Viedel/KukiHairDesign/ヴィーデル/クキヘアデザイン 四条烏丸 美容室

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オッペンハイマー

2024-04-02 07:42:14 | 映画

ある人物が持つ思想信条、国籍、人種等の背景を理由に排斥しようとする不寛容な国家や社会傾向に対して。

そして軍やその上に君臨する政治家達の私利私欲に満ちた愚かな時代を繰り返してはならないという強い意思表示を感じさせる。

しかし何年経とうとも業は受け継がれているのが現実。

芸能事務所、政治家、はたまた個人までも自分さえ良ければ他所他人に迷惑を掛けている事さえも厭わない、現代の日本においても散見されている事実でもある

学者として机上の論理を具現化し現実のモノとして生み出す功績、ましてやそれが争いを治められる特効薬となりうるので有ればと、思いを馳せていたはず。

なぜ善と悪が対等なのか?本当に善だけでは世の中が成り立たないのか?禅問答のような問いかけ。

戦前、戦中、戦後、そして戦後10年20年、オッペンハイマー自身が見た視点、オッペンハイマーを客観的に見た視点、時代のシャッフルで事の成り行きを、心の葛藤をドラマチックに演出する。

古事の引用句からも、そんな永遠のテーマをこの映画に垣間見た。




哀れなるものたち

2024-02-06 08:07:30 | 映画

いつまで経っても、いつの時代も、階級社会の上位には男性が君臨していたいようだ。

しかし女性が蜂起すると、たちまち形勢は不利になり、ことごとく奈落の底へと落とされる。

まるで今(2024年1月)現在に日本で騒がれている芸人やサッカー選手の話にも似ているところが、見事に皮肉っている。

男性は理想の女性像の中で現状社会を妄想していた。その妄想と言う快楽に男性が溺れている間にも、女性は社会進出や自立と言う反撃の機会を窺って、期が熟するまで身を潜めていた。

物語、音楽、映像は見事に歪んでいる、そしてそれが見るものを不快な世界に引きずり込む。

しかしその<物語><音楽><映像>三位一体こそが、この映像美を作り上げる。

例えるならティム・バートンやギレルモ・デル・トロに近いかも知れないが、彼らの方が美しいかも知れない。

男性こそモラルや常識、道徳をしっかりと身につけて実践し、身を律して日々の暮らしを営まなくてはいけない警鐘の様にも捉えられた。




パーフェクトデイ

2024-01-16 09:50:19 | 映画

東京・渋谷で公衆トイレの清掃員として働く。
 古いアパートで毎朝、近所の老女が掃除する竹ぼうきの音で目覚め、毎日、同じように支度をし、毎朝アパートを出て空を見上げる表情、同じように静かに淡々と働く姿が、光と影とともに描かれる。
 寡黙な男は、規則正しく、ルーティンをこなす。
 毎朝植木に水をやり、仕事を終えると銭湯に行き、居酒屋で酒を飲み、部屋では古本を読みながら寝落ちする。
 極力他人と関わらないことで“孤独”では無く、自由を享受している。
 その研ぎ澄まされたような姿の彼が見ている世界、ふとした時に向ける視線の先には木々や光が溢れている。
 朝日、木漏れ日、夕日、街並みや公園、トイレ、運転中の車のフロントガラスなどの光の屈折や反射。
 さらに、自然音や日常生活から聞こえてくる音、そして劇中に流れる楽曲と、音も重要な要素となっている。
 早朝の竹ぼうきの音、夜が明けの小鳥の鳴き声、風の音、雨音、公園の子供の声、トイレ掃除の音すべては、繊細な音で積み重ねられている。
 車中でカセットテープで聞く音楽は彼の心情を表す。
 突然の訪問者や他人との関わりによって、平穏だった日常と心情が揺らぐ、しかしその流れにも自然に身を委ねる。
 彼に取って理想や完璧とは何ら意味を持たないかのよう。
 ありのままの自分、ありのままの毎日、ありのままの人生。
 ルー・リードの曲「PERFECT DAY」
 公園でサンガリアを飲み、暗くなったら家路に着く。動物園でエサをやり、映画を見て家路に着く。僕を辛うじて生かしてくれて、問題は全て置き去り、週末を楽しむ僕が何者であるかを忘れさせてくれる。あぁなんて完璧な1日なんだ。君は自分で蒔いたものを刈り取るだろう。
 ラストシーンの表情は全ての表現の結晶のように思えた。


2023年 クキ デミー賞

2023-12-30 06:00:00 | 映画

#MeToo

他業種で有りながら、強大な権力を持っている。
その権力者の秘密の暴露や 告発には大きな障害が立ちはだかる。
障害をクリアして行く 困難な中での活躍。
立ち向かうは、ハリウッドの頂点に君臨した映画プロデューサー。
彼の性暴力に関する事実の裏付けには、被害者を縛る秘密保持契約や敏腕弁護士といった障害が。
そして、記事を出す過程で記者のみ ならず編集部が一丸となる。
加えて、沈黙を破って取材に協力した被害者たちの勇気を讃えるという視点。
映画プロデューサーの誘いを拒んだことでキャリアを妨害された「本人の出演/HerSelf」は強力。
被害者のエピソードで有る小さな声は 権力による圧力の間から発せられ 最後には大きな束となり 社会を動かす うねりとなった。
今年度アカデミー賞にノミネートされないのは やはり まだ 目には見えない圧力が存在するのだろうか?



②イニシェリン島。
アイルランド西海岸沖に浮かぶ島。
今から100年前、ここに暮らす素朴な男は、老紳士から一方的な絶縁通告を突きつけられる。
素朴な男と 連むのをやめ、もっと思索と音楽に身を捧げたいらしい。
その決意は狂気的で、これ以上話しかけたら自分の指を切り落とすとまで言い出す。
小さな島の中で不穏なムードが広がるが、島には美しい自然がもたらす詩情と、寓意に富んだ物語を奥深く転がしていく 力がある為、嫌悪と安寧が相殺されている。
素朴な男の眉をハの字にして老紳士の心変わりを嘆く。
老紳士は真剣な面持ちから、決して高慢な人間ではないことも明らか。
両者の存在感が素晴らしいだけに、崩壊し砕け散っていく友情が ただ ひたすら悲しい。
イングランドやアイルランドから響く戦争の気配。
そのアイルランドが泥沼の内戦へ陥っている。
「引き返せない」そんな二人に“戦争の本質”が投影されている。
その他にも父子、兄妹、近隣の島民、警察、教会、恋愛感情、本音(酔い)と建前(しらふ)等、幾つもの出口なき“関係性”を描き出し、それらが絡み合いながら、巧みなブラックジョークや悲哀へ集約されていく。
観る者を決して傍観者に させておかず、人間の生涯にまとわりつく悩みや「関係を断ち切る」という闇深さに引きずり込む極めて痛烈な作品。

厳しい社会情勢と不況、そして未来への不安。
ちょっとした事でも、直ぐに癇癪を起こす。人を見守ろうにも迂闊には触れない。そんな時代背景。
海辺の町にある映画館で働く主人公は、つらい過去のせいで心に闇を抱えている。見守るのは同じ職場の仲間や薬。普段に微笑みが無い訳ではない。少しずつではあるが明日へと向かっている。
片や過酷な現実に道を阻まれてきた青年。自らの夢をも諦めかけていた、そんな彼にも職場の仲間たちからの優しさに守られながらも、心を通わすようになってきた。
お互いが求め合う中にも、回りからも踏み込み過ぎない相手を思いやるフォローがある。
さりげない思いやり、優しさ。'80年代の風景が華美に脚色されなくとも、その美しさを映像から見てとれた。
悲しい映画でもない、希望に満ち溢れた映画でもない、でも沈みこむ事無く、映像を見届けられる。
映画館を舞台にした映画だからこそ、映画館で見たい。

初めは傷付いた国民や被害者遺族、国へ貢献したかった。
いち早く対応することで、困っている方々を経済的に助けてあげたかった。
だから儲かっている弁護士事務所にも関わらず、無償で働くと決意した。
その次に、このプロジェクトが成功すれば自分への評価が上がり、その後の経営状況が好転し、より良い利益をもたらすことが可能だと考えたと思う。
どちらに重きを置いたのかは本人では無いので察するしかない。
事務的に官僚的に、お役所仕事的に進めたかったのだろう。
しかし十人十色、9000人には9000通りの人生が有る事に直面する。
別事情だが今の日本ではカスタマーハラスメント(客からの不当な圧力や脅迫)を受けることが多いと聞く。
こちらも自分の思いや自分のルールを、簡単に言えば「わがまま」を威圧的に押し付けようとする。
確かに劇中では政治家を取り込んだ航空業界側が訴訟に持ち込まれて経営が破綻しないようにと言う悪意がある。また、早く解決に持ち込んで早く経済的にも助けてあげたいと考えながらも、より多くの補償金を勝ち取ろうとする悪意の弁護士も居る。
そして被害者の感情の爆発。どれもが辛い。
善意が、これ程ねじ曲げられれば戦意喪失しかねない。しかし主人公は同僚や部下、被害者の思いからも我を振り返り、何か原点にでも戻ったかのように寄り添い始めた。
落とすのも人、掬い上げるのも人、人から学び、人へ伝える。人との絡みも避けず、寛容な受け止め幅を得たのでは無いだろうか?

「勝手に人の心を読まないで」
なんとか、その人に対してフォローをしたい人は、より言葉以外でその人を理解したいがために、取った行動である。
しかしフォローされる側からすると、聴覚に健常者ではないハンディキャップがあるだけで、心身はいたって健常であるせいか、それに嫌気さえ差している。
あえて言葉のセリフを選ばない。
あえてサイレントをも映画を見る者へ想像力を求める。
台詞のない主演者。それ故に表情だけで演じる。
しかし観る側は主人公が忌み嫌う心を読もうとする。
街や風景はポートレートの様に写し出される。
何も劇的な変化を求めなくても良い。ただただ流れに身を委ねたい。

音の無いエンドロールから始まる。
そして少し音が入った冒頭のシーン。
響く声、小さな咳払い。
それほど傲慢だったわけではない、すごく素行が悪かったわけでもない。わがまま過ぎるわけでもない。むしろ一途で、それぐらいなら許してあげたい。しかし少しの虚飾が徐々に大きくなったのかもしれない。
現実のシーンの様に映し出される情景も、主人公の心の揺れや変化にリンクする。
孤独感、暗い虚無感、汚れ、アンダーグラウンド、全てが主人公以外には理解されない、もしかしたら主人公自体も気付いていないのかもしれない情景。
積み重なった事実が大きくなりすぎで、崩れ去るとき、彼女が生業として扱っていた、また作り上げていた「音」が、大きくなり、不協和音と変化する。「音」にも彼女は裏切られた。自滅する「地獄の黙示録」をモチーフに、自らが求めていた「性」に裏切られ、生身の「性」に吐き気をもよおす。まさにエンドロールは破滅の「音」



⑦「怪物ぅ、だぁれだっ」
怪物?かいぶつ?Kaibutsu?カイブツ?
カイブツって何?…
あなたにとって怖いもの全て。大きな怖さも小さな怖さも怖いものには変わらない。何かが醜くなるもの。
誰?…
それは、わからない。気付いていないだけで、あなたかもしれないし、あなた以外の周りの人かもしれない。
何人?…
その時々によって生き物は怪物に変容するので、正確な人数はわからない。でも、多いかも。
本当にいるの?…
その人の捉え方次第だから、居ない人も居るし、居る人も居る。
登場人物がそれぞれの生きている日常で、普段のままに自分の内に秘めた怪物を演じる。全ての登場人物が怪物なのか?
それは見る人の視点によって善人にもなり得ればカイブツにも見える、成ると言う。
しかし見る人の個人的感情が優位に働く「その人の視点、捉え方」
3つの視点から成る画像、その一つ一つのピースを繋ぎ合わせれば、誤解が崩れだす。
何処かの早い時点で気付いて居れば、もっと早くに好転したのかもしれない。
細やかなシーンや特に「音」コレを見逃さずに一つ一つのシーンを凝視していると、全てに合点がつきます。音は覚えておいてください。
2人の子どものセンシティブな心の感情は、否定はできないし、幾つから始まろうとも否定は出来ない、そして政治や世間の風潮でも取り上げられて居る事象では有りますが私的には見辛かったシーンです。
そして、最後は あなたの想像にお任せします。その、この、空白が是枝監督なのだと理解しています。