知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『世界の城郭 24(時代か、民族の違いか巨大城郭、南京vsローマ)』 『世界最大の南京城と欧州最大のローマの城壁は逆兵糧攻め効果!』

2025-01-05 10:05:49 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 24(時代か、民族の違いか巨大城郭、南京vsローマ)』

『世界最大の南京城と欧州最大のローマの城壁は逆兵糧攻め効果!歴史上、世界中で攻城群が、兵糧枯渇で撤兵の例もあり!

『「逆兵糧攻め」人間は戦うことには、いつでも知恵が無尽蔵に沸く』

古代・中世の中国の城壁は『高く・幅広く・長い』。 古代の欧州にも『高く・幅広く・長い城壁』が存在、この理由『逆兵糧攻め効果』がローマの城壁にあったのです。 久しぶりに『目から鱗』でした。

ローマの守備隊は城壁の規模に対して人数が少なく、ローマにいる軍勢を全部合わせても2万数千人であり、城壁(19㎞)の全周の防備には人数が足りない。 この城壁が実際役に立ったかどうかは疑わしい。 よって、この城壁は長期の攻囲戦を意図したものではない。 異民族の攻城軍は食料供給が十分でないため、都市を取り囲むような戦法を採らず、むしろ、防御が弱いところを狙って電撃的な攻撃を加えることが多かった。 城壁はそのような戦法への対策だった。

この『逆・兵糧攻め』ともいえる守城戦は、マンガの世界のものと思っていましたが、『高く・幅広く・長い城壁』はローマの城壁が結果的には異民族から守られてきたし、中国の城郭都市の『高く・幅広く・長い城壁』も、万里の長城と同様に、『逆・兵糧攻め』の効果があったように思います。

南京城の城壁

高さ:14~21m

厚さ: 9~14ⅿ下幅、4~9ⅿ上幅

全周:60km

ローマの城壁

高さ:8ⅿ

厚さ:3.5ⅿ

全周:19km

南京城壁(14世紀

南京城は、中華人民共和国の南京市の城。 市内中心部にあたる区域をぐるりと取り囲んで造られた全長60km、世界最大の規模を誇る南京城の城壁。 古代軍事史上重要な標本としても興味深いこの城壁は、1366年、明の皇帝・朱元璋(1328~1398)が都を南京に定めた後、21年の歳月と20万人の労働者(囚人を含む)を動員して首都であった南京に建設された城。 

土で固めた全長60kmの外郭を、その2年後、1393年には、この城壁を完成させている。 都市部の中核を成すのは、現在『明故宮』と呼ばれている『紫金城』で、北京のそれは南京を模して作られたという。 南京は城壁に囲まれた城壁都市であり居住者の大部分が城壁の内側に住んでいた。

明王朝時代の南京城は世界 中世史上 敷地面積最大の都市であり、宮殿の面積だけで1.2㎢、皇族が住む皇城は6.5㎢、内城の面積は55㎢、そして外郭も含めた都市全体の面積は248㎢と非常に広大であり唐の長安(面積87㎢)の二倍以上、清王朝時代の北京城(面積60㎢)の四倍以上の広さを誇っていた。(山手線の内側の面積が63㎢

 

南京城中華門(南の内城正門

ウキペデイア情報から引用

 

南京城壁の上

ウキペデイア情報から引用

 

1950年代に撮影された3重の守りを持つ通済門

(内城正門以外の13ヶ所ある門の一つが、この鉄壁の守り!)

    

ウキペデイア情報から引用

 

古代ローマ城壁

セルウィウス城壁(赤線)とその門を示したローマの地図。 3世紀のアウレリアヌス城壁(黒線)

 

 

ウキペデイア情報から引用

セルウィウス城壁紀元前4世紀初め

ウキペデイア情報から引用

ローマを取り囲んでいた防御用城壁、壁の高さは最高で10mで、基部の幅は3.6m前後、全周は11km。 16の大門があったとされているが、その多くは文献に記されているだけで、遺構は発見されていない。

 

アウレリアヌス城壁(紀元6世紀初め

ウキペデイア情報から引用

全周19kmで、13.7平方kmの領域を取り囲んでいる。 壁はローマン・コンクリートを煉瓦で覆う形で作られており、厚さは3.5m、高さは8mで、100ローマンフィート (29.6m) ごとに塔がある。 5世紀には高さを倍増させ16mにする改修が行われた。 紀元500年には、383の塔、7,020個の狭間胸壁の凹凸、18の大門、5つの通用口、116の公衆便所、2,066の大きな窓があった。

3世紀までにローマは古いセルウィウスの城壁で囲まれた領域よりも市街地が広がっていた。 セルウィウスの城壁は共和政ローマ時代の紀元前4世紀末ごろに建設された城壁。 

今回は大砲の無い時代にも城郭は、どんどん拡大されました。 『高く・幅広く・長い城壁』が、『逆・兵糧攻め』の面もあり守りやすいと分かりました。

(記事投稿日:2021/01/10、最終更新日:2025/01/05、#454)

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『世界の城郭 2(陸繋島の城郭は、世界に3城だけ、1城が日本にあった)』『陸繋島・江ノ島に寺院・神社はあるが、城郭は建設されなかったか、なぜ?』

2024-08-11 12:01:13 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 2(陸繋島の城郭は、世界に3城だけ、1城 が日本にあった)』

『陸繋島・江ノ島に寺院・神社はあるが、城郭は建設されなかったか、なぜ?』

陸繋島・江ノ島には、なぜ城郭は建設されなかったのか、を調べていたら表題のことが解りました。 陸繋島の城郭・城郭跡は世界に3城郭だけだった。 

 

砂州によって大陸や、大きな島と陸続きになった島のことを、陸繋島(りくけいとう)と呼ばれています。 

 

フランスの陸繋島『モン・サン・ミッシェル』には城郭と教会があり、英国の『英国版モン・サン・ミッシェル』とも呼ばれる陸繋島『St・マイケル・マウント』にも城郭と教会がありますが、これらは、城郭都市ではありません。

 

『江の島』には、江ノ島神社と江ノ島大師だけで城郭はありません。

 

ウエブ情報には、日本の陸繋島は、二十数件と沢山載っていますが、世界の陸繋島で『リストされている』のは極少なく数件です。

 

日本にも、『陸繋島城郭跡』がありました。 先ずは、ウエブ情報からです。 

 

愛媛県今治市古城島の甘崎城(あまざきじょう)跡です。 別名を、古城、岸の城、荒神城。 7世紀末、唐軍の侵攻に備えて、越智氏によって築かれた日本最古の水軍城とされ、伊予国大三島東端である瀬戸甘崎の海中に位置する島城・海城であり、村上水軍の拠点の一つ。 

 

13世紀の元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から、下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行を徴収する拠点に至る。 この税を生活の糧とした。

 

この城の最大の特徴として、陸繋島という地理上から潮が引くと島に至るまでの陸路ができ、幾重にも石垣が築かれているが、満潮時には没し、海中縄張りとなった。 

 

数年前から気になっていた、日本には山城が4-5万余もあるが水城・海城は僅か18城郭で、日本三大水城・海城は,高松城(海抜3m)・今治城(海抜10m)・中津城(海抜6m)です。 

 

四つの島の比較です。      形     面積    海抜

モン・サン・ミッシェル    円形    0.97㎢        80m

 ウエブ情報から引用

 

St・マイケル・マウント       円形    0.23㎢       30m

モン・サン・ミッシェルの四分の一

 ウエブ情報から引用

 

 甘崎城            長円    0.01㎢    19m 

モン・サン・ミッシェルの百分の一

 ウエブ情報から引用

 

江の島              三角形   0.38㎢       60m

モン・サン・ミッシェルの三分の一

 ウエブ情報から引用 

素人の推測と課題です。 『なぜ、江ノ島に、城郭は建設されなかったか』、

江の島は南側が相模トラフに続く地形は深く、遠浅とは言えず、大型軍船が近づけることが理由の一つと思われます。

逆に、モン・サン・ミッシェルも、St・マイケル・マウントも、極端な遠浅の海の中にあり、大型軍船は近づけずない。 

 

肝心の飲料水対応ですが、山城・水城・海城も、条件は同じで湧水では間に合わない時は、大甕や大桶で運び上げるか『大甕に雨水溜める』であった。

 

江の島には、湧水『白龍王黄金浄水』と『一遍成就水』がありますが、湧水量は不明です。 この点では城郭建設には有利です。 モン・サン・ミッシェルとSt・マイケル・マウントには、湧水はありません。

 

江ノ島を舞台の『江ノ島合戦』に興味ある記録がウエブ情報にあります。

 

足利成氏は幕府再建がうまくいかなそうだから、鎌倉を出て、江の島から房総方面へ逃げようとした。 あるいはいったん江の島を陣として、鎌倉を実効支配しようとしたのではないか。 江の島合戦という呼称自体が、成氏が『江の島を陣』としたことによるのであり、 江の島で実際の戦闘があったわけではない。 鎌倉御所で戦闘があったわけでもない。 由比ヶ浜、七里ヶ浜、腰越浦で多少の小競り合いがあった。 

 

この江ノ島の陣で、成氏は敵を撤退させている。 素人の自分の描いた、夢見た、構想は、個人的には海が好きですので、この東・西・南が垂直の断崖の天然の要害、海抜60の江ノ島に本丸と天守を構築して、相模湾越しに見える富士山の夕景を眺める。 本土側に二の丸、三の丸、武家屋敷や寺町を囲む、総構えの城郭とする。 江ノ島と本土は、木橋又は土橋(又は沈下橋)で結び、天下布武ができないものかと錯覚していました。 

 

余談です。 織田信長の安土城は、本格的な石垣の山城で、且つ高層天主閣も我が国、城郭史上初めて。 城内の石垣は、麓から水運と陸運で引き出して、急勾配の標高差130m余の安土山へ引き上げています。 この天主閣から琵琶湖のむこうに沈む夕日を眺めていた、天主閣に居住した、ただ一人の武将です。

 

天下布武には、『江ノ島城郭』では無理なことは、やっとわかり判りました。 国土地理院地図の『傾斜量図』の地形を見て、鎌倉との比較ができました。 空中写真も衛星画像もない時代に、鎌倉の市街要塞の縄張りができたものです。

鎌倉の街を三方(北・東・西)の山と、南の海・由比ガ浜で囲んだ鎌倉市街要塞と、要害山城安土城や、堅城大阪城や、巨大江戸城等と、江ノ島の城郭構想では比較にも、なりませんでした。

  

『陸繋島に城郭建設のこと』は、鎌倉時代以降では無理のようです。

 (記事投稿日:2019/08/14、 最終更新日:2024/08/11、#115)

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『日本の城郭 1.1(日本の城郭の中で一番人気は、以前は安土城)』

2024-08-06 06:01:54 | 城・城郭・城塞
『日本の城郭 1.1(日本の城郭の中で一番人気は、以前は安土城)』         
『琵琶湖畔の標高199ⅿの山頂に築城された5層6階の「天主閣」としては史上初で、さらに城主信長自身が居住した「天主閣」』

『天守閣』と呼ぶようになったのは近代からだそうです。 安土桃山時代から登場してくるのが『天守』、ふつう天守閣といわれているようですが、安土桃山時代および近世の史料には『天守閣』とは出てこないし、『天守』ないし『天主』で、『天守閣』というようになったのは近代に入ってからです。

永禄10年(1567)年8月、織田信長が斎藤龍興を滅ばしたあと、自分の居城とした岐阜城に『四階御殿』を建てさせていたことは、ルイス・フロイスの『日本史』に書かれており、それが『天主』のはじまりと考える建築史家は多いようです。 清州城も天主の呼称あり。

たしかに、3代将軍足利義満が建立した3層の金閣に対し、足利将軍家に代わって天下に号令しようと考えていた信長が、それを凌駕する4層の建物を城の中に建てさせた可能性はあるのではないでしょうか。
 
この岐阜城の『四階御殿』、すなわち『天主』が、さらに階を足して安土城の『天主』につながったとする見方もあるようです。 足利義昭のために信長が築いた二条城がその1つで、『天主』が存在したことが『元亀二年記』および『兼見卿記』の記述があるようです。

『近江国蒲生郡安土城之』 大阪城天守閣所蔵
  
ウエブ情報から引用

三英傑 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天守城郭建設時期を比較
 安土城:  天正10年(1579)(史上初の五層六階の天主閣)
 豊臣大阪城:天正13年(1585)
   家康江戸城:慶長12年(1607)
 姫路城:  慶長14年(1609)
 駿府城  :慶長15年(1610)
 
 秀忠江戸城:元和 8年 (1623)
 家光江戸城:寛永13年(1636)
  

同、天守閣(天主閣)の大きさ比較

ウエブ情報から引用

江戸城は寛永15年・1638年に3代将軍徳川家光が建てた江戸城天守になります。 そこで大御所家康の天守ですが、少し遠慮気味に駿府城です。 江戸幕府の体制も確立された時期の家光の江戸城天守は、姫路城や三英傑の安土・大坂・駿府城より10m以上も大きい史上最大の天守です。 しかし江戸城天守はのちの明暦の大火で焼失し、その後再建されていません。

三英傑の天守が大きいのは当然として、それらと互角の大きさを誇る姫路城もスゴイと思います。 姫路城天守は関ケ原合戦の後に姫路に領地をもらった池田輝政という大名が建てました。

姫路城天守が建てられた時期は江戸幕府の支配もまだ盤石ではなく、中国・九州に豊臣秀吉に恩を感じている大名らが大きな領地を持っていました。 それらの大名が大坂の豊臣秀頼と合流するのを防ぐために池田輝政が姫路城を任されました。 軍事戦略上、三英傑に匹敵する城郭の天守が必要だったのでしょうか。

同、城郭の基壇の標高比較
 安土城:  標高 199m、
 豊臣大阪城:標高  31m
 姫路城:  標高  46m
 駿府城:   標高  24m
 江戸城:   標高  28m
標高199mの安土山に織田信長が天正4年(1576年)正月に天下布武構想に燃え着工、3年後に完成(急勾配の安土山、標高差130ⅿに、石材を運び上げた凄さ)。本格的な石垣の山城で、且つ高層天守も我が国、城郭史上初めて。 城内の石垣は、観音寺山(標高433m山麓からの陸運)、長命寺山(長命寺川と西の湖の水運)、長光寺山(陸運)等から引き出して、急勾配の標高差130m余の安土山へ運び上げた。

信長は、岐阜城の天守閣、安土城の『天主閣』に居住した稀有の武将。 一般的には、天守閣は日常生活の居住には使われていない。 天正3年(1975)暮れには、家督を嫡子、信忠に戦国大名の地位を譲り、 自分は天下人になった。
天正10年(1582年)6月2日「本能寺の変」で自刃。享年49歳。
(記事投稿日:2024/08/04、#762)
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『岡山城の狭間(サマ)(行って見て・解かったこと)』ーこの城の狭間だけが内側も外側も広く、城壁断面の中央で小さく、ユニークー

2023-04-15 09:54:39 | 城・城郭・城塞

『岡山城の狭間(サマ)(行って見て・解かったこと)』

『この城の狭間だけが内側も外側も広く、城壁断面の中央で小さく、ユニーク』

 

 

岡山城は別名、烏城・金烏城、梯郭式平山城(日本城郭協会さんへ、天守付近で海抜12m、背後の旭川の水面から、標高差10ⅿ、これで平山城、因みに千代田城・江戸城は天守付近で海抜29ⅿ、東京駅付近からの標高差26m、これでも、平城です。)

 

岡山城は宇喜多家が本格築城、関が原で敗れ、関が原の寝返り小早川家が城主に、これも世継なしの理由で2年後改易、徳川譜代の大大名岡山藩池田家に引き継がれ城郭拡張も、1620年頃完成、天守は第二次大戦中、空襲で焼失。ナント日本の城郭・寺院等の木造建築は数百年持つし、鉄筋コンクリートよりはるかに、長寿命です

 

さて、本題です。

狭間は、西洋の城郭にもあり、アロースリットとか、ループ(勾配)ホールと言われる。 狭間は武器分類で、矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間、形で分類は、弓矢用の縦長の長方形、鉄砲用なら丸型・三角型・正方形がある。

狭間は、一般に内側・防御側のホールが広く、外側・攻撃側に狭くする勾配がかかっており、ワンサイドの勾配です。 内側から弓でも銃でも広角に狙えるようになっています。

 

Webには、こんな説明もありました。

狭間は多くの場合、外側(城外)にいる敵を狙う小窓であるが、例外として、姫路城の大天守内部には、敵が侵入した際、隠れ部屋の壁から狙う狭間があり、いわゆる城の外側を狙うのではなく、部屋内の敵を狙うものであり、籠城戦が崩れた後の想定、すなわち最後の最後の抵抗目的で造られたものもある。城内に侵入した敵の油断(狭間は城外を狙うもので建物内にはないとの思い込み)をつく狭間である。

 

備中松山城には、一部の狭間が逆向き(外広がり)なってところがありますがこれは工事ミスですが、平和な時代になっていたので放置された由。平和です。

ところが、この岡山城の狭間だけが、内側も外側も広く、城壁断面のセンターで小さくなっています。つまり両側から勾配(ループ)がかかっています。 このユニークな狭間は今後の調査課題です。

岡山城は石垣もユニークで、宇喜多時代の野面積みと池田時代の打ち込み接ぎ(ハギ)の共存なっています。 

(記事投稿日:2016/09/10、最終更新日:2023/04/15

        (20160910纏め、20190225改、#000)

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『世界の城郭 7(ネルトリンゲン城郭都市は隕石のクレーターに)』『奇跡の「二つのクレーターを残した天体は二重小惑星」そこを城郭都市に』

2023-04-12 08:07:12 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 7(ネルトリンゲン城郭都市は隕石のクレーターに)』

『奇跡の「二つのクレーターを残した天体は二重小惑星」そこを城郭都市に』

 

 城郭は、いつ見てもロマンを掻き立てます。 この要塞は、自分たちの家族・同胞を守るために『ロケハンと予想縄張り』を繰り返し、最終的にたどり着いたのが、ここ『直径24kmの巨大なクレーター(ネルトリンガー・リース)の中央から南西よりの、直径1kmほどの円形の中央丘に円形の街・城郭都市』が築かれました(落下した隕石は直径1.5km程度)

 ネルトリンゲンは、1500万年前に、シュヴァーベンジュラ山脈(ドイツ連邦共和国、バイエルン州)に落下した隕石のクレーターであるネルトリンガー・リースに位置する。 このクレーターは直径24 kmあり、その縁は環状の連丘に見える。 この環状連丘が、実際の戦いに役立ったかどうかは不明です。

 
 
 ネルトリンガー・リースの中心から西南西42 kmにあるシュタインハイム盆地(左下隅)はもう一つの衝突クレーターです。 このシュタインハイム・クレーターは、直径3.8 kmと、リース・クレーターよりずっと小さい。 このクレーターもおよそ1500万年前に形成されたと考えられており、リースとほぼ同時のイベントであったと考えられています。(ウキぺぺデイアから引用)
 
 二つのクレーターを残した天体は二重小惑星であったと考えられている。 二重小惑星は、結構発見されていますが、『二重小惑星の地球への衝突』は、めったにはないようです。

ネルトリンガー・リース盆地の地図(ウキぺぺデイアから引用)
 

 

ネルトリンガー・リース盆地の俯瞰図(ウキぺぺデイアから引用)
 


ネルトリンゲン城郭都市の空中写真(ウキぺぺデイアから引用)


 
 この城郭都市は、直接攻められたことはありません。 攻防はクレーターの中で戦われました。 その攻防はウエブ情報からです。

 三十年戦争で歴史の転換点となったのがネルトリンゲン包囲戦とそれに続く1634年に起きたネルトリンゲンの戦いである。 この戦いでスウェーデン=プロテスタント軍は初めて皇帝=ハプスブルク軍にはっきりとした敗北を喫したのであった。 ネルトリンゲンは勝者に城門を開かねばならなかったが、高額の賠償金を支払うことで略奪行為を免れた。 しかし、この都市は包囲戦からその後にかけて飢餓や病気で住民の半分以上を失うという被害を受けていた。さらにその後のスペイン継承戦争でも、近くで起こったヘーヒシュタットの戦いによりこの都市は打撃を被っている。

 どんな戦いも、戦いでは幸せは、勝ち取れません。 結局、堅固な城塞都市も落とされます。 城は落ちなくても負け戦はあります。 それが歴史でしょうか。

(記事投稿日:2020/05/24、最終更新日:2023/04/12、#193)
                                      

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