住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

法事とは

2005年04月16日 14時51分01秒 | 仏教に関する様々なお話
先ほど小さな法事から戻りました。施主宅でお経を唱え、少々雑談して、お墓参りだけ済まし帰ってまいりました。

小さなと申しますのは、この辺りでは、法事というのは普通半日ほどかかるのです。法事をする家へまいり、10時からお経を一人で30分ほど唱えてから、参会者一同で仏前勤行次第を唱えます。それからお墓参りに行き、檀那寺にお詣りします。客殿でお茶を接待してから、本堂でお経を唱えます。そして、もう一度法事の施主宅に戻って親族ご一同と共に、お斎をご馳走になるのです。

様々時節の話をしながら食事をいただいていると大体2時頃になり、失礼します。最近では飲酒運転がやかましくなったせいで、お酒を飲まないどなたかがお寺まで送って下さることが多くなりました。そして夕方になってお膳の残したものをパックに入れ、その他粗供養の品々を沢山お持ちになります。

誠に念が入っているという感じが致します。お酒が付きものという誠に日本的な風習を除けば誠に本来あるべき姿なのだと思います。

東京などでは、お寺でお経を唱えて、お墓へ参りおしまいという簡単な法事が主流となっています。その後のお斎の席にはお寺さんを呼ばず、親戚だけで済ますという本来からすれば本末転倒と思えるやり方がまかり通っていることに誰も何も思わなくなっています。

それでは本来法事とはどのようなものなのでしょうか。私のインドでの僅かな経験から申しますと、仏教徒にとって、法事というのは、遺族が功徳を積みその功徳を亡くなった故人ないし先祖へ回向供養することを言います。檀那寺の僧侶を招きお経を唱えてもらい、自らも戒律を授かりお経を唱え学び、功徳を積み、僧侶には食事や修行生活に必要な金品を施した誠に得難い功徳を回向するのです。

回向というのは自分が積んだ功徳を他に振り向けることを言います。インドの仏教徒たちは、亡くなった家族の命日に毎月一人とか二人の僧侶を家に招き昼食を施して、お経を唱えてもらって徳を積むということが習慣になっています。

そして、祥月命日などには、つまり一年に一回ほどは5人以上の僧侶を招いて食事を施す盛大な法事をします。これをサンガダーナと言って、僧団への施しという意味ですが、これが年忌法要に当たるものです。

多いときでは16人もの僧侶たちと共に私もご一緒に招待された事があります。大きなホールの壁三面に内側を向いて僧侶が座り、その中に在家の親族が筵に座って、仏法僧へ帰依し戒律を授かり、お経を聞いて、説法があり、食事の供養がなされました。勿論みんな妻帯なんかしていない黄色い袈裟だけを身につけた比丘・ビクと言われる僧侶たちです。

そうして功徳を先祖へ回向するとともに、仏教徒として生きる自らも戒を授かり教えに触れ、学ぶ機会となっているのです。いずれ死を迎える自分のために功徳を積んでおきたいという思いが強いのです。死んで間違ったところに生まれ変わることなく、今よりより良いところに生まれ変われるようにと願っています。

死ねばみんな極楽に行けるなんて気楽な事を考えている人はインドには居ません。他の仏教国にも居ないはずです。簡単に極楽、つまり天界に生まれ変われるなどとお釈迦様は言われていないはずです。だからこそいかに生きるかが問われることになり、悪いことしても知られないで良い思いだけして死んでいければいいというのは通用しないことになるのです。

やっぱり真面目に人様に良くあるように生きなきゃいけないんだと、何も恐れず、欲に縛られることなく、心にわだかまりもなく、そういう素直な心になれるように、様々にお話しなさったのがお釈迦様だったんだと思うのです。

法事の話題からそれてしまったようですが、やっぱりお釈迦様を慕いその事跡をたどり徳を積むことが私たちの為すべきことであって、それを実践する場が法事であって欲しいものだと思う次第であります。
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