(以下は、大法輪誌平成19年3月号「特集真言宗がわかる」掲載のために著した文章の下書です。誤字脱字不整合があると思いますがご了承下さい。)
真言宗の教えは、開祖弘法大師によってほぼ大成されました。そのため、大師後二百七十年ほどは、教学上の発展を見るに至らなかったと言われています。その間は、もっぱら時代の求めに応じて「転禍為福」の加持祈祷のために、修法「次第」の編纂や様々な儀礼法要の編成に費やされたのでした。 しかしながら、大師後、十大弟子のうち実恵と真雅の法流が栄え、皇室の保護尊信は大師の時代と変わることなく、京都東寺を中心として発展していきます。
実恵真雅の両法系を統合した源仁の弟子に益信(八二七ー九〇六)が出て、宇多天皇の尊信を得ます。天皇は益信に従って落飾され、延喜元年(九〇一)東寺灌頂院にて伝法灌頂に入壇。大内山に仁和寺を造営し観法に余念なく、御室と称して平安仏教の一大中心となります。歴代天皇の御受戒御出家が相次ぎ、密教研究が盛んになり、造寺造仏を競ったため、密教隆盛の最頂に達したと言われています。
宇多法皇の正嫡であった寛空は嵯峨大覚寺に住し、その法嗣寛朝は歴朝の国師として広沢に遍照寺を開創して、益信を流祖とする事相法流を大成。広沢流と呼ばれ、その後六流に分派していきました。諸儀礼の声明にも精通し、声明中興の祖と称されています。
また益信と同時代に、真雅の法流を源仁から受けた聖宝(八三二ー九〇九)が出て、役の行者小角の遺跡や霊山山岳を跋渉。苦修練行して法験を現し数多の尊信を集めます。修験道の基を開き、宇治に醍醐山を創建します。
ところで日本の神々を仏教の教えによって祭祀する神仏習合は奈良時代から起こりますが、「本地垂迹説」という理論的基礎を与えたのはこの頃のことでした。真言宗では、伊勢神宮の内外宮を胎藏金剛の両部に見立てた両部神道が形成されていきました。
この聖宝の法資に観賢(八五三ー九二五)が出て、東寺長者となり、はじめて東寺灌頂院にて御影供を営み、延喜二一年(九二一)醍醐天皇の勅により宗祖に弘法大師の諡号を賜ります。観賢は勅使とともに御廟にいたり、そのとき大師の聖容を肉眼に拝したとして大師入定留身説を唱え、大師信仰と高野浄土信仰を起こします。また観賢は醍醐寺仁和寺も主宰して、さらに荒廃していた高野山の座主を兼ね、当時仁和寺、醍醐寺、高野山と分散していた真言宗を東寺を中心にして一大統制をはかりました。
この観賢の法系から霊験を発揮して雨僧正と称された仁海が出て、正暦二年(九九一)小野に曼荼羅寺を開創。弟子多く著述二百部と言われ、聖宝からの法流を大成し小野流を開きます。
広沢流が仁和寺を中心に貴族的相承をなして経軌を尊重するのに対し、小野流は醍醐寺を中心に庶民的伝播をなして師資口伝を重視しました。両法流ともに後にたくさんの分派が行われていきました。
一方、大師によって秘密修禅の道場として開創された高野山では、その後の経営を大師から委嘱された真然が未完成であった堂塔を完成させ、後に東寺長者に補せられると、参内して高野山の霊威を天下に宣布します。
そして、真然は東寺宝庫に宗宝として保管されていた、大師在唐の際自ら筆写した経軌「三十帖の策子」を借覧の上、高野山に持ち帰って保管します。その後真然の法孫無空が高野山座主のとき、東寺長者であった観賢がこの「三十帖の策子」返還を院宣をもって督促するに至り、延喜十五年(九一五)無空は門徒を率いて離山。後に「三十帖の策子」は回収され東寺大経藏に納められましたが、このことは高野山一山の荒廃をもたらしました。
天歴六年には雷火により奥の院焼失。正歴五年(九九五)また雷火によって大塔はじめ壇上伽藍の堂塔を悉く焼失しました。住僧のない時代が十数年続き、興福寺勧進僧祈親上人定誉がそれを嘆いて自ら入山し、一山の復興に尽力。仁海らも高野山浄土の思想を鼓吹して、藤原道長、頼道ら貴顕の外護を得て、ようやく復興の緒につきます。
高野山中興の祖と言われる金剛峯寺検校明算は延久四年(一〇七二)山に戻り、高野山における事相上の一流として中院流を開き宣揚して法会儀礼の復興にこぎつけたのでした。
このように修法儀礼を中心とした法流の分派が盛んになり、院政期まで、東寺、高野山、醍醐寺、大覚寺、仁和寺、勧修寺などを中心に発展していきました。特に東寺は教団の根本道場であり、そのため真言密教は東寺系の密教、略して東密と呼ばれました。
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真言宗の教えは、開祖弘法大師によってほぼ大成されました。そのため、大師後二百七十年ほどは、教学上の発展を見るに至らなかったと言われています。その間は、もっぱら時代の求めに応じて「転禍為福」の加持祈祷のために、修法「次第」の編纂や様々な儀礼法要の編成に費やされたのでした。 しかしながら、大師後、十大弟子のうち実恵と真雅の法流が栄え、皇室の保護尊信は大師の時代と変わることなく、京都東寺を中心として発展していきます。
実恵真雅の両法系を統合した源仁の弟子に益信(八二七ー九〇六)が出て、宇多天皇の尊信を得ます。天皇は益信に従って落飾され、延喜元年(九〇一)東寺灌頂院にて伝法灌頂に入壇。大内山に仁和寺を造営し観法に余念なく、御室と称して平安仏教の一大中心となります。歴代天皇の御受戒御出家が相次ぎ、密教研究が盛んになり、造寺造仏を競ったため、密教隆盛の最頂に達したと言われています。
宇多法皇の正嫡であった寛空は嵯峨大覚寺に住し、その法嗣寛朝は歴朝の国師として広沢に遍照寺を開創して、益信を流祖とする事相法流を大成。広沢流と呼ばれ、その後六流に分派していきました。諸儀礼の声明にも精通し、声明中興の祖と称されています。
また益信と同時代に、真雅の法流を源仁から受けた聖宝(八三二ー九〇九)が出て、役の行者小角の遺跡や霊山山岳を跋渉。苦修練行して法験を現し数多の尊信を集めます。修験道の基を開き、宇治に醍醐山を創建します。
ところで日本の神々を仏教の教えによって祭祀する神仏習合は奈良時代から起こりますが、「本地垂迹説」という理論的基礎を与えたのはこの頃のことでした。真言宗では、伊勢神宮の内外宮を胎藏金剛の両部に見立てた両部神道が形成されていきました。
この聖宝の法資に観賢(八五三ー九二五)が出て、東寺長者となり、はじめて東寺灌頂院にて御影供を営み、延喜二一年(九二一)醍醐天皇の勅により宗祖に弘法大師の諡号を賜ります。観賢は勅使とともに御廟にいたり、そのとき大師の聖容を肉眼に拝したとして大師入定留身説を唱え、大師信仰と高野浄土信仰を起こします。また観賢は醍醐寺仁和寺も主宰して、さらに荒廃していた高野山の座主を兼ね、当時仁和寺、醍醐寺、高野山と分散していた真言宗を東寺を中心にして一大統制をはかりました。
この観賢の法系から霊験を発揮して雨僧正と称された仁海が出て、正暦二年(九九一)小野に曼荼羅寺を開創。弟子多く著述二百部と言われ、聖宝からの法流を大成し小野流を開きます。
広沢流が仁和寺を中心に貴族的相承をなして経軌を尊重するのに対し、小野流は醍醐寺を中心に庶民的伝播をなして師資口伝を重視しました。両法流ともに後にたくさんの分派が行われていきました。
一方、大師によって秘密修禅の道場として開創された高野山では、その後の経営を大師から委嘱された真然が未完成であった堂塔を完成させ、後に東寺長者に補せられると、参内して高野山の霊威を天下に宣布します。
そして、真然は東寺宝庫に宗宝として保管されていた、大師在唐の際自ら筆写した経軌「三十帖の策子」を借覧の上、高野山に持ち帰って保管します。その後真然の法孫無空が高野山座主のとき、東寺長者であった観賢がこの「三十帖の策子」返還を院宣をもって督促するに至り、延喜十五年(九一五)無空は門徒を率いて離山。後に「三十帖の策子」は回収され東寺大経藏に納められましたが、このことは高野山一山の荒廃をもたらしました。
天歴六年には雷火により奥の院焼失。正歴五年(九九五)また雷火によって大塔はじめ壇上伽藍の堂塔を悉く焼失しました。住僧のない時代が十数年続き、興福寺勧進僧祈親上人定誉がそれを嘆いて自ら入山し、一山の復興に尽力。仁海らも高野山浄土の思想を鼓吹して、藤原道長、頼道ら貴顕の外護を得て、ようやく復興の緒につきます。
高野山中興の祖と言われる金剛峯寺検校明算は延久四年(一〇七二)山に戻り、高野山における事相上の一流として中院流を開き宣揚して法会儀礼の復興にこぎつけたのでした。
このように修法儀礼を中心とした法流の分派が盛んになり、院政期まで、東寺、高野山、醍醐寺、大覚寺、仁和寺、勧修寺などを中心に発展していきました。特に東寺は教団の根本道場であり、そのため真言密教は東寺系の密教、略して東密と呼ばれました。
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