住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

人生は苦なり

2006年12月01日 09時39分56秒 | 仏教に関する様々なお話
みんな誰でもが幸せになりたいと思う。不幸せになりたい人などいないであろう。山中鹿之助であっただろうか、「我に艱難辛苦を与えたまえ」とのたもうたのは。しかし、それは戦乱の世の中で、どのように生きたとしても修羅場であることを観念してのことであろう。

たとえ辱めを受けたとしても今の地位、収入、立場を失いたくない。そんな価値観が根付いてしまってはいまいか。それは現代のこの国の姿勢そのものであろう。だから現代に生きる私たちは、だれもがそんな生き方を選択してしまいがちではないだろうか。

しかしどんなに幸せを求め、うまく立ち回ったとしても、人から下手な生き方をしていると見られるような生き方をしていたとしても、いずれにしても、「人生は苦なり」というお釈迦様が言われたこの世の真理からは逃げることはできない。

生老病死の苦からは、いかにしても逃れようがない。たとえ不老長寿の薬が見つかったとしても、いずれはみな死ぬであろう。時間と死は誰にも平等にやってくる。しかしだからといって、お釈迦さまの教えは、もう何をしてもお手上げだということではない。諦観せよ、諦めよということでもない。

そうではなくて、その真実を知った上でいかに生きるべきかと教えてくれている。人生は苦なり、ではあるが、それを深くわきまえた上で、明るく真に幸福に生きるためにはどうすべきか。その為には知恵がいるであろう、その智恵を身につけるためにはどうすべきか。それを教えるのが仏教でなければいけない。

苦しみに出会うと誰もが嫌だと思う。人にのけ者にされたり、馬鹿にされたりしたら頭に来る。何で自分がこんな目に遭わなければいけないのかと腹が立つ。その場から居なくなりたいとも思うかもしれない。しかし、非情にも苦をもたらしたのは自分自身である。と、お釈迦様は言われる。

なぜであろうか。自分も含め人とは、そもそも未熟な存在に過ぎない。何も分かっていない。物事の道理因縁を知らない。事の起こり、物事の成り立ちを知らない。そんな者たちの言うことを真に受けて、怒り腹を立てる。それでも良く思われたい、良くありたいと思う私たちはやはり無知なるものそのものだ、だからあなた自身が問題なのだということなのであろう。

たとえ自分の親であろうと学校の先生であろうと。ましてや同級生や上級生はもちろん、学者先生と言われる知識人たちも、企業経営者にしても、また議員バッチをつけた偉い議員や総理大臣にしても。みなお釈迦様の目からは欲の世界に生きる無知なるものに過ぎない。

そうした欲に生きる人たちの社会に私たちは生きているということを、まずは知るべきなのであろう。誰もが物事の本質を知らないのだと。だから、もともと様々なトラブル、人間関係からの問題に遭遇することは仕方ないのであると。それはひとえに自分自身の個人的な原因によるものではないということを知るべきなのであろう。

だから、そうした様々な問題に遭遇したとき、それに自分が心を乱され、右往左往し、悩み苦しむことこそがナンセンスなことなのだと気づかねばならない。だから、世間で、苦に感じるような場面、トラブルに出会ったとしても、それをきらう気持ちを持つことなく、冷静にその状況のみを把握する。そうですかと。それではどうしましょうかねと、どうあるべきでしょうかと対策を考える。

感情的になることなく、あくまでも冷静に対処する。そうすれば相手も退散するしかない。自分に問題があるなら改善しましょうと。そのトラブルと自分の存在とは別のものだということを忘れずに。物事はなるようにしかならない。すべては移り変わる、そのことを知るならば、良くなっても行くのだと気づくことも必要であろう。

また、しかし、もしも逆に何の問題もない人間関係がずっと続き、トラブルも一切無い社会であったとしたらどうであろうか。幸せなことだらけで、ちっとも大変なこと、嫌に思うようなことなく、毎日が良いことづくめであればどうであろうか。

私たちはその状態を幸せだと感じることもなくなるのではないか。丁度私たち日本人が今幸せとは何かを探し求め、戦争のない今のありがたさがわからなくなっているようなものである。決して戦争を起こしてはならないということは勿論のことではあるが。

嫌なこと、様々な問題、苦しみがあるからこそ、様々な学びもあり、何も問題やトラブルがない幸せ、幸せのありがたさ、他者との関係の大切さを学ぶこともできるのであろう。嫌なこと辛いことに出会うことで、自分の心の癖、弱点、性質を知ることもできる。

そして、苦を苦とも思うことなく、なにごとも自分にとって好きでも嫌いでも、善くても悪くても分け隔てなく一つの現象として捉えられるようになれば、何も恐れることもない。落ち着いた何ものにも依存しない幸福感が得られるであろう。そのためには、仏教の法である縁起ということを私たちは知らねばならない。それを頭で知るだけでなく、自らの体験の中で知る努力が必要になってくるのであろう。

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