がハローワークに押し寄せました。
ハローワークの職員の方は、それらの方の対応に忙殺されました。
「新卒の学生を三か月雇ってくれれば百万円助成します。」みたいな施策もありました。
ハローワークでは「あなたの希望するような仕事はハローワークにはないから、ご自分でさがしてください」と、言われてしまいました(失業給付は受けられましたが)。
仕方がないので、夏の間勉強してコンサルタントの資格を取り、翌年の4月に個人事務所を立ち上げ、その後いろいろあって今に至っています(後半はほとんど省略)。
人生にタラレバはつきものなのかもしれませんが、もし大震災に遭っていなかったら...。
どこか小さな会社に入って定年まで勤め、あるいはその後再雇用で65歳くらいまで働き、今頃は「毎日が日曜日」の生活を送っていたかもしれません。
いや、還暦を過ぎて腹腔鏡手術や、一か月以上に及ぶ放射線治療なども経験しましたので、とっくに会社を辞めざるを得なかったかもしれません。
そう思うと、あの大震災というのは、私にとって大きな転機となった出来事だったと言わざるを得ないのです。
震災があったことで、防災士の資格を取り、それらの縁で地元の大学や自治体との共同研究事業(総務省の管轄でしたか)にも参加させていただきました。
短い期間でしたが、「大学の研究員」という身分にもなりました。
そうして大勢の人とのご縁ができ、現在の公民館活動や自治会活動につながっていることを考えると、人生の「きっかけ」というだけでなく、ある種の運命とすら思ってしまうこともあるのです。
震災から11年が過ぎた今、齢68を前にしてそんなことを考えております。