住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

無常偈について3

2006年04月14日 08時25分31秒 | 仏教に関する様々なお話
それではもっと簡単にこの無常偈を説くとしたらいかがであろう。「すべてのものは無常にして」だからあなたも変わっているのだということ。どんなに立派な肩書きがあろうと、職歴学歴経歴があろうと、それはその時のことであって、今の自分ではない。

それなのに自分が考えていることは絶対だと思う。正しいと思う。みんな分かっていないのに言いなさんなという思いをもつ。けれど本当に自分が正しいのかと謙虚に、あれこれ調べるということもしない。ただ漠然と自分はいいと思いがちではないか。

そして「生じては滅する性質なり」これはみんな死ぬのだということ。それなのに自分は死なないと思っている。いやいや死ぬと思っていますよと言う人も、結局はいずれはという思いでいる。明日にも死ぬかも知れない。だから今日を大切に、すべきことをしているかと言われれば、心もとない。そんなものではないか。

「再生してはまた滅していく」これは来世もあるということ。しかし、この世のことにしか興味はないのが今の世の中ではないか。前世占いなどといってもてはやされるのは興味本位の戯れ言に過ぎないだろう。この世でいい思いをして死んでしまえばよい。死んでいく先のことまで心配していられない。明日のこと、今年のことで精一杯だと思う。ひと頃話題になった臨死体験がその後の私たちの人生の捉え方に影響したとも思われない。

「その寂静は安楽なり」輪廻が終わること、つまり悟りが本当の幸せということ。幸せとは何だろう。したいことができ、欲しい物が手に入り、多くの人に褒められることだろうか。何事も移り変わるこの世の中で、いっときそんな思いが得られてもいずれは終わってしまう。

どんなに人気があり権勢を欲しいままにした人もその勢いは衰え、過去の人になる。亡くなるときには空しさばかりが残される。いつも心がほかほかと悦びにみち、楽しく明るく生きるためにはどうあらねばならないのか。それを見出すことが本当の幸せなのだということになる。そのためにはその理想を実現されたお釈迦さまに学ぶのが一番の近道ということなのであろう。
コメント (2)
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