次に、無常偈をもう少し私たちの身近な教えとして受け取ってみよう。
「すべてのものは無常にして、生じては滅する性質なり」
はたして、私たちはこのように見ているであろうか。頭では世の中のことは、そんなものだよ、と思えたとしても、実際には全く無常ということが分かっていない。そのように受け取れないのが本当のところではないか。
異常気象と言いながら、暑いの寒いのとつい口に出して言ってしまってはいないだろうか。生活の安定を求めない人もいないだろう。勤め人なら毎月の給料が多かったり少なかったりという一事にさえ、一喜一憂する。また、家族の誰かか不治の病に罹ったときの狼狽を考えてみただけでも、私たちは無常ということをただの言葉としてしか理解していないことが分かる。
そして何よりも、この無常であるが故に生滅する、ということを我が身のこととして捉えねばいけないのであろう。たとえば、自分がガンだと診断されたとしたらいかがであろう。ガンのおそれがあるなどとお医者さんに言われたとき、誰もが胸に杭を打たれたかのような重苦しい思いにとらわれるのではないだろうか。なぜ私なのか。何が悪かったのか。どうして隣の人ではなく自分なのかと。
そんな思いが堂々巡りを繰り返し、眠れない夜を幾晩過ごせば心にいくらかでもゆとりが出来るのか想像も出来ない。そんなものではないか。だからこそ、無常ということ、生じたものは必ず滅するという真理を私たちは心して受け入れることを学ぶ必要がある。
「再生してはまた滅していく、それが静まり止むことこそ安楽なり」
私たちはこの人生について、二度と無い人生などと言われ、死ねばそれで終わりと思ってはいないだろうか。どこかの宗教者の言うままに死んだら天国に行くなどと思っている人もあろう。だから、自分は死んだらどうなるのか、と改めて考える人もいないのかもしれない。勿論学校で教えてくれることもない。ただ漠然とそんな風に思う、そんな世の中になってしまったようだ。
仏教では、死ぬと輪廻転生すると教えられている。生前になされた業にしたがって転生すると。だからこそ何万回と繰り返されてきたとされるこの果てしない輪廻の苦しみから解脱するために、お釈迦様が出家され、苦行に励み、禅定に入り、真理を得て、悟りを開かれ、その悟りへの道筋を指し示す教えを説かれた。そのお蔭で仏教がある。
また、衆生は六道に輪廻するともいい、死後人間として生まれるとも限らない。行いによっては、次の生では地獄に生まれるかも知れないし、畜生なのかも知れない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道のどこかに生まれるという。そうして何度も六道の苦しみの中に生きるということは、まったくもって不安な恐ろしいことなのだということを私たちは知らない。
殺生を好む人は来世では地獄に生まれ変わる。もし人間に生まれ変わったとしても短命となる。手や棒で人を叩くような人も地獄に生まれ変わる。もし人間に生まれたとしても多病となる。怒りを好む人はたとえ人間に生まれたとしても醜悪に、欲が深く他に施さない人も人間として生まれてたとしても、とても貧しい人になると、このように業と言われる行いの報いについて経典(パーリ中部経典135)に述べられている。
灼熱の大地に暮らすインドの人々、また政情不安の中で貧しい生活に日々追われる東南アジアの人々、いずれも人生は苦だと実感しているであろう。しかし私たち日本人だって、暮らしは遙かに贅沢ではあるが、働けど働けどわが暮らし楽にならずという状態に陥りつつある。失業して職に就けなくなってしまった人も多い時代である。また複雑な人間関係に神経を疲弊させてもいる。自殺する人が絶えない現実、凶悪な事件に巻き込まれる不安の中で生きてもいる。
いかにしたらこうした苦しみの現実から解放されるのか。そのことを説くのが仏教なのであろう。そして、そのことを自らの意思によって学ぶことができるのも、六道の中で人間界をおいて他にない。何気なく安逸のままに生きてしまっているが、こうしてなんでも思い通りにやろうと思えば出来る人間界にいるということが、本当は誠に貴重な得難い時間を生きているのだということを自覚すべきなのであろう。
誰もが幸せを求め、生きがいを探しつつ、短い人生を歩んでいく。気がつくと、既に人生の半ばにあることに、誰もが愕然とすることもあるだろう。残された時間は僅かであることを知りつつも、それまでに培った価値観を変えられずに時をやり過ごす。今際の際に、本当に納得し良い人生を歩むことが出来たと満足するには、どうしたらよいのだろうか。
人としての営みを無為に過ごすことなく、本当は時を惜しんで教えを学び、実践しつつ心を磨くことが、仏教徒として課せられた責務なのかもしれない。大恩教主であるお釈迦様が、灼熱の大地を裸足で旅をしつつ、人々に教え諭し、入滅するそのときまで説き聞かせた、その教えをたよりに私たちは戒名というブッディスト・ネームをもらってあの世に旅立っていくのであるから。
(余話)
しかし、日本の仏教では、発心即菩提、即身成仏、凡聖不二などといい、既に私たちは修行などせずともすべてが仏の現れなのだと自覚さえすればよいといった観念が植えつけられている。諸法実相と言い、山川草木悉有仏性、生死即涅槃また煩悩即菩提とも言われる。
しかしこれはインドやチベットの仏教では顧みられることのない考え方であって、中国や日本で展開され、特にわが国の天台宗を中心に発展し日本仏教の骨格となったものであろう。凡夫と仏との距離が限りなく狭められ、煩悩によってこの実相を見る目が曇っているだけなのだから、発心して凡聖不二を正しく認識するだけでよい。なぜならば、誰もが仏になる可能性・仏性をもち、自然界も私たちの日常の現実もそのまま悟りの現れなのであるから。
このような極端な思想が蔓延し、中世ごろには既に文学・芸術・芸能の世界にも影響を及ぼしたと言われる。しかし現実問題として体裁と対面を取り繕うことは出来ても、本来あるべき戒定慧の三学そのものを損なうものとなってしまっているのではないだろうか。
それがために、もともと仏教とは何か、何のための教えかということも分からなくなっているのが、今日の日本仏教の現実ではないか。無常偈は私たちにその仏教の原点を思い起こさせてくれる貴重な一偈ではないかと思う。そして、私たちは、この無常偈から、改めて学び始める必要があると思うのである。なぜなら日本仏教にとって人の死が最も身近な課題であろうから。
「すべてのものは無常にして、生じては滅する性質なり」
はたして、私たちはこのように見ているであろうか。頭では世の中のことは、そんなものだよ、と思えたとしても、実際には全く無常ということが分かっていない。そのように受け取れないのが本当のところではないか。
異常気象と言いながら、暑いの寒いのとつい口に出して言ってしまってはいないだろうか。生活の安定を求めない人もいないだろう。勤め人なら毎月の給料が多かったり少なかったりという一事にさえ、一喜一憂する。また、家族の誰かか不治の病に罹ったときの狼狽を考えてみただけでも、私たちは無常ということをただの言葉としてしか理解していないことが分かる。
そして何よりも、この無常であるが故に生滅する、ということを我が身のこととして捉えねばいけないのであろう。たとえば、自分がガンだと診断されたとしたらいかがであろう。ガンのおそれがあるなどとお医者さんに言われたとき、誰もが胸に杭を打たれたかのような重苦しい思いにとらわれるのではないだろうか。なぜ私なのか。何が悪かったのか。どうして隣の人ではなく自分なのかと。
そんな思いが堂々巡りを繰り返し、眠れない夜を幾晩過ごせば心にいくらかでもゆとりが出来るのか想像も出来ない。そんなものではないか。だからこそ、無常ということ、生じたものは必ず滅するという真理を私たちは心して受け入れることを学ぶ必要がある。
「再生してはまた滅していく、それが静まり止むことこそ安楽なり」
私たちはこの人生について、二度と無い人生などと言われ、死ねばそれで終わりと思ってはいないだろうか。どこかの宗教者の言うままに死んだら天国に行くなどと思っている人もあろう。だから、自分は死んだらどうなるのか、と改めて考える人もいないのかもしれない。勿論学校で教えてくれることもない。ただ漠然とそんな風に思う、そんな世の中になってしまったようだ。
仏教では、死ぬと輪廻転生すると教えられている。生前になされた業にしたがって転生すると。だからこそ何万回と繰り返されてきたとされるこの果てしない輪廻の苦しみから解脱するために、お釈迦様が出家され、苦行に励み、禅定に入り、真理を得て、悟りを開かれ、その悟りへの道筋を指し示す教えを説かれた。そのお蔭で仏教がある。
また、衆生は六道に輪廻するともいい、死後人間として生まれるとも限らない。行いによっては、次の生では地獄に生まれるかも知れないし、畜生なのかも知れない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道のどこかに生まれるという。そうして何度も六道の苦しみの中に生きるということは、まったくもって不安な恐ろしいことなのだということを私たちは知らない。
殺生を好む人は来世では地獄に生まれ変わる。もし人間に生まれ変わったとしても短命となる。手や棒で人を叩くような人も地獄に生まれ変わる。もし人間に生まれたとしても多病となる。怒りを好む人はたとえ人間に生まれたとしても醜悪に、欲が深く他に施さない人も人間として生まれてたとしても、とても貧しい人になると、このように業と言われる行いの報いについて経典(パーリ中部経典135)に述べられている。
灼熱の大地に暮らすインドの人々、また政情不安の中で貧しい生活に日々追われる東南アジアの人々、いずれも人生は苦だと実感しているであろう。しかし私たち日本人だって、暮らしは遙かに贅沢ではあるが、働けど働けどわが暮らし楽にならずという状態に陥りつつある。失業して職に就けなくなってしまった人も多い時代である。また複雑な人間関係に神経を疲弊させてもいる。自殺する人が絶えない現実、凶悪な事件に巻き込まれる不安の中で生きてもいる。
いかにしたらこうした苦しみの現実から解放されるのか。そのことを説くのが仏教なのであろう。そして、そのことを自らの意思によって学ぶことができるのも、六道の中で人間界をおいて他にない。何気なく安逸のままに生きてしまっているが、こうしてなんでも思い通りにやろうと思えば出来る人間界にいるということが、本当は誠に貴重な得難い時間を生きているのだということを自覚すべきなのであろう。
誰もが幸せを求め、生きがいを探しつつ、短い人生を歩んでいく。気がつくと、既に人生の半ばにあることに、誰もが愕然とすることもあるだろう。残された時間は僅かであることを知りつつも、それまでに培った価値観を変えられずに時をやり過ごす。今際の際に、本当に納得し良い人生を歩むことが出来たと満足するには、どうしたらよいのだろうか。
人としての営みを無為に過ごすことなく、本当は時を惜しんで教えを学び、実践しつつ心を磨くことが、仏教徒として課せられた責務なのかもしれない。大恩教主であるお釈迦様が、灼熱の大地を裸足で旅をしつつ、人々に教え諭し、入滅するそのときまで説き聞かせた、その教えをたよりに私たちは戒名というブッディスト・ネームをもらってあの世に旅立っていくのであるから。
(余話)
しかし、日本の仏教では、発心即菩提、即身成仏、凡聖不二などといい、既に私たちは修行などせずともすべてが仏の現れなのだと自覚さえすればよいといった観念が植えつけられている。諸法実相と言い、山川草木悉有仏性、生死即涅槃また煩悩即菩提とも言われる。
しかしこれはインドやチベットの仏教では顧みられることのない考え方であって、中国や日本で展開され、特にわが国の天台宗を中心に発展し日本仏教の骨格となったものであろう。凡夫と仏との距離が限りなく狭められ、煩悩によってこの実相を見る目が曇っているだけなのだから、発心して凡聖不二を正しく認識するだけでよい。なぜならば、誰もが仏になる可能性・仏性をもち、自然界も私たちの日常の現実もそのまま悟りの現れなのであるから。
このような極端な思想が蔓延し、中世ごろには既に文学・芸術・芸能の世界にも影響を及ぼしたと言われる。しかし現実問題として体裁と対面を取り繕うことは出来ても、本来あるべき戒定慧の三学そのものを損なうものとなってしまっているのではないだろうか。
それがために、もともと仏教とは何か、何のための教えかということも分からなくなっているのが、今日の日本仏教の現実ではないか。無常偈は私たちにその仏教の原点を思い起こさせてくれる貴重な一偈ではないかと思う。そして、私たちは、この無常偈から、改めて学び始める必要があると思うのである。なぜなら日本仏教にとって人の死が最も身近な課題であろうから。