当事者の3人を主演にキャスティング。
さらに事件で負傷した人やその妻など実際の関係者を極力呼び集めた。
映画史上最も豪華な再現ビデオ。
イーストウッドが掘り下げているのは、主人公3人が決して非凡な人生を過ごしてきたわけはなく、ボンクラ感の強い普通の若者だったという生い立ち。
彼らは小学校の同級生で、サバゲ―オタクのいじめられっ子だった。
それで性根が捻じれてしまっていたら銃乱射事件を起こす予備軍のように色眼鏡で見られていたかも知れない。
ところが物語の中心となるスペンサー青年は、何か人の役に立ちたいと空軍の人命救助部隊に志願するのだ。
入隊したからといってヒーローになれるわけじゃない。
スペンサーは挫折を繰り返しながらも地道な努力を重ね、ある夏休みに「みんなでヨーロッパ旅行しようぜ!」と親友たちを誘う。
自撮り棒でSNS映えする写真を狙い、遊覧ボートで知り合った女子とご飯を食べ、アムスのクラブで踊りまくるボンクラ3人組。
しかも演じているのは本人たち。
イーストウッドが延々と彼らが遊び惚けている姿を映すのは、それこそが監督が思う最良の手段だから。
未曽有の大惨事になっていたかも知れないテロ事件を阻止したのは、たまたまいつか人の役に立ちたいと願っていたごく普通のボンクラたちだった。
夏休みの休暇旅行が、彼らの人生の、そして世界中にとってのハイライトになった。
そんな運命の魔訶不思議を、この人のいい3人組と一緒に体感するためにこの映画は存在している。
嗚呼ボンクラ万歳。
水と言う形に成らない、つかみどころの無いもの。甘美で倒錯的なヴィジョン、色調。
個人的な好みで言うとウッディーアレン、ティム・バートンの愛、恋、友情に惹かれるが、実写でありながらファンタジー、そして「+絆」も感じた寓話世界を表現するギレルモ・デル・トロ。
不条理な愛と、ひとくくりで表現してよいのか否か?
主人公は好奇心から思いを持ち、親しみ、そして私は愛ではなく「絆」を感じた。
その思いを行動に移す主人公はむしろ「ウキウキ」しているようにも思えた。
ゲイ、有色人種、そして醜貌、畸形的でグロテスクな存在に象徴される肉体的・精神的な外傷、疎外感を抱えたマイノリティたちへの真情あふれる偏愛。
本来のグリム童話がそうであったと言われるように、ファンタスティックな寓話がつねに残酷さに満ちているのは、いつの世も善悪が共存するからなのだろうか?。
なぜディープスロート(内通者)になったのか
ディープスロート目線でウォーターゲート事件を描いた。
これは「ペンタゴン・ペーパーズ」「大統領の陰謀」ちょっとずれるが「女神の見えざる手」とセットで観ると、より理解が深まり興味が持てます。
そして何よりも今、森友問題が担当長官の辞任、職員の自殺と荒れている2018年3月だから。
「大統領の陰謀」でワシントンポスト紙の記者に情報提供していたディープスロートの真相。
これまでは「影の人」だったディープスロートにスポットライトが当てられる。
ディープスロートこと、FBI 副長官は、元CIAエージェントが民主党本部に盗聴器を仕掛けた事実を掴み、その犯人がホワイトハウスに近い人間の指示で動いていたことを知りながら、捜査の打ち切りを命じられる。
そこで、その情報をワシントンポスト紙にリークする。
そのディープスロートを主人公にしたことで、これまで描かれることのなかった「なぜ、彼は内通者になったのか」「彼を突き動かしたものは何か」という主人公の心境が描かれる。
その「なぜ」の裏には、家族の存在があった
その頃、マークの娘は家出をして失踪中であり、その原因は当時のアメリカの政治にあって、そこから妻とは冷戦状態になってしまう。
そんな彼の家族は、当時の政権が国民を真っ二つに引き裂いていた状況をそのまま反映していた。
白人富裕層は政権を支持し、それ以外の人たちは「無駄に長く続く」ベトナム戦争を非難し、過激な抗議行動をする者もいた。
主人公の娘も「政権側」の父に嫌気がさして失踪してしまう。
その状況の中で、失われた家族を元に戻すために主人公はディープスロートとなり、マスコミを使って国民感情を煽り、ホワイトハウスに揺さぶりをかける。
それには当時、ホワイトハウスと対立関係にあったワシントンポスト紙が最適だと考えた。
「大統領の陰謀」を観た時は、ワシントンポスト紙の記者たちがアメリカの政治を変えたヒーローだと思っていたけれど、この映画を観て真の勇者はディープスロートだったんだなと思った。
ニクソンが憎くてディープスロートになったというよりも、止むに止まれずリークするしかなかった主人公の悲壮感が印象的だった。
一人の善意が世界を変えることができると思えるところに、この映画の素晴らしさがある。
CIAの捜査官による原作が実写化された。
主人公はアメリカ人ではなく、ボリショイ・バレエ団でプリンシパルを務めるロシア人女性。
本番中に負った大怪我でバレリーナ生命を絶たれた彼女は、国からの援助を打ち切られ、母親の治療費を捻出できなくなってしまう。
ロシア情報庁の幹部である叔父の指示で、スパイ養成学校へ送られた彼女は、スパイとしての才能を開花させていく。
ソ連やロシアのスパイが登場する映画は珍しくないが、彼らがどうやってスパイになったのかはなかなか描かれない。
冷徹な教官のもと、若い男女が訓練を重ねて洗脳され、国のために身も心も差し出すようになるスパイ養成学校のパートはとても新鮮。
スポットライトを浴びていたモスクワ、スパイ養成学校のある雪に閉ざされた僻地、任務のために訪れてターゲットと禁断の恋に落ちるブダペストと状況に応じて変わるロケーション。
スパイはハニートラップを必殺技としつつ、腕っぷしも強い役。
その武器が最大限に生かされているのは養成学校で、自分をレイプしようとした男性優位主義の愚かな訓練生を返り討ちにする。
教官や生徒の前で全裸になって脚を広げ、挑発すると、情けなくもその男は萎えてしまう。
フルヌードが、男に抱かれるためではなく、その迫力で男をひれ伏させる肉体として描かれている。
スパイがターゲットのCIA捜査官と駆け引きをしながら次第に惹かれ合う恋愛模様や、ロシアから狙われる立場となってからの展開はハラハラ。
今でも分厚く赤いカーテンの向こうで何が起きているのだろうか?
そう思うと昨今ロンドンで起きた暗殺事件のように安易に形跡を残すようなことを暗殺者がするとは疑わしい。
20世紀に起きた様々な出来事を映画にして後生に伝えることがライフワークだと語る本監督。
新聞やメディアも歴史書の一部だと語られる部分もある。
政府、政権寄りになったマスメディアも存在する中、政府による隠蔽工作を広く国民に告知しようとしたメディアの闘いを描き、そして狙いは過去ではなく「たった今」に対する嘆きなのだろうか。
政治に対する抑止力としての「メディア」の立ち位置をはっきり描き、人の心に直球で突き刺さす。
歴代大統領と公私共に蜜月関係を続けて来たが、時代の変化に呼応するメディアのあるべき姿。
会社存続か良心かという二者択一を迫られた時、当たり前のように後者を選択する勇気や決断力。
男性主導の世界に身を置きながらも、疑問と怒りを溜め込んできた痛烈なしっぺ返し。
メリル・ストリープは男女平等という最も今日的な問題を、半世紀も昔から今も変わらぬ現在へと運ぶ大事なキーパーソンを演じている。
女性のさらなる社会進出と、国民には見えない政治や社会の裏側に隠れた事実を次々と暴いてきたポピュリズム。
骨のある人、今の日本も求めているかもしれない。
原題の「darkest hour」とは、ナチスが勢力を拡大していた第二次世界大戦を指したチャーチルの言葉。
歯に衣着せぬ物言いと妥協しない性格で政敵も多い。
そんな内外からも追い込まれるチャーチルを、驚くほど自然な特殊メイクにより丸顔に変貌したゲイリー・オールドマンは、頑固だが人間味あふれるキャラクターを独特の口ぶりと挙動、繊細な表情で演じる。
自由のため断固戦うことを訴える演説には、時を超え現代の我々の心に響く普遍の力が宿る。
そんな本作は新任秘書の目を通してチャーチルの仕事ぶりや家族との関わりを描き、老政治家の愛すべき側面や大いなる決断までの苦悩を間近に目撃している気分にさせてくれる本作の案内役。
伏魔殿のように薄暗い議会に射す光。
戦時下の陽光が柔らかく照らす王宮の室内。
犠牲となる部隊を憐れむかのような俯瞰視点。
閉ざされた首相専用トイレで孤独感を漂わすチャーチル。
トイレのWCもウインストン・チャーチルなのだろうかと疑う。
さらに本作がダンケルクでナチスに包囲された兵士を撤退させるダイナモ作戦の開始までを描いている点。
ダンケルクの戦いを兵士と民間の船乗りたちの視点で描いたクリストファー・ノーランの「ダンケルク」と、互いに補完し合う内容になっている。
このシンクロニシティは何を意味するのか。
各国で独裁的なリーダーが台頭し、英国自身もEU離脱問題で民意が分断されている今、表現者たちは再び「Darkest Hour」が到来することを予感しているのかも。
ただ、「夜明け前が最も暗い(The darkest hour is just before the dawn)」という英語のことわざもある。
「明けない夜はない」なんて日本語もある。
暗い時代にこそ、明るい未来を信じて声を上げることの大切さを、映画は語っている。
平和で手本のように画一的な白人新興住宅地に突如、黒人家族が越して来る。
直後から巻き起こる、これまでには起こらなかった犯罪に、ありとあらゆる人種差別の数々。
恐ろしいぐらいに毒が有り過ぎる。
脚本にはコーエン兄弟が関わっているだけに、全編が悪意に満ち満ちている。
もうここまできたら賛否両論どころか、「否」しかしない。
何しろ白人主義者側から観たら、触れて欲しく無い事ばかり。
反対に黒人の立場からしてみると、映画の中に出て来る黒人一家の扱いがひどい。
これでは誰も得しないんじゃなかろうか。
ジョージ・クルーニーは、これまでにもそんなアメリカの恥部を描いた作品に監督・出演し、数多く関わっては来ていたが...
流石にここまで行ったらなかなか擁護する人はいなさそうな気がする。
これまでのアメリカ映画だと、主人公側が差別を受ける描かれ方が主なのに対して、この作品では作品の内容とは違う部分で人種差別が起こっている為に、人によっては「それいる?」…と思ってしまうかも。
それでもコーエン兄弟とクルーニーの事ですから、当時の白人社会の中で起こった状況は、しっかりとリサーチされていると思え、あの様な出来事はリアルな現実だったのだろう…とは思える。
一体褒めてるのか?それとも貶しているのか?何だか自分でも分からなくなってますが。
なんだかんだと、そこそこの高得点を与えたい。
映画を観る際には、編集等のテンポを重視するところが多少有るので。この映画のその辺りがちょっとツボだったりするからなのですが。
多分それよりも1番の原因として、他人よりも自分も、ひねくれて居るからなのでしょうか?
アメリカの先住民保留地が舞台。インディアンとお伝えする方が入りやすいかも。
山奥で先住民の血を引く女性の死体が発見される。
その直前、何者かから執拗な暴行を受けた被害者は、雪原で血を吐いたまま息絶えていた。
肺が破裂してしまうマイナス30度の極寒の中、裸足で10キロ走り続けた果てに。
地元のハンターは、被害者の常人離れした“生きる意志”がそんな「ありえないことを可能」にしたのだろうと推察する。
そうした描写に性犯罪への怒りをこめた作品。
時代の流れからも社会の関心からも置き去りにされた先住民保留地の悲惨な現実。
細部への執着はキャラクターにも反映され、いかにも頼りなげなFBIの新米捜査官の苦闘と成長。
娘を亡くしたつらい過去ゆえに捜査に協力していくハンターの無言の決意には迫真性がみなぎっている。
それに神秘的な自然、力強さと繊細さが、あらゆるショットに引き込まれながら現実社会が身近に感じる。
法律よりも、過酷な大地のルールが優先される悪党への裁き。
先住民保留地のある事実を示すラストのテロップ。
これほどの快作が賞レースで無視されたのは、きっと悪名高きハーヴェイ・ワインスタインが製作にクレジットされているせいだろう。
さもなければアメリカの映画業界人の目が疑われる
前知識、前情報がどれだけ必要かどうか?
なんとなくの話は聞いてはいましたが、僕が知っていたこの映画に関する情報なんて1/10ほど。
かえってそのほうが良かったように思える。
最初は「なんてクソ映画なんだ!」なんて思い、「これで終わりか~」「なんで、こんな映画が話題になるんだ?」なんて始末です。
その雲行きが変わるんです。
ホント、なんて、よく練られたアイデアなんだ。
そしてそれを実現する実行力と演出力。
要求された表現を実体化する役者。
どの情報番組でも言っている「低予算なのに」みたいな枕詞を付けるのは失礼なくらい。
非常に完成度の高いコメディである上に、映画作りの映画でもあるのだから、なんと行き届いていることか。
悲哀あり、製作側の日常あり、苦労譚あり。
あまりにも感心させられたので、この映画の作り手にはもう少し先まで望んでみたい...そんな親心まで。
最初に解くべき謎を提示して、みごとに伏線を回収し、最後には感動めいたものまでもたらしてくれる。
確かにアッパレであるのだが、予定通りにキレイに収まった...という以上のふくらみがあれば無敵なのでは?。
ものすごく良くできている。
けれど、同時にこれは傑作をものにする出発点ではなかろうか。
そんな予感さえ。
次回作に裏切られないことを期待したい...そんな風に思えました。
犯罪が多発する米ロサンゼルスの街を舞台に、刑事たちと強盗団が繰り広げる激しい攻防を描いたアクションサスペンス。
48分に1回、銀行強盗が発生するといわれるロサンゼルス。
型破りな捜査で知られるロサンゼルス郡保安局の重犯罪特捜班を率いる主人公は、多発する銀行強盗に日々、立ち向かっていた。
そんなある時、伝説の強盗と呼ばれる一味が3000万ドルの巨額銀行強盗を企てているとの情報が舞い込む。
氷のように冷静で、綿密な計画を練る強盗に対し、保安局も徐々に一味を追い詰めていき、両者が対決する日が刻一刻と近づいていく。
原題は、「Den of Thieves(強盗の巣)」で邦題は、「ザ・アウトロー」で曖昧な感じ。
なめてかかるとダメです。神経を集中して観ないと伏線がキッチリ回収されないかも。
多分久々に中国資本がなく、米国での興行成績も良く、続編も決定している珍しい作品。
銃撃戦が激しいので、銃撃シーンが苦手な人や平和がお好みの方にはお勧めできませんね。
「オーシャンズ」シリーズとは全然違いますね。
往年の「ヒート」やベンアフレックの「ザ・タウン」が好きな人には向いています。
まさに私も、その一人。
舞台はロサンゼルスですが、一般的にイメージする華やかな場所ではありません。
日本人には馴染みのないエリアが舞台。
登場する強盗達は、計画性が高く、戦闘力も高く、楽しませてくれます。
強盗を追跡する警察も、戦闘力も高く、機敏に行動し、楽しませてくれます。
最近良くある、スマホ、タブレット、PC、ドローンそういった物を駆使して綿密に現代風に作戦を立てるというデジタルな部分よりは、人からの情報でパズルを組み立てて、人が行動するというアナログ感がまた良い。
そして、みんな騙される
中でも銀行強盗をやる連中も、一般市民に危害を加えないといったポリシーがあって、警察よりカッコいい感じに撮られてる。
もし、この映画が早期に終了したら、日本向けタイトルのせいだと思う。
ザ アウトローって何よ?って感じ。ん?ジ アウトローじゃないのとか余計なお世話もしたくなるが、是非、原題タイトルの意味を辞書でひいて、なるほどなるほどと思って下さい。
それだけに繰り返し申し上げますが、邦題に難があるも上質なクライムドラマ
そして、良い意味でいい意味で裏切られます。
トム・ハーディは何でもできる。
表情、存在感、迫力、ある種リミッターを外してはいけない俳優です。
「ダークナイト・ライジング」や「マッドマックス 怒りのデス・ロード」でも、ある種キャラ的な役も演じてはいました。
今回はさらにキャラが引き立つ、アメコミもの。
予告編を見る限りでは、てっきりダークでバイオレントな方向性に振り切れるのだろうと思っていた。
しかし展開は小気味よく、VFXを駆使した映像も相まって意表を突いてくる。
「1つの肉体に2つの個性が同居する」様がなんとも言えない可笑しさ。
腹が減ると人間を食いたくなるヴェノムの厄介な性格をなだめ、うまいこと説得しながらピンチを切り抜けるハーディの演技も実にお見事。
挙げ句の果てには二人のコンビネーションがうまく回転し、本作は各々が長所を生かし欠点を補いあった極上のバディ・ムービーへと進化を遂げていく。
ここまでくるともうなんだかヴェノムが意外と“イイ奴”に思えたりもするから不思議。
実は体内に響くヴェノムの重低音ボイスも、実はハーディ自身が声をあてている。
結果、またしても彼の身から溢れるオーラを彼自身の力で制御する怪作となった感は強い。
ヴェノムとハーディ、二人のバケモノの規格外の魅力を存分に楽しみたい。
プロのシンガーになることを夢見ながら、半ばあきらめていた。
この映画はクリント・イーストウッドから譲られ、監督も兼務することになった主演俳優ブラッドリー・クーパー。
そして過去に数々のレジェンドが演じてきた大役を任されたレディー・ガガ。
劇中で歌う楽曲を自ら作るほど役に入り込んで酒浸りのロック・スターになりきったクーパー。
ライブシーンをロックフェスのステージで撮影し、躍動感をもたらし、歌に魂も吹き込んだ。
ガガも、これまで奇抜なルックスの影に隠れていた芳醇な歌唱力を全面開花。
予想外に映画の展開は早い。
もしくは二部作にしなくてはいけないほど、映画の内容も濃いのでは。
どこかを絞り出してフォーカスを当てても良い映画だったのかもしれないが、曲をフルコーラス歌う、闇から光へなど、実際の情景が思い浮かぶような歌詞。
昇華、奈落と起伏の激しさもあるのが映画ではあるし、歯がゆさもあるのが映画ではあるが、最後にはハッピーエンドを望んでいた自分もいた。
しかし人の生き方はそんなに綺麗にはいかないもの。
人の思いはそれぞれかもしれないが、エンディングの歌詞にはそれぞれが一つになる思いが感じ取られた。
今年最後に良い映画で〆られたと思う。