活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

50年で、せっかくの活版印刷が消えていた

2011-08-25 11:10:28 | 活版印刷のふるさと紀行
 原城から見る島原湾の風光は何度訪ねても、つい、見入ってしまいます。
有馬晴信が失脚以前、少年のころから日野江城からわずか3キロしか離れ
ていない原城やこの海をを眺めていたといいます。原城築城を思いついたは
祖父の清純でした。文献には原城と日野江城の間全長2キロの朱塗りの橋が
あったといいますが、それがどこであったかは確認できません。

 島原の乱のときは廃城になっていましたが、原城は築城技術の面から見て
もなかなかのものだったといいます。本丸正面の水路には、当時、貴重だっ
た瓦が敷き詰められていましたし、発掘された中に景徳鎮の染付陶磁器など
がたくさんあったといいます。有馬の黄金時代はたいしたものでした。

 1590年、天正18年に少年使節たちが帰国したときは、禁教下には
ありましたが、まだ、晴信は健在でした。使節たちが持ち帰った印刷技術を
はじめ、西欧の知識や技術は秀吉の手前、遠慮しいしいですが、いったんは
島原半島で花開いたのです。

 1549年のザビエルの来日以来1645年ごろ日本在住の最後の神父が
殉教した約100年間をキリシタンの世紀と呼ぶ人がいます。島原の乱は
1637年ですからかろうじてその中に入りますが、12万余の幕府軍の投
入によって島原半島からは一切の南蛮文化が殲滅させられたといってよいと
思います。キリシタンの世紀はここが終点ではないでしょうか。

 原城に立て籠もった一揆のキリシタンのなかに、印刷されたキリシタン版
の持ち主はいなかったでしょうし、彼らが集まって祈祷するときに手にして
いたのはおそらく隠れキリシタン独特の祈祷文を手書きした紙切れだったと
思います。すぐお隣の加津佐で活版印刷がはじめて日の目を見てから、わず
か50年のあいだにこんな状態になってしまっていたのです。
コメント
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