活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

フィレンツェの日本地図

2011-08-13 11:15:33 | 活版印刷のふるさと紀行
 フィレンツェの国立公文書館に古い日本地図が所蔵されています。

 天正遣欧使節は1585年の3月にフィレンツェのメディチ家ヴェッキオ宮殿
に旅装をときました。破格の待遇でした。

 使節派遣を企画したヴァリニャーノがインドで使節たちを見送るときに
「あまり、贅沢な思いをさせないように」と付き添いのメスキータ神父に釘をさした
はずですが、なんとメディチ家のような大富豪の邸宅が宿に選ばれたのです。

 そのメディチ家に彼らが滞在中に、使節たちが日本から持ってきた地図を
ポルトガル人神父が模写したと伝えられているのが、この公文書館にある地図です。
 はたしてそれが事実かどうかはわかりません。といいますのは、当時の日本では
日本全図がそう簡単に手に入らなかったはずです。というよりも、なかったからです。
 日本で地図と呼べるようなものが出来たのは、江戸時代になってからで、それ
以前は天智天皇の時代に僧、行基がつくった『行基図』しか見当たりません。
 このメディチ家に伝わる地図は行基図に似ていないこともありませんが、かなり
違います。

 国分けがしてあり、各国に城、かなり、西洋ふうですが、書き込まれております。
南北が逆になっていて九州が右にあり、国それぞれにFigen12、(肥前12)、Bungo8
(豊後8)などと書き込まれています。おもしろいのは、城には十字架の旗が掲げられて
いるのと、旗の無い城があります。キリシタン大名の治める国とそうでない国の区分け
でしょうか。行基図にも郡数が書き込んであるものがあるので、意外に言い伝え通り
かも知れません。その直後、1595年、ポルトガル人ルイス・ティセラが制作した
もうちょっとマシな地図(写真下)とくらべてみたいものです。




http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=942329bc2e9b41ad8c2b80135a788807#

 


 
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キリシタン版印刷機運搬の謎

2011-08-12 16:48:01 | 活版印刷のふるさと紀行
 これは島原半島の加津佐の海岸です。
 うしろの小高い山が前にも紹介しましたが、日本ではじめて金属活字で
活版印刷が行われたと思われる「天辺の丘」です。

 前回、海続きでこの加津佐の隣、口之津の資料館で白石館長に私の不勉
強を笑われた失敗談を書きました。

 世の中には不思議な縁でつながっていることがあります。その白石館長の
ご子息にまた、私がいろいろ教えを受けることになろうとは夢にも思いませ
んでした。ご養子にいかれて姓こそ二羽とおっしゃる館長のご子息と偶然お
知り合いになったのです。

 そして、いろいろ教えていただいたのですが、その一つを披露しましょう。
 最後の寄港地マカオからジャンクに積んだキリシタン版の印刷機や諸材料は
長崎に着き、それからいったん有馬に運ばれました。
 そして有馬から小舟で加津佐にはこばれ、浜からセミナリヨの生徒たちの
肩に背負われて「天辺の丘」に担ぎ上げられたと想像したのです。

 ある日、二羽先生のクルマで長崎空港から口之津経由で加津佐に向かったと
き、「この付近には渦潮があって潮流が激しいので、印刷機を積んでそれを乗
り切るの当時の小舟では難しかったと思います」先生が海面を見ながら、つぶ
やくようにおっしゃったではありませんか。

 目の前の波打ち際ににアコウの樹が数本あるところでした。その奇怪な根っこ
を見ながら私はたじろぐ思いでした。
 かなり、調べて書いてはいるつもりですが、思わぬところに「落とし穴」が
あるものです。

 はたして400年前、どのようにして印刷機は天辺の丘に持ち込まれたのでし
ょうか。まだ、考え付かない私です。


 
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長崎原爆忌の日に

2011-08-11 12:23:15 | 活版印刷のふるさと紀行
 長崎に原爆が落とされてから66年目の記念日、テレビの式典に見入っていて、
ふっと、同じ長崎でキリスト教禁教のために弾圧され、殉教して行った人のこと
を思い浮かべました。

 実は私は日本の活版印刷の誕生を調べるために、長崎各地を歩き回るまで長崎
のキリシタン弾圧についてあまりにも知りませんでした。。
 取材先にうかがってその話が出るたびに恥ずかしい思いをしました。その最た
る思い出は小著「活版印刷紀行」で披露しましたが、口之津の歴史民俗資料館に
白石正秀館長を訪ねたときでした。


 口之津は天正遣欧少年使節一行が8年半ぶりに帰国して、ドラードが中心にな
って日本最初の印刷所を開いた加津佐のすぐ隣りです。
 私は「この資料館になにかキリシタン版ゆかりの品はありませんか」といまは
亡き白石館長にたずねました。
 
 「ここは全村民こぞって島原の乱に参加、全員殺されたところですよ」島原の
乱以後にあたらしい住民によって村づくりがはじまったところに、ゆかりの品な
どあろうはずがありません。

 写真は島原の乱よりも16年も前、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会
の司祭や修道士が火あぶりにされている様子で、その下には一般のキリシタンた
ちが首を斬られている『元和8年、長崎大殉教図』で現場を見た日本人キリシタ
ンがマカオに逃れて描いた絵でローマのジェス教会にあります。
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日本最初の迎賓館

2011-08-10 11:57:36 | 活版印刷のふるさと紀行
 立秋と聞きましたが、トンデモナイ。全国の都府県で35℃以下のところが
数県しかないといいますからまだ炎暑であり、酷暑の真っ最中です。
 かてて加えて「節電」を求められていますから、船にでも乗れば涼しいかと
豊洲のららぽーとから浜離宮に行ってきました。
 涼しいどころか、炎熱地獄でしたが、収穫はありました。

 この浜離宮が江戸時代の大名庭園で将軍が鷹狩をしたり、鴨を撃ったりした
ところといううことは知っておりましたが、ここがいまでいう迎賓館で国賓第
1号を接待したところだっとは知りませんでした。

 そこでガイドの受け売り。
 国賓第1号は英国ビクトリア女王の第2皇子のエジンバラ公アルフレッドで
25歳、海軍士官でフリゲート艦の艦長として世界周航の途中でした。明治2
年7月のことでした。

 なにぶんにも訪問希望が明治政府に届いたのがその年の4月、ここにあった
旧幕府海軍伝習所を補修して宿舎にすることにしたのだそうです。
 館名は、「延遼館」、遠来のお客様を招くという意味で明治政府最初の迎賓
館の誕生でした。

 五稜郭戦争が5月に終わったばかりの7月ですからはたしてどんな国賓接待
ができたでしょうか。西洋風ではなく、和風だったと聞きました。
 たとえば、宴会招待状とか晩餐会の料理メニューとかの印刷はどうしたのかな
と考えてしまいます。おそらく木版だったでしょう。明治2年には活版は無理だ
ったと思います。

 
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『レクラム文庫』からの連想

2011-08-07 11:37:27 | 活版印刷のふるさと紀行
 『レクラム文庫』を創刊したとき、アントン・フィリップ・レクラムは60
歳でした。彼は若い時から低価格で多人数の読書人にこたえる優れた出版物を
出すための経営体質づくりを追い求めておりました。

 32歳の1839年にはライプッヒの印刷所を買収して自社の出版物はすべ
てここで印刷すると決めました、。さらに文庫発刊5年前、1862年には出版
と印刷両部門の入る建物を用意して、「これで企画と販売の一貫体制と自社で
の大量印刷の素地ができた」と喜んだといいます。
 
レクラム文庫の売れ行きはすごいものでした。日本でも丸善が輸入販売した
といいますが、愛読者として森鴎外、新村出、柳田國男、木下杢太郎らが知ら
れておりますし、戦前の旧制高校生に引っ張りだこでした。
 レクラム文庫の好売れ行きとともに、レクラム社の社屋や印刷設備は次々に
拡大され、大出版社の名をほしいままにしました。


 岩波文庫の場合、精興社のような協力会社もあって順調に発展しましたが、
自社印刷の経営は今日に至るも見られておりません。講談社も小学館も集英社
もハードは自社以外に求めているのが現状です。

 しかし、このソフトとハードが別々にという形がいつまでつづくでしょうか。
出版物が輪転機で大量に印刷される時代には設備投資は印刷会社が負担してで
よかったでしょう。けれども印刷工場がプラントみたいな様相を呈している時
代はそう長くは続きません。
 電子出版時代もとなると、ソフトもハードも渾然一体型になり、出版業と印
刷業の線引きもなくなるのではないでしょうか。情報加工業として一体化する
のが自然です。 出版印刷で残るのは「製本」の部門だけ。そんな風になるの
ではないかというのが私の連想です。

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出版は出版社、印刷は印刷会社の日本

2011-08-07 10:23:54 | 活版印刷のふるさと紀行
 日本の場合出版社は出版社、印刷会社は印刷会社、ソフトとハードが確然と
わかれております。もっといえば、印刷会社は出版社の出版活動のハード面を
引き受けており、いわば、縁の下の力持ち、下請けでしかありません。

 外国の場合はどうでしょうか。私が見学したフランスやドイツ、イギリスな
どでは、たいてい「大きな出版社は大きな印刷会社」、「大きな印刷会社は大
きな出版社」でした。

 さらに、印刷部門は日本の大手印刷会社のようにフル稼働ではなく、印刷機
が停止して工場内がガランとしている時間が持てているようでした。また、製
版数が日本に比べてうんと少ないことにも驚かされました。

 それはそれとして、日本の新書や文庫には先輩がいます。『ペンギンブックス』
であったり、『エブリマンズ・ライブラリー』であったり、『レクラム文庫』で
あったりします。

 1914年(大正3)に日本で創刊された『アカギ叢書』はみずから「日本の
レクラム」をうたっていたといいますが、1927年(昭和2)創刊の『岩波文
庫』の元祖がレクラムだということの方がはるかに知られております。

 その元祖、『レクラム百科文庫』は1867年、日本でいえば江戸時代最後の
慶応3年にアントン・フィリップ・レクラムによって創刊されています。たしか、
出版社主としては父親のあとを継いだ2代目だったはずです。

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80年つづいている印刷業のありよう

2011-08-06 12:46:16 | 活版印刷のふるさと紀行
 印刷業のありようという変な言葉を使いました。体質といってもいいかも
知れません。いや、もっとシリアスに本質といってもいいと思います。
 なぜか、私は「受注産業」であるからにはクライアント第一という印刷産
業の経営体質はもういい加減に改まってもいいと思うのですが、2011年
現在まだ、ほとんど変わっているとは思えません。

 実はこの体質をつくりあげた根源が円本や文庫、あるいは大衆雑誌の大量
印刷、1920年代の終わりの時期にあると見ています。
 大量に印刷して、低価格で売るという出版社の企画に、おりしも不況にあ
えいでいた印刷会社が唯々諾々と乗ってしまって、自ら設備投資をして、低
賃金で人集めして協力してしまったのです。

 少なくとも明治の印刷業の揺籃期は発注者と対等でした。官員さんが馬車
を仕立てて原稿持参で「恐れ入りますが、お頼の申します」といった光景す
ら見られたというではありませんか。

 それが、出版社は自社設備はなにもしなくて、印刷会社にリスク負担をさ
せて本を出すようなことができるようになったのは、この円本ブーム以来だ
といえます。
 「印刷会社はハードのみ」というようなことが不文律になって、発注者上
位の構造がいつの間にか定着してしまったのです。
 徳永 直の『太陽の無い町』は生まれべくして生まれたのです。
 
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円本から文庫へ、そのとき印刷界は 2

2011-08-04 17:17:45 | 活版印刷のふるさと紀行
 この円本ブームのとき出版界も印刷界も不景気に見舞われて青息吐息でした。
金融恐慌、昭和恐慌と呼ばれた不況の渦中ですから当然といえば当然ですが、
不思議なことに、印刷界では「大量印刷時代」が華々しく幕を開けていたのです。

 行先の遠近を問わず運賃1円のタクシー「円タク」からのネーミングといわれ
る円本は大正15年から昭和4年末までに全部で300点ぐらいの企画がたてら
れたといいます。
 
 書物の大衆化などといえば聞こえがいいのですが、実際には当時の読書人口を
はるかにオーバーしていましたから昭和5年に至って円本ブームの火は消えます。
 しかし、文庫本ブームがそれに続いたのです。
 それだけではありません、『週刊朝日』や『サンデー毎日』の創刊が大正11年、
14年には鳴り物入りで講談社から『キング』が登場します。雑誌の大量印刷も
始まったのです。

 キングの創刊号は75万部、昭和3年11月の増刊号は150万部の売れ行き
部数はいまであっても驚くべき数字です

 こうした大量印刷に対応するために印刷会社も大規模な設備投資をしなくては
なりませんでした。
 秀英舎(大日本印刷)は活版輪転印刷機を内外の印刷機メーカーから調達した
のを皮切りに生産能力のアップに努め(大日本印刷百三十年史)
博文館印刷と精美堂印刷の合併で一躍業界トップに躍り出た共同印刷、
オフセットや紙器に力を入れ、その共同印刷を抜き返した凸版印刷というような
形で印刷会社も熾烈な競争を展開しました。

 おそらく、この円本・文庫本に加えて雑誌の大量印刷がつくりだしたのが、
日本である意味での印刷業のありようを決定づけたといってよいといえます。
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円本から文庫へ、そのとき印刷界は 1

2011-08-04 11:09:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 この4日ばかり涼しい日が続きましたので、ゆっくり遊べました。
うんと勉強できましたというのならわかりますが、情けない話です。

 唯一、書店めぐりは何店かまとめて出来ました。
 私の場合、文藝書の新刊コーナーの次に見て回るのは文庫本と新書
の棚です。とくに作家別や分野別ではなく、あらゆる分野の本が渾然
一体、無造作に」並べてある棚を見て回るのが好きです。

 さて、その文庫本ですが、日本の文庫の元祖みたいに思われている
『岩波文庫』が1927年(昭和2)で、『新潮文庫』が翌年の
1928年、『改造文庫』が翌1929年と三年続きで誕生しております。

 短期間に多品種を出版しなくてはならない文庫本の印刷を引き受け
なくてはならない印刷会社もさぞや大変だったろうと思うのですが、
印刷史の上では、文庫本ではなく「円本」について書き込んである本
が圧倒的です。

 岩波文庫の誕生のキッカケを大正末期から昭和初期の円本ブームに
あるという意見がたくさんあります。円本企画に乗り遅れた岩波書店
が起死回生の出版企画として打ち出したのが『岩波文庫』だというの
です。

 たしかに、改造社の全38巻の『現代日本文学全集』にはじまり、
新潮社の『世界文学全集』、平凡社の『現代大衆文学全集』と、いず
れも40万部とか50万部の予約でスタートしたという円本ブームは
印刷界にとって大変な改革をもたらしたといえそうです。






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