住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

お寺って何?

2005年04月26日 17時43分18秒 | 仏教に関する様々なお話
普通の家に生まれた者にとって、お寺というのは、お寺の息子が継ぐものだという思い込みがある。だから、私が僧侶になると言い出したとき、母親は全くその真意を測りかねたらしい。会社の同僚たちには、お寺の息子だったの?と問い返された。

しかしこのような事態になったのはここ100年ばかりのことではないだろうか。それまでは普通お寺に女性も居なかったし、子供もいるはずがなかった。いたらそれは小僧としてお寺に預けられた子供だったはずなのだ。

私たちの常識というのはそれだけ簡単に入れ替わってしまうし、それまで普通に思っていたこともすぐに忘れ去られてしまう。明治になって「肉食妻帯これを許す」と言って太政官符が出た。その後それに倣えで、どの宗派も浄土真宗に倣って家族を寺に引き入れた。

これは日本の常識であって、一歩外に出たら、つまりアジアの仏教国で妻帯している仏教寺院はない。抑もの戒律の第一が女性との関係を否定しているわけだから、性的関係さえも犯したら出家ではなくなってしまう。つまり妻帯しなければいいとも限らないことになる。

隠れて女性と関係してしまったら、それだけで「パーリ戒経」(パーティモッカ 波羅提木叉)によれば「四波羅夷法」の第一を犯すことになるので、波羅夷罪となってサンガ・僧団を去らねばならない。そうなると妻帯している私たち日本の僧はみんなサンガを後にしてお寺を後にしなければならなくなる。それが本来の姿なのであろう。

しかし日本の中には誰一人としてそんなことを言う人はいない。日本の社会でお寺の担わされた役割を全うしている限りにおいて急に僧職にあるものが居なくなっても困るということもあろう。それになんと言っても綿々と受け継がれてきた伝統、様々な有形無形の仏教芸術文物の維持継承にはなくてはならない存在なのかも知れない。

私などは強い憧れがあって僧侶になったわけではあるが、憧れるものに才能はないのだという。才能がないから憧れるのだと。だから、抑もお寺に生まれて坊さんになる人というのは持って生まれた才能があるのだと、最近になって思えるようになった。だからこそお寺に生まれたのだと。

みんな自分が選んで、と言うか持っている業・カルマに応じて相応しいところへ、つまり最も自分にあった母親のお腹に生を宿らせると考えるのだから、それも当然なのだろう。だから、お寺に生まれ何の不足もなくお寺に住職出来る人というのは選ばれて生まれ、なるべくしてなったとも言える。最近益々そういう感を強くする。

他の国の僧侶の中には戒律をきちんと守っている人ばかりでも無かろう。妻帯しないからと言ってそれでそのまま称賛されるわけでもない。それなりに自戒堅固学徳兼備の方も多いのは勿論だが、余計なことに時間を奪われ、身近な者のために世間に暮らす人のように思い悩む必要もない。その分、その人にとっての時間を思いのままに仏道のために修行に充てられるメリットはある。

だが、先ほどの生まれ変わりの理論からすれば、そうして他の仏教国で妻帯せず僧侶になって修行ばかりの生活を送れるのも、それだけ清貧に暮らしていける業・カルマを持って生まれたということか。私たちはそれだけのものがなかったと言えばそれまでだが。何とも申し訳なく思うのは私だけであろうか。つづく



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