知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『宇宙考古学 2(分り易く言えば「宇宙から探る地上の考古学」)』 『神話や伝説から知ることが多い!「旧約聖書 滅亡の街、ソドムとゴモラの真実」と、隕石そのものが地上には衝突せず、空中爆発?』

2024-04-16 10:31:45 | 歴史・世界・古代
『宇宙考古学 2(分り易く言えば「宇宙から探る地上の考古学」)』
神話や伝説から知ることが多い!「旧約聖書 滅亡の街、ソドムとゴモラの真実」と、隕石そのものが地上には衝突せず、空中爆発?

地球の歴史には、生物が絶滅の危機に瀕した5つの大量絶滅事件があります。これらは「ビッグファイブ」とも呼ばれています。 5大大量絶滅では、種で60%程度以上、属で35%程度以上、科で15%程度以上が地球上からいなくなっています。 

一回目から四回目までは、大陸移動に絡む線状大噴火による『火山の冬』が原因で、最後の五回目だけが、天体衝突による『隕石の冬』又は『衝突の冬』と言われています。 

この五回目は、大陸移動に絡む線状大噴火による『火山の冬』が原因との説も出てきました。 これは『ソドムとゴモラの破壊』の研究が進み、天体衝突では『大量絶滅』にはならないのではとの見解のようです。 
5大『大量絶滅』では、種で60%程度以上が地球上からいなくなること。

『ソドムとゴモラの破壊』は隕石そのものが地上には衝突せず、空中爆発した場合と、これに対して、空中爆発せず衝突爆発した場合("約6604万年前メキシコ・ユカタン半島沖に落下した隕石衝突(それによって引き起こされた酸性雨などの環境変化)"が直接的な原因とする説が有力。)の破壊の違いの調査は今後の課題にしました。

前置きが長くなりましたが、表題『神話や伝説から知ることが多い、「旧約聖書 滅亡の街の真実」』に戻ります。

『ソドムとゴモラの破壊』は、昔から、日本の『卑弥呼の邪馬台国』の謎以上に興味津々でした。 『神の怒りに触れて滅ぼされたソドムとゴモラ』のこと。 NHK BSの「フロンティア」、センセーショナルなタイトル『旧約聖書のソドムの滅亡は隕石の空中爆発説か!旧約聖書 滅亡の街の真実 』を見ました。

「ソドムとゴモラの破壊」

 ウキペデイア情報から引用
ジョン・マーティンによる「ソドムとゴモラの破壊」(1852年)。
神によって、硫黄と炎が街に降りそそがれた。

今後の継続調査のためにウェブ情報の宇佐和通氏の記事『退廃の町ソドムは隕石の空中爆発によって滅亡した!「旧約聖書」の史実カタストロフィー』を抜粋、備忘録にしました。

宇佐和通
東京都出身。国際商科大学商学部卒業後、南オレゴン大学にてビジネスコース修了。商社、通信社勤務を経て、翻訳家・作家に転身。日本の都市伝説研究の第一人者。

これまでフィクションとされてきた『聖書』に登場する背徳の都市、 ソドム。だが、神から下された怒りの鉄槌は、まぎれもない歴史的事実だった! 考古学によって明らかとなった、古代の要塞都市消滅の実態とは──?

隕石の空中爆発で破壊された古代都市

ウェブ情報から引用
(上)中東におけるトール・エル・ハマムの地理的位置。ちょうど死海の北  東、ヨルダン渓谷南部の高台にある。
(下)トー ル・エル・ハマムにあった宮殿と寺院の位置を示したもの。左上には死海も見える。

『聖書』は、年代順に史実を記した歴史書であるという意見がある。 確かに、神の存在について語られる逸話のなかには、現代科学の枠組みのなかで説明をつけられるものも含まれている。 そして最近、こうした議論をさらに深めるような論文が発表され、注目を集めている。

 
2021年9月、「ネイチャー・サイエンティフィック・レポート」誌に、「ツングースカ級の空中爆発が死海近郊ヨルダン峡谷の中期青銅器時代の都市を破壊」というタイトルの論文が掲載された。 現地調査と執筆を主導したのは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の名誉教授ジェームス・P・ケネット氏と、トリニティ・サウスウエスト大学考古学部教授フィリップ・J・シルビア氏。

論文の概要
紀元前1659年(約3600年前)、死海の北東、ヨルダン峡谷南部に位置していた青銅器時代の都市トール・エル・ハマムが隕石の空中爆発によって破壊されたことを示唆。
1908年にロシアのツングースカで起きたものよりも規模が大きかったと思われる。 空中爆発によって4〜5階分に相当する高さ12メートル以上の宮殿と幅4メートル以上の日乾しレンガ製の城壁が崩壊し、近くにいた人々の体はばらばらになり、骨片となって地層に残っている。 空中爆発が原因で周囲の土壌に起きた高濃度塩分化が農業に大きな悪影響を与え、25キロ半径に位置する最大120の集落に対し、300〜600年にわたる人口減少期間を招いた。
『聖書』に描かれた背徳の都市ソドムか?
「現在、トール・エル・ハマムが『聖書』に記されたソドムであった可能性に関する議論が進んでいる。 ソドムの正確な位置と本論文との間に直接的関連性はないが、隕石によって破壊された都市の逸話が口承伝承となり、『聖書』に記された可能性は否めない」
 
中期青銅器時代(今から3600年ほど前の紀元前1650年ごろ)、エルサレムの10倍、エリコの5倍という規模を誇っていたとされるトール・エル・ハマムは隆盛をきわめていた。

 
死海北東のヨルダン峡谷南部の高地にあり、数千年にわたって文明の中心地だった大都市。
 
繁栄する都市を襲ったセ氏2000度の高温
ケネット教授は考古学および神学の専門家であるシルビア教授をパートナーに迎えて共同研究新プロジェクトを立ちあげ、3650年前に起きた出来事を明らかにするための現地調査を開始した。

 
問題となったのは、幅およそ1.5ⅿの中期青銅器時代の地層だ。 上下の地層と比べてきわめて異質な特徴が見られる。 戦争や地震などの名残であるさまざまな種類の破片とともに、表面が溶けてガラス化した陶器、気泡ができた日乾しレンガ、一部が溶けた状態の建材などが見つかった。

いずれも高温にさらされた痕跡が見て取れる。青銅 器時代に実現していた技術で生みだせるレベルの温度ではない。 「問題の地層に含まれる物質がさらされたのは、セ氏2000度という高温。

 
青銅器時代には実現しえなかった高温の原因を、隕石の空中爆発だったと結論した。これによって全地球規模の天候変化が生じ、多くの生物が絶滅したという。 上空で起きた爆発の衝撃で、トール・エル・ハマムでは宮殿も城壁も吹き飛ばされ、ほぼ平らな状態になってしまった。 土壌サンプルの分析においては、溶けた金属成分とともに鉄分、そしてケイ素成分が豊富な小球体などが検出された。

なかでも主要な発見として挙げられるのが衝撃石英だ。これが意味するのは、想像を絶する圧力がかかる状況が生まれていたという事実にほかならない。
このように現場で採取された物証から考える限り、トール・エル・ハマム近郊で大規模な空中爆発が起きた可能性はきわめて高い。

高濃度の塩分が急激な人口減少を招く
現地一帯で採取された土壌サンプルに見られる“異常に高いレベルの塩分濃度”も、隕石の空中爆発によって説明できる。サンプルの塩分濃度は、周辺地域の平均値である4パーセントに対し、25パーセントという非常に高い数値を示している。
 空中爆発の高い圧力によって、一帯の地表が高濃度塩分の膜で覆われるような状態になってしまったのだ。近くにある死海の塩分濃度が高いことも、同じ理由で説明できる。


 
ヨルダン峡谷では、標高が低い地域にあった都市の人口が急激に減少した時期がある。かつて豊かだった土壌が突然不毛に近い状態になってしまったからだ。当然のことながら、人々はより農耕に適した土地に移住することになった。トール・エル・ハマムの人口が再び増えはじめたのは600年後、鉄器時代に入ってからだった。

『聖書』の時代まで語り継がれた記憶
トール・エル・ハマムにはもうひとつの特徴的な側面がある。 『旧約聖書』「創世記」に出てくる街、ソドムだった可能性についてだ。住民が堕落的なライフスタイルを送り、享楽にふけった挙句に神の怒りを買って滅ぼされたという、罪の都市。

「創世記」によれば、ソドムに住んでいたロトという男性は「逃げる最中に後ろを振り返ってはいけない」という天使の忠告を守って助かった。しかし忠告を守らなかったロトの妻は塩の柱に変えられてしまった。
ケネット教授は語る。
 「隕石の空中爆発に関して書かれたものなら、『旧約聖書』の記述に違和感はありません。ただ、隕石の空中爆発によって壊滅的打撃を受けたのがソドムだったと断言するには、まだ科学的データが不十分です」
し3600年前の災害が口承伝統として残り、やがて『聖書』で文字化された可能性は検証に値する。

こうした背景について、コリンズ/シルビア両教授は、2015年に「文明の終焉をもたらした3700年前の出来事:考古学的データ、サンプル分析と聖書との関連性」という報告書を発表している。 結論部分で語られているのは、空中爆発はトール・エル・ハマム(ソドム)のみならず、周囲の都市(周辺の平野に点在していたゴモラを含む他の都市)も破壊した可能性がきわめて高いと考えられる。

死海で発生し、広範囲にわたって浸透した高濃度の塩分によって土壌汚染が起こり、農業の存続が困難となった。一帯に文明が戻ってきたのは、土壌が農業に適したものとなった、爆発から6〜7世紀後の時代である。

遺跡から検証されたソドムとの共通点
ソドムに関する記述が出てくるのは、主として「創世記」だ。ソドムはヨルダン川平原、死海のすぐ北にあったとされている。 ヨルダン東部最大級の水源豊かな都市として知られ、貿易路上に位置していたため地政学的にもきわめて重要で、全体が厚い壁で要塞化され、高い塔もあった。

 一方、紀元前3500〜同1540年の間に最盛期を迎えたトール・エル・ハマムも、要塞都市。高さ10メートル、厚さ5.2メートルの壁に囲まれ、そこには門と見張りの塔、通路がしつらえられていた。 また、都市インフラの拡張と強化も常に継続されていたと考えられる。 実際、青銅器時代中期においては、都市全体を覆う壁が厚さ7メートルにまで増強された。 壁の上は広い通路になっており、二重の同心円状構造として都市全体が囲まれていた
。  

隕石そのものが地上には衝突せず、空中爆発した場合と、天体衝突による『隕石の冬』又は『衝突の冬』のこと、興味津々で、またまた、国会図書館通いになりそうです。
 (記事投稿日:2024/04/16、#739)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『古代は、古代人は凄い 7(古代ローマ帝国終焉はコロッセオから)』

2024-03-11 17:05:40 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 7(古代ローマ帝国終焉はコロッセオから)』
『コロッセオでの剣闘技はエスカレート、帝国民への娯楽に飽き足らず剣闘士になったドミティアヌス皇帝自身も、実力のほどは?』

NHKBS(2024/01/07)『徹底解明!コロッセオの秘密(再)『エスカレートした剣闘技』に驚きました。 コロッセオは、楕円形の円形闘技場です。

コロッセオ ローマ中心部付近での位置(右上

 ウキペデイア情報から引用

コロッセオ楕円形闘技場(コロッセオの中央が舞台アリーナ)
コロッセオは、長さ189メートル、幅156メートルで、外壁は、48メートルの高さです。 

地下から登場した猛獣の餌食にされようとしているキリスト教徒

ウキペデイア情報から引用

この世界一大きな円形競技場とはいえ、コロッセオの中央の舞台アリーナは、長さ87メートル、幅55メートルの楕円形ですので、模擬海戦はここでは行われなかったのではと思われます。 コロッセオのある『パラティーノの丘、海抜51ⅿ』で得意の水道橋での、注水も大変であったろうと思います、模擬海戦終了後の『舞台アリーナの地下』の排水は、比較的、容易であったでしょうか。 

記録として残っている最初の模擬海戦は、BC46年、ローマにユリウス・カエサルが建設した人工湖で行なわれたティルス船とエジプト船の戦いと伝えられている。 
BC2年には、カエサル庭園の池でアテナイとペルシャの海戦が再現された。
アウグストゥス帝が模擬海戦を行なった人工池は、長径が約550m、短径が約370mあったと言われ、アンシエティーナ水道を経由して、ローマの北にあるマルティニャーノ湖から水を引いていたと伝えられている。 この湖の水は飲み水には適さない悪質のもので、アンシエティーナ水道は模擬海戦のために築かれたと考えられている。
同じ人工池で、ティトウス帝代にはコリントスとケルキラの海戦が再現された。

52年にクラウディウス帝がフチーノ湖で行なった模擬海戦では、ロードス軍とシシリア軍に扮した19000人の剣闘士と罪人が戦った。

ドミティアヌス帝も模擬海戦に熱心で、ティベレ川近くの人工湖で、ほぼ実物大の船を使って実施したと言われ、トラヤヌス帝も模擬海戦場を持っていたとされる。 蚊の発生を避けるため、水は模擬海戦のたびに入れ、終了後排水していたようである。


古代エトルリアを征服し、古代ギリシアを模倣し、ヨーロッパ諸国を席巻した古代ローマという勢力。 王政から共和政、帝政へと移行しながら国土を拡大した結果、自らも手に負えないほどの巨大国家へと膨張しましたが・・・。
ココロッセオでの剣闘技の継続エスカレートと、度重なる大規模な模擬海戦で、ローマ帝国の帝国民の娯楽の提供は、古代ローマ帝国終焉はコロッセオからと言われる所以もよくわかります。

古代ローマ帝国の歴史抜粋
●ローマの夜明け / BC753〜BC272年
紀元前753年、狼に育てられたとされる双子の兄弟ロムルスとレムスが、エトルリアの植民地下にあったパラティーノの丘に都市国家ローマを建国する。王政に始まったローマは共和政へ移行し、民会の設置や法の整備、軍の強化を進めてイタリア半島を統一。

●共和政ローマの躍進 / BC264~BC146年
イタリア半島を統一したローマは、地中海対岸の北アフリカで勢力を拡大していた都市国家カルタゴに標的を定める。紀元前264年、シチリア島の所有権をめぐり戦いの火蓋が切られてから、3度にわたるポエニ戦争の激戦を制して地中海を手中に収めた。

●内乱の一世紀から帝政ローマへ / BC133~200年
領土拡大につれ、多くの奴隷と安価な作物が流入したことで、中小農民が没落。国力は低下し、奴隷もたびたび反乱を起こしてローマ社会は存続の危機に。そこで登場したのが英雄ユリウス・カエサル。彼は数々の内乱を平定し、帝政への下地をつくった。98-117 ADのトラヤヌス帝の治世で、ローマ帝国は最大領土となった。

●東西分裂とローマの滅亡 / 212~476年
ローマがもっとも安定した「五賢帝時代」をへて、ローマは迷走の時代に突入。皇位争いが勃発し皇帝の力が弱まると、異民族の侵入や奴隷の反乱が頻発する。4世紀末に東西に分裂後、100年を待たずして西ローマ帝国が滅亡。古代ローマ帝国は幕を閉じた。

「コロッセオが崩れるとき、ローマも滅びる。そしてローマが滅びるとき、世界もまた滅亡する」と言われるほどの繁栄を誇った古代ローマ帝国。その芽生えから滅亡するまでの、約1200年超の歴史を駆け足で振り返った。ローマ帝国は滅びても、現代イタリアを旅しながら建築や生活様式をとおして古代ローマの面影に出会える、かも?

ローマがもっとも安定した「五賢帝時代」をへて、ローマは迷走の時代に突入。皇位争いが勃発し皇帝の力が弱まると、異民族の侵入や奴隷の反乱が頻発する。 4世紀末に東西に分裂後、100年を待たずして西ローマ帝国が滅亡。 古代ローマ帝国は幕を閉じた。

古代ローマ帝国は西暦395年に東西に分裂した後、東ローマ帝国は1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで1,000年以上にわたって続いたが、西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の嵐の中、476年に滅亡した。

歴史に『タラ・レバ』はありませんが、古代ローマ帝国が、1000年以上続きましたのは、ココロッセオでの剣闘技の継続エスカレートと、度重なる大規模な模擬海戦などで、ローマ帝国の帝国民への娯楽の提供が無かったらどうなったかと考えてしまいます。
(記事投稿日:2024/02/21、#731)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『古代は、古代人は凄い 7(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 3)』

2024-02-11 21:30:15 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 7(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 3)』
『古代ローマ帝国には、淫蕩帝伝(2)・放埒帝伝(2)・残虐帝伝(2)等、悪評判の皇帝(ネロもその一人)もおりましたが、約1500年も存続』
『世界史上に有名な「ビザンチン帝国」「大英帝国」と比較のために備忘録に』

世界帝国ローマの時期区分

ウエブ情報から引用

世界史上最大最長の、ローマ帝国の歴史に『第5代ローマ皇帝ネロの光と影』の切り口から勉強に入りましたが、今後の調査のために、ローマ帝国史の抜粋を備忘録にしました。

ローマはグローバル世界の様々な文化と技術を吸収したからこそ、今日にまで伝わる伝統を残せた。 その上に政治体制が、特別に進歩していました。

ローマの国政を牛耳っていたのは3つの要素です。 
❶コンスル権限に着目すれば、完全に君主政で王政のように見える。
 コンスルとはローマの行政機関である政務官のトップ。 
 コンスルは2名おり、1年間務める。
❷元老院の権限に目をやれば、今度は貴族政のように見える。
 政務官を経験した者が集まる元老院は、実際にはローマの貴族が集まり、
 貴族の要求を取りまとめる場所。
❸民衆の権限に目を向ける者がいたなら、明らかに民主政のように見える。
 「民衆の権限」という点では、ローマにも民会があり、また財産が少ない者
  の意見を訴えるための平民会もありました。
これら3つの要素がそれぞれに形をとってローマの国政を治めてきた。

君主制・貴族政・民主制の要素を持った帝国は、建国から滅亡まで、約1,200年と言われますが、広義にとらえれば、次のように2200年余とも捉えられます、
古代ローマ帝国と言えば、東アジアの漢や唐、さらに近代の大英帝国や現代のアメリカとも比較されることが多い「世界帝国」「超大国」で、西洋古代最大の帝国です。 

伝説では紀元前753年4月21日に都市国家として建国されたというローマは、その後次第に支配地域を拡張、一部(東ローマ)は1453年まで、実に2200年以上にわたって存続した。 前8世紀ごろ、ラテン人がテベレ川下流域に建てた都市国家に始まり、王政、のち共和制(前509〜前27)を経て、前27年内乱、を収拾したオクタビアヌスの即位により帝政に移行。 

特に帝政ローマの時代は、地中海を中心に西ヨーロッパから黒海沿岸、中東、北アフリカまでを支配し、帝国の記憶・古典文化・キリスト教はその後のヨーロッパ社会の土台となった。 また、繁栄と滅亡のドラマチックな対照から、「ローマはなぜ滅んだか」は長年人々の関心を集めてきました。

最盛期の五賢帝時代(96〜180)その版図は最大となり、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカの地中海沿岸、北はブリテン島に及ぶ大帝国となった。 2世紀末から衰退し、395年東西に分裂。 東ローマ帝国は1,453年まで続くが、西ローマ帝国は476年、オドアケルに滅ぼされた。 学術・芸術ではギリシャの模倣の域を出なかったが、法制・軍事・土木面にすぐれ、後世に大きな影響を与えた。 (帝政開始から西ローマ帝国の滅亡までを古代ローマ帝国)それ以降を中世ローマ帝国とも称する。

ローマの歴史の段階     任期                 年数(概算)
ローマ王国         紀元前753年〜紀元前509年      244年
ローマ共和国      紀元前509年〜紀元前 27年       482年
古代ローマ帝国   紀元前 27 年〜西暦 1453年    1500年
(西ローマ帝国   西暦395年〜西暦 476年            81年)
(東ローマ帝国   西暦395年〜西暦1453年   1058年)  
                                                                          2226年 

世界史上の巨大帝国との比較

ビザンチン帝国の段階                任期      年数(概算)
ビザンチン初期                西暦  330〜西暦 843   513年
中期ビザンチン時代          西暦  843〜西暦1204        361年
ビザンチン時代後期    西暦 1204〜西暦1453   249年
(コンスタンティノープル陥落)                             1123年

大英帝国の段階      任期        年数(概算)
大英帝国の開始         西暦1497〜西暦1707    210年
第1大英帝国     西暦1707〜西暦1783     76年
第2大英帝国     西暦1783〜西暦1815       32年
大英帝国の崩壊          西暦1945〜西暦1997      52年  
                         370年

西ローマ帝国が滅亡した理由・原因
西ローマ帝国の滅亡の原因は国内のクーデターによるものです。 このクーデターには西ローマ帝国の政治情勢が深く関わっていました。 もとよりローマ帝国はゲルマン人による侵攻の危機にさらされていました。 ゲルマン人としても豊富な資源を有するローマ帝国は非常に魅力的でした。

そしてローマ帝国が東西に分裂した好機をゲルマン人が見逃すわけもなく、これ幸いとばかりに攻撃してきます。 東ローマ帝国は土地柄攻めにくく、また首都の防御をしっかりと固めていたため、ゲルマン人は西ローマ帝国に的を絞り、侵攻するようになりました。

ゲルマン人による侵略だけでなく、西ローマ帝国は内政にも悩まされていました。 西ローマ帝国は国教であるキリスト教の影響が非常に大きく、そのトップの座である教皇の影響力は皇帝とほぼ変わらないほどだったのです。

国の分裂によって教皇も西ローマ教皇、東ローマ教皇と分かれることとなりましたが、西ローマ教皇として任命されたレオ1世は皇帝の仕事や役職を独断で監督するようになります。 そして西暦445年にはウァレンティニアヌス3世が「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」と発表し、教皇の絶対性を主張したのです。

軍事面においても皇帝の影は薄く、重要な役割はほとんど部下である将軍たちが対応していました。そして西暦476年、軍人であったオドアケルが「もはやローマに皇帝は必要ではない」と主張し、クーデターを起こしました。

西ローマ帝国は滅亡後どうなったのか
クーデターによって西ローマ帝国の皇帝は廃位となりました。 それを知った東ローマ帝国の皇帝ゼノンはオドアケルを称え、ローマ帝国のイタリア領主という役職を与えました。 オドアケルはこの役職に恥じぬ働きをし、西ローマ帝国内の内乱を治め、帝国内は一時的に復興することとなりました。しかし西ローマ帝国の状況を知ったゼノンはオドアケルの存在がやがて自分を脅かすことになるのではと、東ゴートの王テオドリックにオドアケルの殺害を命じます。

西暦493年、テオドリックはイタリアへ侵攻し、オドアケルを打ち負かしてイタリアを占拠したのち、彼を殺害しました。オドアケル死去後はテオドリックがイタリア王を名乗るようになります。オドアケルとテオドリック、優秀な2人の統治によって西ローマ帝国の国力は回復し、繁栄の時代を迎えました。
ここまで読んでいただいた方はお分かりだと思いますが、西ローマ帝国は俗に言う「滅亡」はしていません。そのため西ローマ帝国が「滅亡」したという表現は不適切だという声が上がっています。
多くの歴史家は「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」という見解を示していますが、何代も続いてきた皇帝制度は西暦476年に廃止されていますので、この記事においては滅亡という表現を使わせていただきます。

東ローマ帝国が滅亡した理由・原因
東ローマ帝国は一度十字軍の侵攻によって滅亡していますが、その後再興し、約200年の統治の後オスマン帝国により完全に滅亡しました。 東ローマ帝国は主要な国々と接していたことから、攻められやすい国でした。 そのため東ローマ帝国の初代皇帝であるアルカディウスは首都の防御を固め、難攻不落の城壁を築きました。

西暦600年頃を境に勢力を増していたイスラム帝国により領土が縮小するものの、国家としては安定していたと言えるでしょう。 しかし西暦1204年、第4回十字軍の遠征によって首都コンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅亡しました。 実はこの時東ローマ帝国の政権はひそかに亡命しており、旧帝国領で新たに東ローマ帝国を再興します。しかしこの統治も長くは続きません。

西暦1352年のオスマン帝国オルハンによって攻撃されて以来、東ローマ帝国とオスマン帝国は何度も戦いを繰り返しました。西暦1453年、オスマン帝国は10万もの兵で首都コンスタンティノープルを包囲します。対して東ローマ帝国の兵は7千。戦いの結果は見えていましたが、ローマ帝国兵士は2ヶ月にもわたって抵抗を続けました。
オスマン軍の総攻撃により、とうとうコンスタンティノープルは陥落。この時の皇帝コンスタンティノス11世はオスマン軍に特攻して行方知らずとなり、そして東ローマ帝国は完全に滅亡することとなりました。

東ローマ帝国は滅亡後どうなったのか
東ローマ帝国はオスマン帝国により侵攻され、滅亡しました。 滅亡後はオスマン帝国に領土を吸収されています。
なお東ローマ帝国領土であったモレアス専制公領やトレビゾンド帝国は、オスマン帝国によってどちらも滅ぼされてしまい、第4回十字軍の時のように地方からの復興とはなりませんでした。
ちなみに陥落前後のコンスタンティノープルでは多くの有識者たちが古代ギリシャ・ローマの文献について研究していましたが、オスマン帝国の侵攻によって西欧へと亡命しました。これが後のイタリア・ルネサンスに大きな影響を与えたとされています。

古代ローマ帝国の前の『ローマ王国』『ローマ共和国』と合わせ、これからも興味津々です。
(記事投稿日:2024/02/11、#725)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『古代は、古代人は凄い 6(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 2)』 『大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていた』

2024-02-08 23:10:09 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 6(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 2)』
『大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていた』
『「黄金宮殿」は、64年のローマ大火を受けてつくられた巨大施設』

第5代ローマ皇帝
ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス

 ウエブ情報から引用

世界史で「暴君ネロ」と習ったけれど……実は名君だった? と聞いてはいますが、やはり知りたいのは真実です。 先ずは波乱万丈の皇帝ネロと実母との凄まじい関係です。

真実はどこに、再度検証する『大英博物館のT・オッパー上席学芸員は、ネロは歴史の「被害者」と』
彼は皇帝として若すぎました。 当時起きた様々な問題は、ローマの社会が内部に抱えた緊張に起因し、ネロ個人の態度や政策とは関係ありません。 もし彼が実際より50年遅く皇帝になっていたら、全く違う評価を受けたでしょう。

ネロには、大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていたなど、皇帝にあるまじき逸話が残る。 しかし、その多くは創作の可能性が高いという。 出火の際にネロはローマにいなかったにもかかわらず、「火を付けたのはネロ自身」との話も信じられた。

現代のフェイクニュースと同じです。 極めて一方的で、しかも政治的な目的に基づいていたとオッパー氏はいう。 ネロのイメージは、このようなつくり話が積み重なり、事実に取って代わったのだった。 これは、歴史を学ぶ者に多くを考えさせる。 ネロ悪人像の端緒をつくったタキトゥスは、世界中の生徒学生がその名を学ぶ歴史家中の歴史家。 そのような高名な人物でさえ、歴史をゆがめる作業に、結果的に加担した。 物事を客観的に評価し、記述することの難しさを、改めて思う。

黄金宮殿
ローマ中心部の巨大遺跡コロッセオに隣接する丘の上にネロが建設した「黄金宮殿」(ドムス・アウレア)、「黄金宮殿」は、64年のローマ大火を受けてつくられた巨大施設。 ネロの死後は地中に埋もれ、後世その上に「トラヤヌス帝の浴場」などがつくられたこともあり、いったん忘れ去られた。 ルネサンス期に一部が発掘され、その壁に描かれた唐草模様風の曲線装飾「グロテスク様式」は、当時の画家ラファエロに大きな影響を与えたという。

「黄金宮殿」の内部は、高い天井の部屋が連なり、複雑に入り組んでいた。 誘導案内がまだ十分整備されていないせいか、途中で迷いそうになる。 壁の一部には曲線の文様が残る。 地中だけに薄暗いが、かつては「グロテスク様式」を際立たせるよう採光が工夫され、光に満ちた空間だったという。

「当時の画期的な技術に基づいた建物です。 ネロは、宮殿を築いた建築家や都市計画家に、大火後のローマ再建も担わせ、防災対策を施した街を築きました」。 宮殿の修復を指揮したコロッセオ考古学公園のアルフォンシーナ・ルッソ所長(61)は、こう語った。

――ネロはどんな皇帝だったのですか。
「考古学的視点から探る限り、極めて有能な君主だったと考えられます。 彼は、セヴェルスやケレルといった有能な建築家を登用して宮殿を建設するとともに、大火後のローマの街の復興にも努めました。 災害に備えて道路を広く取り、柱付きの回廊を設けて家同士の間隔を保つという、合理的な都市計画でした」

――なのに、なぜ「暴君」と呼ばれるようになったのでしょうか。
「彼は、庶民すなわち下層中産階級を優遇する政策を展開し、改革を実施して、民衆に広く愛されました。 彼らからの支持に依拠した政治を進めたのですが、一方で貴族階級や元老院とは対立したのです。だから、死後否定的に扱われたのです」

――ただ、母を殺害したり妻を死なせたりと 粗暴な印象は拭えません。
「この時代は、殺人も、近親相姦(そうかん)も、権力闘争の一環でした。 同じようなことは中世にもその後の世界でも起きたのです」

『古代は、古代人は凄い(第5代ローマ皇帝ネロの光と影』についてなお今後も調べていきたいと思っております。
(記事投稿日:2024/02/08、#724)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『古代は、古代人は凄い 5(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 1)』 『ローマの大火でキリスト教徒の迫害で、典型的な暴君とされたが』

2024-02-05 09:12:50 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 5(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 1)』
『ローマの大火でキリスト教徒の迫害で、典型的な暴君とされたが』
『著名な歴史小説家は言う、どんなに文字記録があっても、当時の人の心の中まではわからない? だから好きなように想像して、書けると!』

第5代ローマ皇帝
ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス

 ウエブ情報
世界史で「暴君ネロ」と習ったけれど……実は名君だった? と聞いてはいますが、やはり知りたいのは真実です。

第5代ローマ皇帝ネロ(紀元37~68)は、類いまれな「暴君」として知られます。母を殺害し、キリスト教徒を迫害し、芸術に心を奪われた末に自ら命を絶ったその人生は、小説や映画に描かれました。 ところが、その暴虐無人ぶりは虚像に過ぎず、実は帝国繁栄の基礎を築いた「名君」だった、との説が近年有力になっています。 

ネロは紀元54年、伯父であり養父でもあった第4代皇帝クラウディウスの死去を受けて、16歳で即位した。 その背後には、強い政治的野心を抱く母アグリッピナの策謀があったという。 哲学者セネカの指導を受けて当初は政治にいそしんだものの、何かと政治に口を出す母を殺害。 哲学者セネカも、彼の妻も死に追いやった。 64年に起きたローマ大火の際には、キリスト教徒に責任を負わせて弾圧した。

この間、次第に芸術にのめり込み、ギリシャ文化を熱愛。 自らコンサートを開いたり、劇場で舞台に立ったり、さらには古代オリンピックに出場して優勝したりした。 こうした姿のネロを、元老院は「国家の敵」と名指しする。 追い詰められたネロは、30歳で自害した。

「暴君」としての人物像は、「年代記」「ゲルマニア」などの著作で知られるタキトゥスや、スエトニウス、カッシウス・ディオといった著名な歴史家の記述に多くを負っている。 その後、ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説「クォ・ヴァディス」がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、さらにこれが映画化され、悪役イメージが定着した。 このような先入観に挑戦し、ネロの業績の再評価を試みたのが、ロンドンの大英博物館で10月24日まで開かれている特別展「ネロ 虚像に覆われた男」でした。
特別展「ネロ 虚像に覆われた男
大英博物館(British Museum)で2021年5月27日〜10月24日まで開催されている『Nero: the man behind the myth』展

英国は、ネロとの深い関係がある。 紀元60年ごろ、この地方の王族の女性ブーディカがローマ帝国に対して反乱を起こし、ネロによって最終的に鎮圧されたからだ。 その後、ブーディカは英国で英雄と見なされ、英国の歴史教科書にも登場するという。 「そのような関係があったにもかかわらず、英国内ではこれまで、ネロをテーマにした展示が開かれた形跡はありません。 今回が初めてです」と、特別展を企画した同館のトルステン・オッパー上席学芸員(52)は説明する。 特別展は2年あまり前から企画されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大で準備が中断し、2021年5月に開幕にこぎ着けた。

落書きが語る人物像
ネロの治世下、ローマ市内をはじめ帝国内にあふれていたその胸像は、死後削られ、後の皇帝の胸像につくりかえられた。 現代まで残るネロの姿のものは少ないが、特別展ではこれらを丹念に収集。 家族や歴代皇帝の胸像や、関係者の遺物、その時代の社会を物語る工芸品や資料なども、広範囲に集めた。 イタリアの各博物館所蔵品や遺跡からの出土品が、その多くを占める。

展示コーナーの中ほど、母アグリッピナや3人の妻ら家族の胸像が並ぶ華やかな場所の隅に、あまり目立たない形で立てかけられた一つの展示品が、ネロの復権を象徴している。 イタリア南部の遺跡ポンペイで出土した漆喰(しっくい)の壁だ。 有力者宅の台所の一部だという。 そこに、無造作に落書きが刻まれている。

ポンペイの他の落書きにも、ネロの名は多いという。 また、ローマでは、いたずらで描かれたネロの似顔絵も残されている。 実は、こうした落書きこそが、ネロに対する庶民の意識を示す。 タキトゥスら歴史家が記した公式の記録とは大きく異なる人物像だ。 「エリートによってつづられた公式記録がネロを悪者扱いしているのに対し、落書きは彼の大衆人気の高さを物語っています」と、オッパー上席学芸員は語る。

ネロが汚名を着せられたわけ
オッパー氏によると、皇帝としてのネロの業績は、税制・通貨改革や古代コンクリートによる街づくり、東方への領土拡大など、実際には多岐にわたっている。ネロの死から28年後、ローマではネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続く「五賢帝」の黄金時代が始まるが、その際に称賛された政策の多くは、ネロの治世に基盤が用意されたという。 

「もし事情が少し異なっていたら、ネロは偉大な改革者として語り継がれたかもしれません」なのに、どうしてネロは「暴君」の汚名を着せられたのか。
一つは、タキトゥスらローマ帝国の歴史をつづった人物が、元老院と対立したネロに厳しい目を向けていたこと。 タキトゥスは、自身も元老院議員を務め、元老院寄りの視点を持つといわれる。加えて、中世になってキリスト教が広がる中で、ネロはその弾圧者と位置づけられた。

実際には、キリスト教徒は当時ローマにごく少人数しかおらず、ユダヤ教徒の一部だと見なされていたなど、状況がその後とは大きく異なっていたというが。
「同じように暴君として知られた第3代皇帝カリグラは、在任中に殺害されました。しかし、彼はキリスト教との接点がなかったため、ネロのようには憎まれなかったのです」

『古代は、古代人は凄い 5(第5代ローマ皇帝ネロの光と影』についてな今後も調べていきたいと思っております。
(記事投稿日:2024/02/05、#723)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする