永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(585)

2009年12月09日 | Weblog
09.12/9   585回

三十八帖 【鈴虫(すずむし)の巻】 その(15)

 ただ、秋好中宮は源氏に、

「亡き人の御有様の、罪軽からぬさまに、ほの聞くことの侍りしを、然るしるしあらはならでも、おしはかりつべき事に侍りけれど、後れし程のあはればかりを忘れぬ事にて、物のあなた思ひ給へやらざりけるが物はかなさを、いかでよう言ひ聞かせむ人の、薦めをも聞き侍りて、自らだにかの焔をも醒まし侍りにしがなと、やうやうつもるになむ、思ひ知らるる事もありける」
――亡き母君の罪障が軽くないように薄々聞いておりましたて、そうした証拠がはっきりではないにしましても、私としては当然思い当たらなければならない事でしたのに、亡くなられた当時の悲しさだけが忘れられず、後世の冥福を祈念しなかった至らなさを今更に悔いております。何とかして、この道理を諭してくださる人に導かれて、せめて私でも母君の妄執の焔をさまして差し上げたいものと、段々歳をとるにつれて考えるようになって参りました――

などと、出家のお気持を仄めかしながら申し上げます。源氏も、なるほど中宮がそうお考えになるのも尤もだと同情申し上げて、

「その焔なむ、誰ものがるまじきことと知りながら、朝露のかかれるほどは、思ひ棄て侍らぬになむ。目蓮が仏に近き聖の身にて、たちまちに救ひけむ例にも、え継がせ給はざらむものから、玉のかんざし棄てさせ給はむも、この世にはうらみ残るやうなるわざなり(……)」
――その焔とおっしゃる妄執こそ誰もが逃れがたいものだと知りながら、露の命のある間は、この世を思い棄てになれないのです。目蓮(もくれん)が仏に近い聖者の身(目蓮は釈尊の十大弟子の一人で、母が餓鬼道に落ちたのを悲しみ、盂蘭盆会を修してこれを救ったという故事)で、たちまち母を救った程のことが、あなたにお出来にならないからといって、玉のかんざしを棄てて出家なさいますのも、この世に恨みが残りそうなものです。(今急に出家なさらなくても、そのようなお志を深めて母君の苦しみを晴らすようなことをなさいませ)――

 このあと、源氏も中宮と同じお心で、急いで、亡き六条御息所のために法華御八講(ほっけみはこう)を催されたとか。

三十八帖 【鈴虫(すずむし)の巻】 終わり。

ではまた。



源氏物語を読んできて(観音経・法華御八講)

2009年12月09日 | Weblog
◆観音経

 法華経観世音菩薩普門第二十五が独立して、これ一つで法華経を代表するとも考えられている。「世音」、世間一切の言葉、すなわち衆生の願いを「観」じて、苦悩を逃れさせる。補陀落浄土(ふだらくじょうど)の仏であるが、衆生済度のために観世音菩薩としてあらわれるのである。三毒(貪欲、瞋恚〈しんに=怒り怨む〉、愚痴)、七難(火難、水難、風難、杖難、鬼難、枷鎖難、怨賊難)を逃れ、二求同願(男女子を産む願い)を満足さす。三十三身に化現して、衆生を救う。仏菩薩のうち、もっとも優しいと感じられたのが観世音菩薩である。このように観音信仰は現世利益(げんぜりやく)を祈る。

 このころの信仰は弥陀の浄土に生まれる、来世の極楽往生を祈りつつ、なお現世の利益効験を祈るものであった。貴族たちは仏法を呪力として考え、現世利益を祈るのであり、物語の中でも、修法、加持祈祷がしばしば行われている。
特に大和の初瀬寺は霊験あらたかとの評判が高く、王朝貴族階級に人気があり、貴族の女性たちはほとんど皆が一度は初瀬に参った。

◆法華御八講(ほっけみはこう)
 天台宗の根本経典である法華経は、当時の貴族にもっとも信じられ、女人の成仏の可能性をも説いている。
法華八講は、法華経八巻を四日又は五日に分けて、毎日朝座、夕座の二回に各一巻を修する法会である。第三日目は特に第五巻の日と称し、堤婆品(だいばほん)を講じる。
この物語では法華御八講は、追善供養の場面で出てくるが、自身の後生のために功徳をつむ場合もある。