立秋と聞きましたが、トンデモナイ。全国の都府県で35℃以下のところが
数県しかないといいますからまだ炎暑であり、酷暑の真っ最中です。
かてて加えて「節電」を求められていますから、船にでも乗れば涼しいかと
豊洲のららぽーとから浜離宮に行ってきました。
涼しいどころか、炎熱地獄でしたが、収穫はありました。
この浜離宮が江戸時代の大名庭園で将軍が鷹狩をしたり、鴨を撃ったりした
ところといううことは知っておりましたが、ここがいまでいう迎賓館で国賓第
1号を接待したところだっとは知りませんでした。
そこでガイドの受け売り。
国賓第1号は英国ビクトリア女王の第2皇子のエジンバラ公アルフレッドで
25歳、海軍士官でフリゲート艦の艦長として世界周航の途中でした。明治2
年7月のことでした。
なにぶんにも訪問希望が明治政府に届いたのがその年の4月、ここにあった
旧幕府海軍伝習所を補修して宿舎にすることにしたのだそうです。
館名は、「延遼館」、遠来のお客様を招くという意味で明治政府最初の迎賓
館の誕生でした。
五稜郭戦争が5月に終わったばかりの7月ですからはたしてどんな国賓接待
ができたでしょうか。西洋風ではなく、和風だったと聞きました。
たとえば、宴会招待状とか晩餐会の料理メニューとかの印刷はどうしたのかな
と考えてしまいます。おそらく木版だったでしょう。明治2年には活版は無理だ
ったと思います。
数県しかないといいますからまだ炎暑であり、酷暑の真っ最中です。
かてて加えて「節電」を求められていますから、船にでも乗れば涼しいかと
豊洲のららぽーとから浜離宮に行ってきました。
涼しいどころか、炎熱地獄でしたが、収穫はありました。
この浜離宮が江戸時代の大名庭園で将軍が鷹狩をしたり、鴨を撃ったりした
ところといううことは知っておりましたが、ここがいまでいう迎賓館で国賓第
1号を接待したところだっとは知りませんでした。
そこでガイドの受け売り。
国賓第1号は英国ビクトリア女王の第2皇子のエジンバラ公アルフレッドで
25歳、海軍士官でフリゲート艦の艦長として世界周航の途中でした。明治2
年7月のことでした。
なにぶんにも訪問希望が明治政府に届いたのがその年の4月、ここにあった
旧幕府海軍伝習所を補修して宿舎にすることにしたのだそうです。
館名は、「延遼館」、遠来のお客様を招くという意味で明治政府最初の迎賓
館の誕生でした。
五稜郭戦争が5月に終わったばかりの7月ですからはたしてどんな国賓接待
ができたでしょうか。西洋風ではなく、和風だったと聞きました。
たとえば、宴会招待状とか晩餐会の料理メニューとかの印刷はどうしたのかな
と考えてしまいます。おそらく木版だったでしょう。明治2年には活版は無理だ
ったと思います。