この円本ブームのとき出版界も印刷界も不景気に見舞われて青息吐息でした。
金融恐慌、昭和恐慌と呼ばれた不況の渦中ですから当然といえば当然ですが、
不思議なことに、印刷界では「大量印刷時代」が華々しく幕を開けていたのです。
行先の遠近を問わず運賃1円のタクシー「円タク」からのネーミングといわれ
る円本は大正15年から昭和4年末までに全部で300点ぐらいの企画がたてら
れたといいます。
書物の大衆化などといえば聞こえがいいのですが、実際には当時の読書人口を
はるかにオーバーしていましたから昭和5年に至って円本ブームの火は消えます。
しかし、文庫本ブームがそれに続いたのです。
それだけではありません、『週刊朝日』や『サンデー毎日』の創刊が大正11年、
14年には鳴り物入りで講談社から『キング』が登場します。雑誌の大量印刷も
始まったのです。
キングの創刊号は75万部、昭和3年11月の増刊号は150万部の売れ行き
部数はいまであっても驚くべき数字です
・
こうした大量印刷に対応するために印刷会社も大規模な設備投資をしなくては
なりませんでした。
秀英舎(大日本印刷)は活版輪転印刷機を内外の印刷機メーカーから調達した
のを皮切りに生産能力のアップに努め(大日本印刷百三十年史)
博文館印刷と精美堂印刷の合併で一躍業界トップに躍り出た共同印刷、
オフセットや紙器に力を入れ、その共同印刷を抜き返した凸版印刷というような
形で印刷会社も熾烈な競争を展開しました。
おそらく、この円本・文庫本に加えて雑誌の大量印刷がつくりだしたのが、
日本である意味での印刷業のありようを決定づけたといってよいといえます。
金融恐慌、昭和恐慌と呼ばれた不況の渦中ですから当然といえば当然ですが、
不思議なことに、印刷界では「大量印刷時代」が華々しく幕を開けていたのです。
行先の遠近を問わず運賃1円のタクシー「円タク」からのネーミングといわれ
る円本は大正15年から昭和4年末までに全部で300点ぐらいの企画がたてら
れたといいます。
書物の大衆化などといえば聞こえがいいのですが、実際には当時の読書人口を
はるかにオーバーしていましたから昭和5年に至って円本ブームの火は消えます。
しかし、文庫本ブームがそれに続いたのです。
それだけではありません、『週刊朝日』や『サンデー毎日』の創刊が大正11年、
14年には鳴り物入りで講談社から『キング』が登場します。雑誌の大量印刷も
始まったのです。
キングの創刊号は75万部、昭和3年11月の増刊号は150万部の売れ行き
部数はいまであっても驚くべき数字です
・
こうした大量印刷に対応するために印刷会社も大規模な設備投資をしなくては
なりませんでした。
秀英舎(大日本印刷)は活版輪転印刷機を内外の印刷機メーカーから調達した
のを皮切りに生産能力のアップに努め(大日本印刷百三十年史)
博文館印刷と精美堂印刷の合併で一躍業界トップに躍り出た共同印刷、
オフセットや紙器に力を入れ、その共同印刷を抜き返した凸版印刷というような
形で印刷会社も熾烈な競争を展開しました。
おそらく、この円本・文庫本に加えて雑誌の大量印刷がつくりだしたのが、
日本である意味での印刷業のありようを決定づけたといってよいといえます。