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知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『世界の宮殿 2(ムーア人の要塞、天空のペーナ宮殿)』  ―耐震強度は最高にして秀麗な、山の上の歴史に翻弄された宮殿ー

2024-06-14 10:02:41 | 宮殿

『世界の宮殿 2(ムーア人の要塞、天空のペーナ宮殿)』 

『耐震強度は最高にして秀麗な山の上の歴史に翻弄された宮殿』

 

ポルトガル・シントナの、標高529メートルの山頂にそびえるペーナ宮殿(Palácio Nacional da Pena)を、ペーナ(pena)というのは、ペ-ニャ(penha)、すなわち「岩」という単語のかつての表記で、岩の上に立つ宮殿だから、ペーナ宮殿と呼ばれるそうです。 君主は景色を堪能し、威厳を示したのでしょうか。 

日本では、普通、山頂の城郭や出城は詰め城でしたが、山頂の天主閣に居住したのは織田信長くらいでした。 信長は景色を堪能し、威厳を示したのでしょう。 ローロッパでは、山頂や尾根のトップの城郭に居住した君主は大勢いました。

このペーナ宮殿は、東北地方太平洋沖地地震(M9.0)にほぼ匹敵する規模の巨大地震・リスボン地震に耐えてます。 近世以降の宮殿ですので攻城戦には巻き込まれておりません。

ウェブ情報から引用

 

 ウキペディア情報から引用

 

この宮殿は秀麗・カラフルなだけでなく、驚異的な堅固さに驚き、リスボン地震を調べてみました。

 

リスボン地震

1755年11月1日に発生した巨大地震。 9時40分に 西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。 津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡した。 推定されるマグニチュードはMw8.5〜9.0で、2011年3月11日に日本で発生した東北地方太平洋沖地地震(M9.0)にほぼ匹敵する規模の巨大地震であったと考えられている。 震源ははサン・ヴィンセンテ沖の西南西約200kmと推定されている。 

この震災は近代の扉を開いたとされ、国家が直後の対応と復興に責任を持った最初の近代的災害といわれ ヨーロッパ社会に多岐に影響を与え新しい科学や技術の数々を誕生させた。

このリスボン地震が首都と周辺地域を荒廃させ、ペーナ修道院は廃墟と化した。 しかし、ニコラウ・シャンテレネ作とみなされる大理石と雪花石膏でできた壮麗な祭壇背後の棚を備えた礼拝堂は、無傷であった。 

雪花石膏・アラバスター(Alabaster)は美しい白色の鉱物の変種のひとつ。 その特徴的な美しい白さゆえに、アラバスターは白いものの形容として、例えば英語では"alabaster skin"(白く滑らかな肌)といった表現で詩や歌などで使われている。』

シントラの山頂に広がるこれらの残骸が、若いフェルナンドを驚愕させたのだった。 1838年、カステロ・ドス・モウロス(ムーア人の城、という意味。 かつてのムーア人の城の廃墟)と他いくつかのキンタス(別邸)のすぐ隣である旧修道院をフェルナンドは手に入れ、周辺を全て囲いで囲んだ。


セテアイス宮からペーナ宮を眺める.

ウェブ情報から引用

フェルナンドは、空想的な夢を持っていた。古い修道院を再建し、シントラ滞在時にポルトガル王家が滞在する夏の離宮となる新しい部分を付け加えるのだと。 ロマン主義的な再建命令が、陸軍中将であり採掘技師でもあったヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・エシュヴェーケに下された。 宮殿全体はほぼ、巨大な岩々の上に壮大に立つ。

フェルナンドは、異国風の豊富な種類の樹木を植えてイギリス式公園をつくることを考えていた。 このようにすると、公園とペーナ宮は魅惑的な王子と王女が登場する本の世界のようになる。 

宮殿のとっぴな様式は、バイエルン王ルートヴィヒ2世が建てたノイシュヴァンシュタイン城を見る者に思い起こさせる(ペーナ宮殿が建てられてから30年後に、このバイエルンの城は建設された)。 この違う様式の模倣と組み合わせは成功したといえず、マヌエル様式の窓のとなりにムーア風の扉があるといった具合に、しばしば不思議なコントラストを描く。 

宮殿自体は贅を尽くした様式で、一風変わった建築様式の大量な動的効果がある。 違う様式の混合は、ゴシック・リヴァイヴァル建築様式、ネオ・マヌエル様式、ネオ・イスラム様式、ネオ・ルネッサンス様式、その他様式の中で示されている。例えばベレンの塔のようにゆるぎないポルトガル建築を参照すれば、当時の人々の嗜好が全て国際的に共通していたとわかる(19世紀の人々は異国風でロマンティックなものを好んだため)。 

最も変化のある姿をした別個の対の番兵小屋、新スペイン・アラビック様式のタイルで不揃いに飾られたテラスなどが、顕著な要素である。 トリトンの有名な像は、数人の作家によると「世界の創造」を象徴しているという。

(記事投稿日:2021/07/25、最終更新日:2024/06/14、#360)

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『世界の宮殿 1(ヴェルサイユ宮殿の大噴水が凄い)』  ―水道橋はローマ人に倣ったか、噴水のための運河掘削までもー

2021-07-25 22:53:02 | 宮殿

    『世界の宮殿 1(ヴェルサイユ宮殿の大噴水が凄い)』 

『水道橋はローマ人に倣ったか、噴水のための運河掘削までも』

 

このヴェルサイユ宮殿はフランスの歴史の象徴です。 数回行ってますが、いつもフランスの偉大さに驚かされます。 フランスの歴史は、先史時代・ケルト時代・ローマの支配・フランク王国・封建社会・英仏百年戦争・絶対王政・革命と帝政・パリコンミューン・共和制とヨーロッパ大陸の中心で、激しい政治変革の多かった国です。

 

今回はヴェルサイユ宮殿の大噴水について調べてみました。 理由はセーヌ川を、初めて見たときに、パリ市内では、河岸堤防が水面から3~4ⅿと低く、河川敷もなく、中下流地域には堤防がありません。 今までは、洪水位が低いため自然堤防に頼っているところが多かったようです。 日本は急峻な中央分水嶺からの急流の所為で、状況が異なります。

 

こんな時に、ドイツ・ベルギーを中心とした欧州北部の洪水のニュースを知り、フランスも対岸の火事ではないように思いました。 このような時期には、治水とは関係ない、『ルイ14世の贅沢な、大盤振る舞い』のセーヌ川の水をポンプ揚水し、ヴェルサイユ宮殿の大噴水へ『水』を供給するということに、俄然興味がわいてきました。

 

ヴェルサイユ宮殿Palais de Versailles

1682年にフランス王ルイ14世『1638年 – 1715年、在位1643年(5歳で即位) -1715年』が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)である。ヴェルサイユ城(Château de Versailles)ともいい、フランス語ではこちらの表記がよく使用されている。

パリの南西22キロメートルに位置するイヴリーヌ県ヴェルサイユにある。 バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名。

 

1668年のヴェルサイユ宮殿

ウィキペディア情報から引用

 

庭園の配置図(1789年)。図の右下にヴェルサイユ宮殿、左上に大・小トリアノン宮殿、その下に大運河とアポロンの泉水を配置した。

 

 

ウィキペディア情報から引用

 

噴水庭園

ウィキペディア情報から引用

 

宮殿の建設よりも労力を費やされている噴水庭園には、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。そして、その噴水にはルイ14世の三つの意図が込められている。

 

『水なき地に水を引く』

ヴェルサイユには近くに水を引く高地が無い。 ルイ14世は10km離れたセーヌ側の川岸にマルリーの機械と呼ばれる巨大な揚水装置を設置し、堤の上に水を上げさせた。 そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水無き地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させ、自然をも変える力を周囲に示した。

 

『貴族を従わせる』

ルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。 ルイ14世はこの体験を一生忘れず、彼は貴族をヴェルサイユに強制移住させた。

  • 「ラトナの噴水」は、ギリシャ神話に登場するラトナが村人に泥を投げつけられながらも、息子の太陽神アポロンを守っている銅像と、その足元にある蛙やトカゲは神の怒りに触れて村人たちが変えられた像を、模った噴水である。ラトナとアポロンはフロンドの乱の時、彼を守ってくれた母と幼いルイ14世自身を示し、蛙やトカゲに変えられた村人は貴族たちをあらわしている。 王に反抗をする者は許さないという宣言を示している。
  • 「太陽神アポロンの噴水」は、アポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模った噴水である。アポロンはルイ14世自身をあらわし、彼が天空から地上の全てを従わせると示している。 

「民衆の心をつかむ」

ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」というガイドブックを発行した。 それには「ラトナの噴水の手前で一休みして、ラトナ、周りにある彫刻をみよ。 王の散歩道、アポロンの噴水、その向こうの運河を見渡そう」と書かれている。 民衆は、ガイドブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。 夏、ヴェルサイユでは毎晩のように祭典が催され、訪れた民衆はバレーや舞劇に酔いしれた。

噴水庭園は、遠近法を用いて修景され、宮殿からラトナの泉、タピスヴェール(Tapis Vert、緑の絨毯)に沿って、アポロの戦車の盆地へと続いている。 水面から昇る戦車は、太陽の昇りを象徴した。 鉛で鋳造された後に金メッキが施されている。 噴水の向こうには、大運河(Grand Canal)が公園の南端まで1800メートル伸びている。

 

ヴェルサイユ宮殿旧城

ウィキペディア情報から引用

 

中国の巨大な運河の方が実用的でこれは比較にならないが、秀吉の金ぴかは屋根瓦にまでメッキしたが、ルイ14世は、礼拝堂に最も金を・礼拝堂の天窓に最も費用を・離宮で狩場であった広大なヴェルサイユ宮殿の贅沢さにはかないません。 ヨーロッパ大陸の中心で、激しい政治変革の多かった国が良くわかります。

                    (20210725纏め #361)

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