カレーなる日々 / शानदार दिन

インドの日常を中心に日々を綴っています。

ナマステ・インディア2023

2023年09月23日 21時17分59秒 | インド / INDIA

なんと28回目だそうである。
コロナで2020年から3年間中止になっていたが再開。
久しぶりに出かけてみた。

原宿から行ったのだが例年ならこの場所に大きなゲートがある。
しかしなかったのでこじんまりとやってるのかなと思ったら、
意外と普通規模でやってた。ただ渋谷から向かった道、
この写真の反対側は別のイベントだったので、
やっぱりこじんまりだったようだ。

初めての連れがいたので物販、飲食を冷やかした(偵察)あとは、
ステージへ行ってみた。

おおっ! インドと言えばエベレストだ!

そんなわけはない。エベレストはネパールと中国の国境だ。
なんでエベレスト何だろう・・・・。

南インドの舞踊バラタナティアムの後は、
インド大使館で教えてるヨガ講師のレクチャー。

 

再び物販を冷やかして軽くつまみながらビールを。

ティキンティッカとチーズナンと言う、
ビールのつまみにもってこいの軽食。
キングフィッシャーと共に。

戦利品は缶バッジ200円。

サイババブースで引いた無料のおみくじには、
「広い心を持つようにしなさい」とのお言葉が。
まだまだ修行が足らないようだ。

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ヒンドゥーの神々の物語「古代オリエント博物館」

2022年11月08日 21時19分59秒 | インド / INDIA

池袋サンシャインにある古代オリエント博物館で、
「ヒンドゥーの神々の物語」展が開催されている。
2022年9月23日~11月27日である。

入場料は1000円。ちょっと安く感じる。
いつもなら常設展+特別展で高いのだが、
今回は常設展が休館で特別展だけ観られるため安い。

まぁインド在住12年の私であるから、
今更ヒンドゥー教の神々でもないのだが、
日本で開催される展示会や美術展などは観たい。

最近の美術館、博物館の展示は撮影OKの物がある。
全部だはないが、ありがたい・・・。

左がバーラト・マータと言って、
ヒンディー語でインドの母と言う意味だ。
右はガンディーを始めインドの偉人や聖者。

まぁ昔ながらの神の絵もあったけど、
私にとって真新しい物でもないので撮らなかった。

逆にあっ!と思ったのがこの現代画である。

ムケーシュ・シンと言う画家が描いた、
「火神アグニ」である。
アグニはヒンディー語で「火」と言う意味で、
火を司る神様である。

綺麗である。芸術は爆発なので綺麗じゃいけない。
とかもしれないけど、綺麗だと思った。
それに火が迫ってくる感じがする。

この画家のコーナーがあったので、
現代に置いてそこそこ有名なのかも。

まぁ興味があれば行ってみられたし。

 

 

 

 

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インド75回目の独立記念日。

2022年08月15日 09時00分59秒 | インド / INDIA

1947年8月15日。
インドはイギリスから独立した。
今年で75年目。ちなみに日本は77回目の終戦記念日。

インドの国旗は、サフラン・白・緑の三色で
中央にあるのはアショーカ王の法輪。
サフランはヒンドゥー教、緑はイスラム教、
白は2つの宗教の和解とその他の宗教を表している。

インド国家は「インドの朝」と言う歌で、
詩聖ラビンドラナート・タゴールの作詞である。

<ヒンディー語>

जन-गण-मन अधिनायक जय हे, भारत-भाग्य-विधाता ।
पंजाब सिन्धु गुजरात मराठा, द्राविड़ उत्कल बंग ।
विन्ध्य हिमाचल यमुना गङ्गा, उच्छल जलधि तरंग ।
तव शुभ नामे जागे, तव शुभ आशिष माँगे, गाहे तव जय गाथा ।
जन-गण मंगलदायक जय हे, भारत-भाग्य-विधाता ।
जय हे ! जय हे !! जय हे !!! जय ! जय ! जय ! जय हे !! 

<日本語訳>

汝はすべての民の心の支配者 
インドの運命の裁定者 汝の名は奮い起こす
パンジャブ、シンド、グジャラート、マラータ、
ドラヴィダ、オリッサ、ベンガルの民の心を
ヴィンディヤ、ヒマラヤの丘にこだまし
ヤムナー川とガンジス川の奏でを混ぜ
インド洋の波によって歌われる
彼らは汝の祝福を求め祈り汝の喜びを歌う
人々全ての保護は汝の手の中にあり
インドの運命の裁定者
勝利を 勝利を 汝に勝利を

 

 

 

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「バーチャル旅行」のご案内。

2020年10月04日 21時40分59秒 | インド / INDIA

2020年はコロナウィルスによって世界が大きく変わってしまった。

私が住んでいるインドでは3月25日からロックダウンが始まり、
諸外国との交流が閉ざされてしまっている。
10月も臨時便の運航以外は入出国できない状態が続いている。

私は主に日本から来る旅行者の皆様に対しての、
インド旅行の企画立案から訪問先のご案内を仕事としている。
この状態では全く仕事がない・・・・のである。
そこで現在は・・・・バーチャル旅行を催行している。

「バーチャル旅行」とは?

オンラインのzoomなどの機能を使用し、
実際に私が訪れたインド各地で撮影した写真をお見せしながら、
見所をダイジェストで解説しご案内するツアーです。
その場でご質問にお答えする事も可能です。

現在、既存のツアーは下記の7つのコースをご用意しています。

① デリー世界遺産・満喫コース

   デリーにある世界遺産3か所を1時間でご案内。   
   (クトゥブ・ミナール、フマユーン廟、ラール・キラー)
   首都デリーに世界遺産が3ヶ所ある事はあまり知られていません。
   他の観光地へ行ってデリーを見逃している方も多いです。

 インド門です。

② アグラ世界遺産・満喫コース

   アグラにある世界遺産3か所を1時間でご案内。
   (アグラ城、ファテープル・シクリ、タージ・マハル)
   時間のない方はタージ・マハルしか行かれませんし、
   郊外にあるファテープル・シクリはほとんど知られていません。
   実際にこの3ヶ所を1日で回るのは厳しいです。

③ アジャンタ石窟群(世界遺産)・満喫コース

   アジャンタにある仏教石窟遺跡を1時間でご案内。
   550mに渡る川原の岸壁に30の石窟があり
   内部の仏教壁画や彫刻、仏像などが見所です。



④ ラジャスタン丘陵砦群(世界遺産)・満喫コース

   ラジャスタン州にある6つのお城を1時間でご案内。
   (ジャイプル、ジャイサルメール、ランタンボール、
    チットールガル、ジャラワール、メワール)の
   6ヶ所の城が世界遺産に登録されていますが、
   一番有名なジャイプルのアンベール城には行かれても、
   他の場所はアクセスが悪いため、なかなか行けません。
   このうち2ヵ所は私的「死ぬまでに見たいインドの絶景」
   としてお勧めします。

⑤ 山岳鉄道群(世界遺産)・満喫コース

   トイトレイン3ヵ所を1時間でご案内。
   (ダージリン・ヒマラヤ、シムラ・カルカ、ニルギリ)の
   3ヶ所が世界遺産に登録されていますが、
   一番有名なダージリン・ヒマラヤ鉄道以外は知られていませんし、
   行かれる方はほとんどいらっしゃいません。また人気があるため、
   乗車チケットの確保はかなり難しいです。

⑥ インドの働く人々コース

   インドには日本では見た事もない職業の方がいます。
   私がインド全国を回って撮影した秘蔵写真を公開しながら、
   クイズ形式でご説明して進めます。大人でも楽しめますが、
   お子様と一緒でもご参加ください。

⑦ インパール作戦戦没者慰霊コース

   このツアーは通常の観光ツアーとは違い、慰霊地を訪ね、
   戦没者の方に手を合わせご冥福をお祈りすると共に、
   今の生活に感謝するツアーです。

   第二次世界大戦の「インパール作戦」はご存知でしょうか?
   史上最悪の作戦と言われていますが、
   インドの東北地方、ミャンマーとの国境に位置する、
   マニプル州の州都インパールとナガランド州の州都コヒマにおいて、
   約9万人もの方が亡くなっています。

   この辺りは険しい山岳地帯であると共に、政治的な問題もあり、
   未だに立ち入りが困難な場所も多く、交通も不便であり、
   戦没者の方の遺品や遺骨の収集作業も進んでいません。

⑧ ラダック天空のコース
  
   標高3000mを超える地上と空とが近い所、
   この世の物とは思えないる天空の世界をご案内。
   チベット仏教の僧院(ゴンパ)と世界で2番目に高い峠を
   越えて行く、中国との国境に位置するパンゴンツォを中心に   
   レー王宮などをご紹介します。

⑨ 仏教の八大聖地巡礼コース

   生誕の地ルンビニ(ネパール)からブッダガヤ、サールナート、
   ラージギル、シュラヴァスティ、ヴァイシャリ、
   入滅の地クシナガル、サンキッサの8ヵ所をご案内。

   8ヶ所それぞれが離れており、アクセスも悪いため、
   1回で行こうとすると効率も悪く、日数も費用も掛かり、
   なによりも非常に疲れます。バーチャルツアーなら、
   1時間で8ヵ所を疲れもなく回る事ができます。

定番は上記9コースですが、上記以外の場所も、
ご希望に合わせてご案内する事が可能です。
まずはお問い合わせください。よろしくお願いします。

個人の方を始め、学校関係、福祉施設などからも、
引き合いを頂いています。団体、グループも歓迎いたします。

お申し込みはこのブログへのメッセージ、コメント、
知人関係者の方はメール、電話、SNSなどでご連絡ください。
また下記の「ロコタビ」でもお申込みいただけます。

① デリー世界遺産・満喫コース
    https://locotabi.jp/delhi/services/28085

② アグラ世界遺産・満喫コース
    https://locotabi.jp/delhi/services/28362

③ アジャンタ石窟群(世界遺産)・満喫コース
    https://locotabi.jp/delhi/services/28474

④ ラジャスタン丘陵砦群(世界遺産)・満喫コース
    https://locotabi.jp/delhi/services/28519

⑤ 山岳鉄道群(世界遺産)・満喫コース
    https://locotabi.jp/delhi/services/28478

⑥ インドの働く人々・学習コース
    https://locotabi.jp/delhi/services/28363

⑦ インパール作戦戦没者・慰霊コース
    https://locotabi.jp/delhi/services/28776

⑧ ラダック天空のコース
    https://locotabi.jp/delhi/services/28864

⑨ 仏教の八大聖地巡礼コース
    https://locotabi.jp/delhi/services/28888

⑩ オンライン雑談(旅のご相談、インドの質問などお受けします。)
    https://locotabi.jp/delhi/services/28090   

その他、購入代行もお受けしています。
インドで買いたい雑貨、小物、服飾品、書籍などが
ございましたらお問い合わせください。

本日はこのブログの趣旨とは異なる宣伝になってしまいましたが、
厳しい世界情勢を踏まえ、なにとぞご容赦くださいませ。

今後ともよろしくお願いいたします。

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仏教の八大聖地を訪ねる。

2020年03月08日 22時48分59秒 | インド / INDIA

仏教における聖地はインドとネパールに合計8ヶ所ある。
釈迦が生きていた当時はインドとネパールに国境はなかった。

釈迦は紀元前5世紀に北インド釈迦族の王子、
ゴータマ・シッダッタとして生まれ、
出家し修業の末に悟りを開き仏陀となり仏教の開祖となった。

仏教には八大聖地と呼ばれる場所がある。
それは下記の通りである。

① ルンビニ    :生誕の地
② ブッダガヤ   : 悟りの地
③ サールナート  : 初転法輪の地
④ ラージギル      :  布教の地
⑤ シュラヴァスティ: 教団本部の地
⑥ ヴァイシャリ  :最後の旅の地
⑦ クシナガラ      :入滅の地
⑧ サンカーシャ  : 昇天の地

このうち①~⑦は伝記にまつわる遺跡のある所であるが、
⑧だけは伝説に基づいた場所である。
①は現在のネパールに、②~⑧はインドにある。

①②③⑦を四大聖地と呼ぶ事もある。
私は①~⑦までは既に行った事があったが、
⑧だけはその他の7ヶ所から離れており残っていた。
今回ようやく八大聖地を制覇した。

行ってみて思ったのは、やはり・・・・
①~⑦は伝記にまつわる遺跡のある所なので、
十分見ごたえがあった。
⑧は伝説の場所であるので・・・
他の7ヶ所に比べると規模も残されている物も、
イマイチなのは否めなかった。
遺跡と伝説ではこれほど違うのかと思った。

サンカーシャはウッタル・プラデシュ州にある。
現在はサンキッサと言った方が通りが良い。
鉄道を使ってもバスを使ってもアクセスが悪い、
小さな村にあるので私は思い切ってアグラから車で行った。
片道4時間はかかるがデリーから日帰り可能だ。
鉄道やバスを使えばまる2日はかかる。
ヘタするとバスの時間がなく2泊せざるおえない。

行ってみて解ったのは(罰当たりかもしれないが)、
時間と費用をかけて行くほどの所でもない。

これから、その八大聖地をおさらいする。

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ガンディー 平和を紡ぐ人。

2019年06月30日 22時15分59秒 | インド / INDIA
今年はガンディー生誕150年である。
駒込の東洋文庫で行われたセミナーでガンディーについて語った人、
それがこの本の著者・竹中千春氏である。専門はインド政治、国際政治史。

私はガンディーマニアではないのだが、
旅する場所にガンディー所縁の物があれば、
とりあえず見に行く程度のファンではある。

ガンディー 平和を紡ぐ人 (岩波新書)
竹中 千春
岩波書店


この「ガンディー 平和を紡ぐ人」は2018年に出版された、
ガンディーの伝記本である。ガンディーが暗殺されて70年であった。
この中で竹中氏は、暴力と言う強風が吹いてる現代にこそ、
非暴力を説いたガンディーの人生を語らねばならない、と言っている。

ガンディーの名前は知っているが、
詳しくは知らないと言う人が多いと思う。
あるいは独立活動家になってからのガンディーは知っていても、
生誕からどうして独立運動に進んで行き、
カリスマ的指導者になってしまったのかは知られていない。

私はガンディーファンであるので、
彼が幼少の頃、肉食をしていた事や召使の金をくすねて煙草を買った事や、
怖がりで夜一人でトイレに行けなかった事、
奥さんと一緒にいたため父親の死に目に会えなかった事は知っていた。

しかし彼が弁護士になるためどうしてイギリスに行ったのか、
その時の時代背景や家族の中での立場は知らなかった。
そしてインドへ帰って来て仕事がなかったために、
仕方なく南アフリカへ行かなければならなかった事、
南アフリカでの生活、搾取されていたインド人達との関係、
独立運動へ進んで行った背景。

45歳でインドへ帰国するまで、
人生の大半を外国で暮らしていたガンディー。
イギリスと南アフリカでの生活がなかったら、
独立運動に目覚め指導者になる事はなかっただろう。

取り巻く人々が普通の人間であるガンディーを
カリスマ指導者「マハトマ」にして行ってしまった。
ガンディーの姿を一目見ようとする人々には、
私達と同じ普通の人間であるガンディーが、
聖者・・・いや神に見えただろう。

カーストや宗教、職業や資産に関係なくインド人であると言う、
ガンディーの主張には強く賛同する。

しかしその主張にも関わらず結果的にインドは、
イスラム教徒が大多数を占めるパキスタンと分離独立してしまった。
そしてインド国内的にも国際的にも孤高の人になってしまった彼には、
最終的に死しか残されていなかったのかもしれない。

ガンディーの事を理解したいと思われた方は、
この本を手に取られる事をお勧めする。

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盗賊のインド史 帝国・国家・無法者(アウトロー)

2019年06月25日 21時21分59秒 | インド / INDIA
プーラン・デヴィと言う女性がいた。
(1958年8月10日~2001年7月15日)
戸籍のいい加減なインドなので1963年生誕説もあり。

プーラン・デヴィを初めて知ったのは1997年頃である。
1995年頃からインドマニアであった私は、
インド関係の本はほとんど読んだし、東京近郊で行われる、
映画や芸能、イベントにはほとんど通った。
女盗賊プーランと言うインド映画を観て、原作本を読んだ。
原作を読んだのが先だったかもしれないが・・・。

インドの田舎に生まれたプーランと言う名前の女児が、
不運な生い立ちや時代背景もあり虐げられていたが、
巡り合わせもあり生きるために盗賊となり、
そして政治家にまで登り詰めていく、壮絶な人生・・・・。
日本ではありえない・・・・。
そしてこの映画から7年後に政治家になったプーランは暗殺されてしまった。
これも日本ではありえない・・・・。

私の記憶は大筋ではこうだった。

文庫 女盗賊プーラン 上 (草思社文庫)
武者圭子
草思社


文庫 女盗賊プーラン 下 (草思社文庫)
武者圭子
草思社


ガンディーのイベントで講演を聞いた竹中千春先生の著書で、
プーラン・デヴィについて書いた物があったので読んでみた。
先生はプーランの生家を尋ね家族にも会っているし、
本人からも話を聞いており、細かい正確な事まで理解できた。

家族背景、幼児婚、結婚後の生活、盗賊になるまでの状況、
盗賊になってからの人生、投降と引き換えに政治家になっていく様子、
政治家になってからの人生、環境の変化、家族の変化、暗殺の背景。

盗賊のインド史 帝国・国家・無法者(アウトロー)
竹中 千春
有志舎


プーランが生まれ育ったのは、
ウッタル・プラデシュ州とマディア・プラデッシュ州の州境の村、
近隣のチャンバル峠と聞けば誰でも知ってる山賊の宝庫である。

そもそもプーランはアウトカーストではなく、
シュードラの漁師階級であった。
11歳で30代の男性の4回目の結婚相手となったプーランは、
虐待され家に戻ってくるが出戻りは許されず家に入れてもらえなかったため、
放浪しながら時々家に戻ると言う生活を余儀なくされる。
更に父親を庇ったせいで村長や警官たちにも辱めを受ける。

ある日、村を襲った盗賊にさらわれ、そこでも辱めを受けるが、
ナンバー2が同じカーストだったためトップを殺し、
一緒にその盗賊を率いるようになる

更にその夫が殺害されると自らが盗賊を率いて、
かつて辱められた相手を襲ってリベンジを果たす。

11歳と言うまだ子供と言ってもいい歳から性的虐待を受け続けたら、
精神に異常をきたしてしまうんじゃないだろうか。
そうでないとしたら・・・
死んだ方がまし、死んで楽になりたいと考えてしまうかもしれない。

プーランと言う女性は自分が生まれ育った状況や環境に疑問を持ち、
本来弱い立場にありながら生きるために盗賊になり、
もがいても抜け出せない、どうしようもない状況で、
弱い立場の人々の為に戦い続けた義賊であった。と言われている。

お尋ね者となったがなかなか捕まらず、
死刑にはしないと言う司法取引で投降し11年間牢獄に入る。
もっとも投降するところを見に来た大勢の人々はただの好奇心で、
彼女を義賊だとは思っていなかったと言う説もあるが。

獄中でヒンディー語やカーストなど勉強し、
カーストや性差別の撤廃を求めて政治活動を開始し、
1996年インド社会党から立候補し国会議員となった。

ところが2001年7月15日、
昼休みのためデリーの国会議事堂から自宅に戻った所を、
3人の男により銃撃され暗殺されてしまった。
プーランに殺された上位カーストによる報復と言われているが、
どうも怪しいらしい。暗殺されていなかったら、
その後どうなっていただろうか?

この本を読んでいろんな事が解った。
まず、盗賊団はアウトカーストの人間だけではなく、
様々なカーストが入り交り盗賊団の中でもカーストが存在している。
これはスラムの住人も同じである。

盗賊にはパートタイマーがいて普段は農業をしているが、
農業の閑散期になると盗賊になる者がいる。

その昔、低カーストに対して上位カーストはやりたい放題であった。
都市部では少しずつ変わってきてはいるが、
田舎では今でも同じであると私は思っている。

現にプーランの生まれたチャンバル峠付近では、
今でも昔と変わらぬ山賊が出没しているし、
他の州境の山間部でも山賊が出没する場所がある

地方都市でもショッピングモールやマンションが建設され、
中間所得層がお金を持つようになってきてはいるが、
インドには国際貧困ラインである1日2ドルで生活する人が3億人以上いて、
スラムの人口も1億人以上いるらしい。

スラムの人はちゃんと仕事をしているのでいいけれど、
路上生活者は何とかならないものだろうか。
交差点で車が止まる度に手を出してお金を乞う人々、
マーケットで買い物に来る人に手を出す人々、
寺院の前で座り込んでいる人々の数は多い。

この様に底辺で暮らす人々の暮らしに変化はないと思う。
この底上げを二期目を迎えるモディ政権がどう考えているのか、
であるが・・・・格差が広がるだけであろうと思う。

話はそれてしまったが「盗賊のインド史 帝国・国家・無法者(アウトロー)」は、
インドのカースト差別や性差別を知る上で、とてもいい一冊だと思う。

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インド建国の父「S.C.ボース」その②。

2019年05月31日 21時59分59秒 | インド / INDIA
1947年のインド独立に際して重要な役割を果たしたのが、
ガンディーであり、ボースであり、ネルーや独立運動に参加した、
政治家やたくさんのインドの民衆であった事は当然である。

また、日本の協力も大きかったと思う。

ボースとインパール作戦を調べてみて私が感じた事だが、
もしもボースがミャンマーで・・・・
ビルマ方面軍司令官の河辺中将に会わなければ・・・・
インパール作戦は行われなかったかもしれない。

インパール作戦は1943年3月に昇進した牟田口中将が、
強固に主張した作戦で、河辺中将は一部賛成していたが、
情勢は極めて不利であり、作戦は中止すべきであった。

ボースがミャンマーで河辺中将に会ったのは1944年1月である。
河辺中将はインド独立に架けるボースの気持ちに打たれ、
全面的な協力をしようと言う気持ちになったのではないか。

あの日、あの時、あの場所で・・・
河辺中将がボースに会わなければ・・・
インパール作戦は中止になっていたかもしれない。

インパール作戦は9万人もの尊い命が失われ(戦死、病死、餓死)、
失敗に終わり無謀な作戦の代名詞になっているが、
弾も尽き、補給もなく、病気に苦しみ、食料も尽きたにもかかわらず、
向かってくる日本兵にイギリス軍は恐れをなし、
戦いには勝ったが祝勝会も行わなかった。
東京裁判にインド人のパール判事を送り込んだのは、
敵ながらあっぱれと敬意を表したのだと考えられる。

インパールを越えて―F機関とチャンドラ・ボースの夢
国塚 一乗
講談社


1945年8月18日、ボースは台湾から中国の大連に向かう時に、
離陸時の飛行機事故によって瀕死の重傷を負い、
台北市の病院に収容されたがインド独立を見ずに死去した。

「インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、
 インドの独立は目睫の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。
 自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては
 少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ。」

「私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。
 私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、
 祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。
 インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」と告げた。

当番兵がボースに「何か食べたいものがあるか?」と聞くと、
「カレー。」と聞こえたため、当番兵がカレーライスを作り、
スプーンで食べさせると、ボースは「グッド。」と答えた。
しかし2・3口食べると、ボースはそれきり動かなくなった。

夏期である上に火傷による損傷が激しかったため、
荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が営まれた。

9月5日にボースの遺骨は日本に運ばれ、
東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺の住職望月教栄が葬儀を引き受け、
9月18日にボースの葬儀が行われた。

インド独立連盟東京代表のラマムルティ氏は遺骨を蓮光寺に託した。
遺骨の一部はラマムルティ氏の弟から、
2006年にボースの兄の孫に返還された。



東京メトロの東高円寺駅の近くに連光寺はある。
日蓮宗の小さなお寺である。



入口の正面に1975年に設置されたボースの胸像がある。

 

胸像の裏側にプレートが埋められており、1957年にネルー首相、
1958年にラジェンドラ・プラサード大統領、
1969年にインディラ・ガンジー首相、
2001年にバジペイ首相が訪れた記録があった。

遺骨は本堂の向かって右の特別の祭壇に納められている。
白い布に包まれた骨壺を納めた木箱があるそうだ。

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インド建国の父「S.C.ボース」その①。

2019年05月30日 22時15分59秒 | インド / INDIA
革命家チャンドラ・ボース―祖国解放に燃えた英雄の生涯 (光人社NF文庫)
稲垣 武
潮書房光人新社


インド独立の父としては「ガンディー」が有名だが、
ガンディーが非暴力を訴えたのと対象に
武力をもってしても独立を勝ち取るべきと訴えたのが、
スバス・チャンドラ・ボースである。

1897年に西ベンガル州カタック(現在はオリッサ州)に生まれ、
弁護士であった父親に影響を受けて育ちカルカッタ大学で学士号を取得。
1919年に両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学の大学院に留学した。

1920年頃からインドの独立運動に参加しはじめ、
翌年ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。

ボース自身は非暴力での独立は現実的ではないと考え、
イギリスの武力支配に対抗するには武力をもって独立するしかない、
との信念を抱いており非暴力主義には強く反対していた。

イタリアのファシズムに傾倒し、1926年には、
「ファシズムと共産主義の新たな総合をインドは実現する」べき、
であると主張しイギリスからマークされた。

インド独立―逆光の中のチャンドラ・ボース
長崎 暢子
朝日新聞社


その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、
勢力を伸ばし、1938年度の国民会議派議長に推薦された。
ボースはインドを解放できる国はソ連だけだと考えており、
社会主義的思想の点からも親近感を持っていたため、
ソ連に向かおうとしたが入国できなかったため、
1941年ドイツに入国した。

しかし、ドイツやイタリアと同盟を結べなかったため、
日本に協力を求めようと考え、1943年日本に入国した。

日本で活動していたビハーリー・ボースやA.M.ナイルと合流し、
ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁と
インド国民軍最高司令官に就任した。
当時の首相であった東條英機は最初は相手にしていなかったが、
次第に人柄に魅せられていった。

1944年ミャンマーで河辺中将に会った事から、
インパール作戦が決行されていくのであった。

1945年終戦後・・・ボースは中国にインド仮政府を置く事を計画し、
台湾より満州国へ向かうが、飛行機が離陸時に事故を起こし死亡。
インドの独立(1947年)を見る事はなかった。

今でもインドの公立の施設や学校には、
ガンディーやネルー(インド初代首相)の写真と共に、
ボースの写真が飾られている所も多い。

インド独立にかけたチャンドラ・ボースの生涯 (1971年)
新樹社,アレクサンダー・ヴェルト
新樹社


インパール作戦とボースの墓については後日、別途記載する。

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インド建国の父「M.K.ガンディー」その②。

2019年05月29日 22時03分59秒 | インド / INDIA
1915年、46歳の時にインドへ帰国したガンディーだが、
イギリス軍によるアムリトサルの大虐殺(1919年)から、
「イギリスへの協力は独立へとつながらない」と思うようになった。

第一次世界大戦(1914~18年)後、不服従運動を展開し、
イギリス製品の不買運動を行い、
インドの綿製品(カーディ)を着用することを呼びかた。
綿を紡ぐチャルカ(糸車)を回すガンディー。



1930年にはイギリスによる塩の専売に反対し、
グジャラート州アーメダーバードからダーンディー海岸まで
約386Kmを抗議の為に行進した「塩の行進」は有名である。



ガンディーは非暴力でインド独立を勝ち取ろうとし、
たびたび断食をして訴えた。宗教やカーストに関係なく、
インドに住んでいるインド人はみな同じインド人であると言う理念から、
イスラム教徒を含めヒンドゥスタンとして独立を望んだが、
結局はインドとパキスタンは1947年、分離独立した。

 

そして1948年1月30日、ガンディーは、
ヒンドゥー至上主義者によって暗殺されてしまう。
ヒンドゥー教徒でありながらイスラム教徒に肩入れしたと言う理由で。

ガンディー 魂の言葉
浅井 幹雄
太田出版


マハトマーとは、ヒンディー語で「偉大なる魂」と言う意である。
これは詩聖ラビンドラナート・タゴールが名付けたのだが、
ガンディー自身は「バブー(お父さん)」と呼ばれる事を好んだそうだ。

私の友人でアーメダバードのガンディーの大学で7年学んだ、
変人(尊敬の念を込めて、あえてこう呼ぶが)がいるが、
彼女曰く、ガンディーはただの偏屈で頑固な爺さん、だそうだ。

今年の10月2日には最大な誕生祭が行われるかもしれない。
ちょっと楽しみである。

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インド建国の父「M.K.ガンディー」その①。

2019年05月28日 21時32分59秒 | インド / INDIA
世界で最も知られているインド人であろう。
今年はガンディー生誕150周年である。

ガンジー自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)
蝋山 芳郎
中央公論新社


モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディーは、
1869年10月2日グジャラート州の海岸にある
ポールバンダルと言う町で生まれた。
父はポールバンダル藩王国の宰相であった。

小学校の時に父親の仕事の関係でラージコットに引っ越したが、
成績は悪く肉食をしたり煙草代を工面するために、
召使いのお金をくすねたりしていたそうだ。



ラージコットでガンディーが暮らしていた家は、
商店街の中にあったがひときわ大きな屋敷だった。
現在は記念館になっており写真などが展示してある。



12歳で上の写真のアルフレッドハイスクールに入学したが、
当時の習慣で13歳の時にカストゥルバと結婚したため、
学業よりも奥さんが気になって仕方なかったと自伝にも書いてある。
17歳の時に父親を亡くした時にも奥さんと一緒にいたため、
死に目に会えなかった。それが後に禁欲的生活につながって行く。
現在、学校は閉鎖されており中には入れない。

18歳の時、弁護士になるために妻子を残してロンドンに留学。
そこでバガヴァット・ギーターや新約聖書などを読み、
インド哲学や文化、ヒンドゥー教の精神も勉強した。

これはガンディーの研究者である立教大学の竹中教授の話であるが、
意気揚々と帰国したガンディーであったが、
この時分のインドでは弁護士としての仕事はなかったとの事である。

仕方なく24歳の時に南アフリカに渡ったガンディーは、
白人優位の人種差別を肌で感じ、インド人の為に弁護をし、
そこからインド独立運動へ進み始める。
南アフリカのダーバン近郊で共同農園を創設し、
禁欲、断食、清貧、純潔を実践していく。
1915年、46歳の時にインドへ帰国。(続く。)

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こんな「ペペロンチーノ」はイヤだ!

2018年10月19日 21時52分59秒 | インド / INDIA
「ペペロンチーノ」とは・・・・
正確には、アーリオ、オーリオ、ペペロンチーノである。
イタリア語で、アーリオ(にんにく)、オーリオ(オリーブオイル)、
ペペロンチーノ(唐辛子)である。スパゲッティの他には、
この3つしか使っていないので、そう呼ぶ。

と言う訳で、本来はとてもシンプルなスパゲッティである。


             
ケララ州のコチのイタリアン・レストランで遭遇した一品。
まず・・・インドに良くありがちなスパゲッティではなく、
ペンネであった。
もちろん注文はスパゲッティ・ペペロンチーノである。
ペンネと言えばアラビアータが有名だが。


             
ヒマーチャル・プラデーシュ州の州都シムラーのレストランで遭遇した、
具材の多すぎるペペロンチーノ。

オリーブは許すとしても、ブロッコリー、パプリカ、ピクルス。
唐辛子は唐揚げになってるようで恐る恐る食べてみたら、
ぜんぜん辛くなかった・・・なんだろ漬物か?
そしてこの後・・・・お腹が壊れた・・・。呪われてる~。

さて、私史上最も驚いた代物はこれっ!
             


ジャンム・カシミール州のレーの評判の良いレストランで出て来た。
外国人も多く訪れているにもかかわらず、
ペペロンチーノを知らない人が作ったとしか思えない。

周りに添えられたトマトトピーマンは許すとしても、
スライスされたオリーブとチーズでパスタが見えない。
よく見ればパスタにもピーマンやトマトが混ざっている・・・。

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こんな「パンケーキ」はイヤだ!(その②)

2018年10月18日 21時23分59秒 | インド / INDIA
次に具材が生地の中央に入っているタイプ。
つまり生地で具材をサンドしている物。


            
これは生地のホットケーキは良い感じで、
小さめのホットケーキの2枚の間に入っている。
ケララ州のコチで遭遇。


            
これは二つ折りになったホットケーキの中央に、
フルーツが入っている。バナナとスイカ。
スイカって凄い。日本人の発想にはないね。
ジャンム・カシミール州のレーのカフェで遭遇。


            
ウッタラカンド州のリシケシのカフェの物。
生地はチャパティっぽい。


            
デリーのパハールガンジのカフェで遭遇した、
チョコレート・パンケーキ。クレープ状に巻いてある。
このチョコレートの塗り方がヤバイ。
味には変わりはないけれど美味しそうに見えない。
で、翌日、注文したのがこれ。


            
やっぱりクレープ状に巻いてある。
中にはバナナ、やっぱりスイカ、パイナップルが入ってる。

クレープ状に巻いてあるのは結構多かった。
インドではチャパティで具材を巻いて食べる、
ロールと言う食べ物があるけど、そこから来てるのかな。
南インドのドーサなんかも巻いてあるタイプがあるし。

 
            
この二つはレーの同じカフェで食べた物。


            
これもレーのカフェの物だが・・・
フルーツが生地に混ぜてある、新しい手法。
面倒だったのかな?

そして私史上最強のパンケーキはこちらっ!!


            
グジャラート州のディーウ連邦管轄領の海に面した、
おしゃれなレストラン(べジだったけど)で遭遇した。
よく解らないけど・・・生地は半生っぽく柔らかい。
ううむ・・・ポルトガル領だったから、
ポルトガル風なのかな?

いやはや、いろんなパンケーキがあるものだ。

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こんな「パンケーキ」はイヤだ!(その①)

2018年10月17日 22時07分59秒 | インド / INDIA
先日、インドで初めてまともな(失礼)パンケーキに、
出会って感動した事を書いた。これね。
            


では今まで、どんなパンケーキがあったのか?
まとめて紹介してみる。


            
これは世界の言葉マクドナルドの朝食メニューの定番、
ホットケーキ。これは外れない。ライセンス料未払いの騒動の後、
今は食べる事が出来ないのが残念だ。

次に、ホットケーキな感じではあるが、
たぶんインドでは玉子やベーキングパウダーを使ってないから、
生地がこんな感じになるんだろう・・・と思わせる物。
            


ちゃんと丸いし、シロップ(インドの場合ハチミツ)が付いている。
でもふっくら感がない。プレーンなので具材はなし。
デリーのパハールガンジのカフェで遭遇。

次はホットケーキの上にフルーツが乗ってるタイプ。
            


バナナ少ないだろ! デリーのちょっと高いカフェで遭遇。


            
生地がクレープ状、これはカルナータカ州ハンピで遭遇。
南インドだからかな、バナナの葉に乗ってる。
生地は薄く大きい、バナナはテキトーにばらまかれている。
芸術的センスが全く感じられないなぁ。


            
これもパハールガンジのカフェの物。
バナナの上にチョコレートがかかっていて、それらしくなってる。


            
これはラジャスタン州プシュカルのカフェ。
プシュカルはノンベジ食べない所なので、
生地は黄色いけど玉子ではない。
バナナも斬新な切り方でチョコレートも物凄くテキトーにかかっている。
見た目も大事だなぁと感じさせる一品。

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【インドの世界遺産】 ~ 現在36ヶ所 ~

2018年09月03日 21時46分59秒 | インド / INDIA
インドの世界遺産は現在ヶ所である。
内訳は文化遺産がヶ所、自然遺産ヶ所、複合遺産ヶ所で、
年々増えている。私が行った当時は世界遺産ではなかった場所も、
何ヶ所も後から世界遺産に登録されている。

インド亜大陸 (ユネスコ世界遺産)
クリエーター情報なし
講談社


前回2015年にインドの世界遺産について記載したのだが、
その時点では文化遺産が25ヶ所、自然遺産7ヶ所だった。

その後、2016年に登録されたのが3ヶ所。
チャンディガール連邦管轄領のキャピトル・コンプレックス、
シッキム州のカンチェンジュンガ国立公園、
ビハール州ナーランダ―のナーランダ・マハーヴィハーラ(ナーランダ大学)の考古遺構。
そして2017年にグジャラート州のアフマダーバードも登録された。

カンチェンジュンガ国立公園は複合遺産である。
その他の3ヶ所は文化遺産で、もちろん訪れているので後日記載する。

週刊ユネスコ世界遺産 No.36 (インド タージ・マハル/アーグラ城)
クリエーター情報なし
株式会社講談社


  <インドの世界遺産:文化遺産28ヶ所と所在地(州)>

フーマユーン廟:デリー
クトゥブ・ミナールとその建造物:デリー
レッド・フォートの建造物群:デリー

タージ・マハル:ウッタル・プラデッシュ
アーグラ城塞:ウッタル・プラデッシュ
ファテープル・シークリー:ウッタル・プラデッシュ

キャピトル・コンプレックス:チャンディガール
オールド・ゴアの教会群と修道院群:ゴア

ビームベートカのロック・シェルター群:マディア・プラデッシュ
サーンチーの仏教建造物群:マディア・プラデッシュ
カジュラーホの建造物群:マディア・プラデッシュ

ジャイプルのジャンタル・マンタル:ラジャスターン
ラジャスターン州の丘陵要塞群:ラジャスターン

パタンのラニ・キ・ヴァブ:グジャラート
チャンパネール-パーヴァガドゥ遺跡公園:グジャラート
アフマダーバード:グジャラート

チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(旧名ヴィクトリア・ターミナス)
       :マハラシュトラ
エローラ石窟群:マハラシュトラ
アジャンター石窟群:マハラシュトラ
エレファンタ石窟群:マハラシュトラ

ブッダガヤの大菩提寺:ビハール
ナーランダ―のナーランダ・マハーヴィハーラ(ナーランダ大学)の考古遺構:ビハール
ダージリン・ヒマラヤ鉄道など山岳鉄道
          :西ベンガル/ヒマーチャル・プラデーシュ/タミルナドゥ
コナーラクの太陽神寺院:オディッシャ

ハンピの建造物群 :カルナータカ
パッタダカルの建造物群:カルナータカ
マハーバリプラムの建造物群:タミル・ナードゥ
タンジャーヴールのブリハディーシュヴァラ寺院:タミル・ナードゥ

週刊世界遺産 no.82―最新版 インド
クリエーター情報なし
講談社


週刊世界遺産 no.27―最新版 インド
クリエーター情報なし
講談社


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