永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(577)

2009年12月01日 | Weblog
09.12/1   577回

三十八帖 【鈴虫(すずむし)の巻】 その(7)

 この法会は、宮の御念誦堂開きの内々の催しのおつもりでしたが、帝も朱雀院もお聞き及びになって、勅使や御使いが使わされました。御誦経のお布施など置きどころのないほど賜りました上に、華やかな御寄進までありましたので、僧たちは夕方帰る寺にお布施の品々を置ききれないほど、たくさん頂いておいとましたのでした。

 源氏は、

「今しも心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづき聞こえ給ふ」
――女三宮がご出家された今になって、花の盛りを、ああもったいないと思う気持ちがつよくなって、いっそう心を込めてお世話なさる――

 朱雀院は、お譲りになった三條の宮に女三宮が別居してお住まいになる事も、ゆくゆくはそのようになるのであるから今からのほうが安心でしょうと、源氏におっしゃるのですが、源氏は、

「よそよそにてはおぼつかなかるべし。(……)なほ生ける限りの志をだに、失ひはてじ」
――別居では気がかりでなりません。(お側でお世話申すことを怠っては私の本意に背きます。死ぬまではいくらもない命ですが)生きている限りは、私の厚意を失いたくありません――

 とおっしゃりながらも、一方では三條の宮を念を入れて立派に修理なさるのでした。

ではまた。


源氏物語を読んできて(法事・法服2)

2009年12月01日 | Weblog
法親王球代五條袈裟姿

 平安時代の僧服には、法会用法服装束と、国家行事の儀式に用いる鈍色装束、ならびに平常家居、宿直(とのい)の用としての宿装束、それに加行(げぎょう)の律(りつ)装束が用いられた。
 
法皇、法親王あるいはこれに准ぜられる方々の宿装束を裘代(きゅうたい)といい、平安期初期に定められた。裘代とは大裘(だいきゅう)、即ち最高の礼服(らいふく)に代えるという意味である。
 
ここでは平安後期の姿になぞえ、僧綱襟という方立(ほうた)て襟をつけ、裘代(きゅうだい)の下には衵、単、大帷(おおかたびら)、指貫の下は大口あるいは下袴、襪をはき、手には檜扇、数珠を持ち五条袈裟をかける。

◆写真と参考  風俗博物館