09.12/27 603回
三十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(18)
「物の怪にわづらひ給ふ人は、重しと見れど、さわやぎ給ふ隙もありてなむ、物おぼえ給ふ」
――物の怪に患っていらっしゃる方(御息所)は、正気を失うほどかと思いますと、ご気分の良い時もありますようで、今は正気に返られたようです――
昼の頃、日中の御加持が済んだ後、阿闇梨が一人残って、なお、陀羅尼を読んでおります。御息所の快方に向かわれましたのを喜んで、申し上げますには、
「大日如来虚言し給はずは、などてか、かくなにがしが心をいたして仕うまつる御修法に、験なきやうはあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障にまつはれたる、はかなきものなり」
――大日如来が偽りを仰せにならないからこそ、私が心を尽くしてお勤め申し上げます御修法に験(しるし)があるというものです。悪霊は執念深いようですが、もともと自分の罪障に纏わりつかれているつまらぬ者どもなのです――
と、声もかすれるほどに物の怪を叱りつけております。この阿闇梨は仙人めいて至って飾り気のない人で、それが突然、
「そよや。この大将は、いつよりここに参り通ひ給ふぞ」
――そうそう、あの夕霧大将は、いつからこの宮にお通いですかな――
びっくりなさった御息所は、「婿の柏木亡きあと、故人が頼んで行かれた約束に背くまいと、あの夕霧大将は、年来何かにつけてお世話くださり、私へのお見舞いにもお立ち寄りくださったので、ほんとうに有難いと思っているのですが…」とおっしゃいますと、阿闇梨は、
「いであなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝後夜に参うのぼりつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出で給へるを、霧深くて、なにがしはえ見わい奉らざりつるを、この法師ばらなむ、大将殿の出で給ふなりけり、昨夜も御車もかへして泊まり給ひにける、と口々申しつる。…」
――いやはや、私にお隠しになる必要はございません。今朝、後夜(ごや)のお勤めに参上しました折、あの西の妻戸からたいそうご立派な男の方がお立ち出でになりましたのを、霧が深くて私はどなたとも見分けがつかなかったのですが、供の法師どもが、「大将がお帰りになるようだ。昨夜も御車を帰されてお泊りになりました」と口ぐちに申しておりましたので…。――
◆業障にまつはれたる=貪欲、瞋恚(しんい=怨み怒り)、愚痴、の惑いの為に、仏果が得られず迷っている。つまり物の怪自身が、自分の罪障に纏わりつかれている。
ではまた。
三十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(18)
「物の怪にわづらひ給ふ人は、重しと見れど、さわやぎ給ふ隙もありてなむ、物おぼえ給ふ」
――物の怪に患っていらっしゃる方(御息所)は、正気を失うほどかと思いますと、ご気分の良い時もありますようで、今は正気に返られたようです――
昼の頃、日中の御加持が済んだ後、阿闇梨が一人残って、なお、陀羅尼を読んでおります。御息所の快方に向かわれましたのを喜んで、申し上げますには、
「大日如来虚言し給はずは、などてか、かくなにがしが心をいたして仕うまつる御修法に、験なきやうはあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障にまつはれたる、はかなきものなり」
――大日如来が偽りを仰せにならないからこそ、私が心を尽くしてお勤め申し上げます御修法に験(しるし)があるというものです。悪霊は執念深いようですが、もともと自分の罪障に纏わりつかれているつまらぬ者どもなのです――
と、声もかすれるほどに物の怪を叱りつけております。この阿闇梨は仙人めいて至って飾り気のない人で、それが突然、
「そよや。この大将は、いつよりここに参り通ひ給ふぞ」
――そうそう、あの夕霧大将は、いつからこの宮にお通いですかな――
びっくりなさった御息所は、「婿の柏木亡きあと、故人が頼んで行かれた約束に背くまいと、あの夕霧大将は、年来何かにつけてお世話くださり、私へのお見舞いにもお立ち寄りくださったので、ほんとうに有難いと思っているのですが…」とおっしゃいますと、阿闇梨は、
「いであなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝後夜に参うのぼりつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出で給へるを、霧深くて、なにがしはえ見わい奉らざりつるを、この法師ばらなむ、大将殿の出で給ふなりけり、昨夜も御車もかへして泊まり給ひにける、と口々申しつる。…」
――いやはや、私にお隠しになる必要はございません。今朝、後夜(ごや)のお勤めに参上しました折、あの西の妻戸からたいそうご立派な男の方がお立ち出でになりましたのを、霧が深くて私はどなたとも見分けがつかなかったのですが、供の法師どもが、「大将がお帰りになるようだ。昨夜も御車を帰されてお泊りになりました」と口ぐちに申しておりましたので…。――
◆業障にまつはれたる=貪欲、瞋恚(しんい=怨み怒り)、愚痴、の惑いの為に、仏果が得られず迷っている。つまり物の怪自身が、自分の罪障に纏わりつかれている。
ではまた。