知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『藤原道長は巨人か妖怪か(天皇制と帝王制の共存を創った怪物か』 『宮廷のしきたりを、巧くかわし、前代未聞の一家三后を実現!』

2024-11-30 14:45:43 | 歴史・日本
『藤原道長は巨人か妖怪か(天皇制と帝王制(貴族と武士)の共存・鼎立を創った怪物か、十数人もいる光源氏のモデルの一人でも!』

こちらの「モデル」というのは、実在の人物を創作の「ヒント」にした、というのが真相でしょうか。 そこに、藤原道長がトップで絡むと、なおさら「源氏物語」が凄さを帯びる。 この物語は、平安時代中期、11世紀初めに成立した、世界最古の長編小説です。 今後の調査の楽しみのために十数人のモデルを列挙しました。

藤原道長、在原業平、在原行平、源融、源高明、光孝天皇、宇多天皇、藤原伊周、
藤原実方。源光、敦慶親王、惟喬親王、敦康親王、敦明親王、大物主神

『宮廷のしきたりを、巧くかわし、前代未聞の一家三后を実現!』
一家三后:自分の3人の娘が、三代天皇の皇后

『「この世をば わが世とぞ思ふ・・・」と、酒宴で酩酊時に詠んだ』
よくぞ、詠みました! 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」は藤原道長が祝宴で詠んだ句です。 この句の意味は「この世は自分のためにあるようなものだ。 望月(満月)のように足りないものは何もないと思えるから」という意味です。この句からは、ごう慢で偉そうな態度をとる性格がうかがえます。

さて、表題に戻ります。 千年以上継続可能な『天皇制と帝王制』共存・鼎立のしくみを、最初に創った巨人・怪物・妖怪が藤原道長ではないでしょうか。


 ウキペデイア情報から引用

生涯

966年 ( 1歳)藤原兼家の五男として誕生

995年 (30歳)道長の長兄関白・道隆と三兄である道兼が次々と死去。道長、右大     臣、藤原氏長者となる

996年 (31歳)長徳の変で藤原伊周とその弟・隆家が失脚。左大臣に昇進。

1000年(35歳)長女・彰子が一条天皇の中宮(皇后)となる。

1008年(43歳)彰子が敦成親王を出産。

1012年(47歳)三条天皇に入内していた次女・妍子が中宮(皇后)となる

1016年(51歳)三条天皇が譲位し、敦成親王が即位(後一条天皇)、道長摂政となる。

1017年(52歳)摂政と氏長者を嫡男・頼通に譲る。太政大臣となる。

1018年 (53歳)三女・威子を後一条天皇に入内させる。威子の立后のときに「この世をば」を詠う。

1019年(54歳)病になり、剃髪して出家する。

1028年(62歳)死去

 

人物と逸話

  • 花山天皇が深夜の宮殿をめぐる肝試しを命じた際には、道長一人大極殿まで行き、証拠として柱を削り取ってきたという(『大鏡』)。
  • 父・兼家の葬儀の際、道長の堂々たる態度を見た源頼光は将帥の器であると感嘆して、自ら従うようになったという。
  • 弓射に練達。 兄道隆は、弓比べを止めさせたという(『大鏡』)。
  • 紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、自邸でも作文会や歌合を催したりした。 『源氏物語』の第一読者であり、紫式部にいつも原稿の催促をしていたといわれている。 また、主人公光源氏のモデルのひとりとも考えられている。
  • 歌集『御堂関白集』を残し、自ら拾遺以下の勅撰歌人でもある。 もっとも道長本人は和歌より漢詩の方を得手としていたようである
  • 政治家としては、新制(長保元年令)を発令し、過差(贅沢)の禁止による社会秩序の引締估価法の整備などの物価対策などにも取り組んだ(道長や実資が死ぬと公卿が社会政策に取り組む事はなくなり、院政や武家政権に政治の実権を奪われる遠因となる

さらなる、道長の凄さですが、『道長の33歳から56歳にかけての日記は「御堂関白記」(「法成寺摂政記」)と呼ばれ、自筆本14巻、書写本12巻が京都の陽明文庫に保存されている。 誤字・当て字が随所に散らばり、罵言も喜悦の言葉も素直に記してある。 当時の政治や貴族の生活に関する超一級の史料として、1951年に国宝に指定された。 また、2011年5月、ユネスコの「世界の記憶」へ推薦され、2013年に登録された。』

『世界の記憶』(「世界記憶遺産」から名称変更)は、2011年筑豊の炭鉱記録画(山本作兵衛)の作品群が日本で初めてユネスコ「世界記憶遺産」に登録され大きな話題をあつめました。 国内では現在まで6件(ユネスコのホームページにリンク)が登録されています。

表題『藤原道長は巨人か妖怪か(天皇制と帝王制の共存・鼎立を創った怪物か)』の通り、藤原兼家の五男として誕生した傑出の人物でした。

(記事投稿日:2021/11/21、最終更新日:2024/11/30、#427)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ 2』 「掛け替えのない地球上には、永久に残したい一場面が!」

2024-11-30 12:31:37 | 地球・火山・地震・津波

『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ 2、 掛け替えのない地球上には、永久に残したい風景が沢山あり! このライオンのオスの集合写真が不思議で・謎でしたが?

ライオンはサバンナや乾いた平原、茂みのある高地に生息する。 ネコ科の唯一群れで生活する。  群れはプライドと呼ばれ、ふつう血縁関係にある4~12頭のメスの成獣とその子供で構成される。 『オスは2歳半から3歳になると群れから追い出され、単独か一緒に育った他の若オスとグループになって行動する。』 こんなことも知らずに半世紀以上も過ごしてきた傘寿+3です。

 

百獣の王ライオンのオスは群れないはずが、並んでくつろぐ、この行儀の良さ!

ウエブ情報から引用

ライオン (獅、Panthera leo) は、哺乳綱(哺乳類の分類階級は哺乳綱) 食肉目ネコ科ヒョウ属に分類される食肉類。 別名はシシ(獅子)。 オスの体重は250kgを超えることもあり、ネコ科ではトラに次いで2番目に大きな種である。

 

ライオンが百獣の王と呼ばれるのは、中国語で獅子の"獅"という字には『あらゆる全ての獣』という意味があるからです。 また、ライオンの生態が自然の食物連鎖の中でも頂点にあることも伴い、百獣の王と呼ばれるようになった。. 国によってはライオンのことを「密林の王」や「獣の王」と呼ぶため、やはりどの国でもライオンと言えば「強者」というイメージがあります。

 

ここでエピソードです。 『猛獣もし戦わばー史上最強の動物は』というベストセラーが出たころに、ある記者が、上野動物園の初の女性園長『横井光子』氏に、尋ねたそうです。 

 

トラとライオンが戦ったらどちらが勝つでしょうか』と、園長の答えは『ライオンは草原に、トラ竹林または樹林には棲んでいますので戦うことはありません。 『場所がどこであっても、どちらかにはフェアな戦いはなりませんので、戦いません』というような答えであったように記憶しています。 素晴らしいアンサーなので今回、思い出しました。 (どこかの国のリーダーたち違って、物騒な武器を制限して戦ったりはしません。)

 

ライオンの現在の主な生息地はアフリカ大陸のサブサハラであり、インドのインドライオンは絶滅が危惧されている。 『更新世』末期、約1万年前までライオンはヒトに次いで広く分布する大型陸上哺乳類だった。 飼育個体は20年以上生きることもあるが、野生のライオンの寿命はより短く、特にオスが10年以上生きることは稀。 縄張りをめぐって他のオスと常に争うために傷を負い、それが寿命を大きく縮める原因となる。 自然界は厳しい上に、地球上には最強のヒト・人間がいます。・

(記事投稿日:2021/10/22、最終更新日:2024/11/30、#411)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『山は美しい 4(登りそこなった山は、傘寿には遠い、出羽三山)』 一昔若輩の山男は宗教色の強い山には登らず、なぜか避けていた―

2024-11-30 11:18:01 | 山・山岳

『山は美しい 4(登りそこなった山は、傘寿には遠い、出羽三山)』

『昔若輩の山男は宗教色の強い山には登らず、なぜか避けていた』

出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語で、かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。

山名

社名

祭神

本地仏

所在地

月山

月山神社

月読命(月山権現)

阿弥陀如来

鶴岡市・庄内町・西川町境

羽黒山

出羽神社

伊氐波神・稲倉魂命(羽黒権現)

正観世音菩薩

鶴岡市・庄内町境

湯殿山

湯殿山神社

大山祓神・大己貴命・少彦名命(湯殿山権現)

大日如来

鶴岡市・西川町境

 

羽黒山 (はぐろさん)は、 山形県 鶴岡市 にある 標高 414mの 山 。  出羽三山 の主峰である 月山 の北西山麓に位置する 丘陵 で、 独立峰 ではない。  修験道 を中心とした 山岳信仰 の山として知られる。  羽黒山には多くの石碑がみられ、その中には、羽黒山をかつて訪れた、 高浜虚子 や 野口雨情 の詩歌が刻まれたものもある。

 

羽黒山五重塔(国宝)

From Wikipedia, the free encyclopedia

Five tier pagoda at Mt. Haguro 

Three Mountains of Dewa

 

出羽三山 早春の月山

ウキペディア情報から引用

 

出羽三山 月山阿弥陀が原

ウェブ情報から引用

 

出羽三山 湯殿山

南から見た湯殿山 (左)、姥ヶ岳 (中央)、月山 (右端)

ウキペディア情報から引用

 

日本遺産 出羽三山生まれかわりの旅公式ウエブサイトより

自然と信仰が息づく「生まれかわりの旅」

 

ウェブ情報から引用 

山形県の中央に位置する出羽三山の雄大な自然を背景に生まれた羽黒修験道では、羽黒山は人々の現世利益を叶える現在の山、月山はその高く秀麗な姿から祖霊が鎮まる過去の山、湯殿山はお湯の湧き出る赤色の巨岩が新しい生命の誕生を表す未来の山と言われます。

三山を巡ることは、江戸時代に庶民の間で「生まれかわりの旅」として広がり、地域の人々に支えられながら、日本古来の、山の自然と信仰の結び付きを今に伝えています。 旅は俗世を表す門前町から始まり、随神門は神域へと誘う境界です。参道の石段の両側には天を覆うような杉並木が山頂まで続き、訪れる者に自然の霊気と自然への畏怖を感じさせ、心身を潤し明日への活力を与えてくれます。

 

「生まれかわりの旅」のはじまり

出羽三山は、山形県の中央にそびえる羽黒山(414m)・月山(1,984m)・湯殿山(1,504m)の総称であり、月山を主峰とし羽黒山と湯殿山が連なる優美な稜線を誇ります。

おおよそ1,400年前、崇峻天皇の御子の蜂子王子が開山したと言われる羽黒山は、羽黒修験道の行場であり中枢です。 修験道とは、自然信仰に仏教や密教が混じり生まれた日本独特の山岳信仰です。羽黒修験道の極意は、羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)と見立てることで、生きながら新たな魂として生まれかわることができるという巡礼は江戸時代に庶民の間で、現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」(羽黒修験道では「三関三渡の行」と言う。)となって広がりました。

 

羽黒山の秋の峰入り〜「生まれかわりの旅」の原点〜

はるか昔から人々は、山は神そのものであり神霊の宿る聖地、新たな生命を育む霊地と考えてきました。  山伏がその霊地である山に籠るということは、現世の自分を一度葬り母の胎内に宿ることを意味します。山伏たちは自らを死者とみなして白装束をまとい 「あの世」に見立てた山を駈け巡り、難行苦行をして穢れを払い、わが身に山の神霊をいわい込め新たな魂として再び「生」を得てこの世に出峰します。山伏の目的は、即身成仏(生きたまま悟りを開く)するための修行であり、山で得た霊力を用いて生きとし生けるものを救済することです。この擬死再生の儀礼を現在に残す唯一の修行と言われているのが羽黒修験の「秋の峰入り」です。

現在は、神仏分離政策により、出羽三山神社が行う明治以降神式に改められた羽黒派古修験道の「秋の峰入り」と、羽黒山修験本宗羽黒山荒澤寺で行う神仏分離以前の法具法灯を継承し神仏習合のまま十界修行を行う古来の「秋の峰入り」の二つが毎年行われています。

 

生まれかわりの旅:主なルート≫

 

 

ウェブ情報から引用

 

傘寿になりましたが、足だけは健康そのものです。 コロナ禍一過を待って

出羽三山を登ってみたいと思っています。(コロナ禍の3年は、傘寿+3には、重く伸し掛かっており、いまだ実現でき居りません。)

(記事投稿日:2021/07/30、最終更新日:2024/11/30、#364)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『写真は「一期一会」とか「TPO・テーピーオー」とか言うけど! 11』 『横浜港大さん橋の「くじらのせなか」は美しい木目色だった』『材料は、腐りとは無縁の「イペ」というウッドデッキ材料を』

2024-11-29 09:05:01 | 写真

『写真は「一期一会」とか「TPO・テーピーオー」とか言うけど! 11』

『横浜港大さん橋の「くじらのせなか」は美しい木目色だった』

『材料は、腐りとは無縁の「イペ」というウッドデッキ材料を』

『くじらのせなか』のネーミングが素晴らしいです。 これは波のうねりをイメージしていて、ターミナルとホールの2つの山型が水面に浮かぶくじらの背中に見えることから、屋上広場は「くじらのせなか」と名づけられています。

先ずは、この材料「イぺ」のこと、キバナノウゼンやイペーロッシヨは樹高45メートルにまでなる場合がある。 イペーロッシヨにはラバコールと呼ばれる成分が含まれており、防腐効果や防虫効果を発揮するとされている。 南米の原住民は、紫イペの樹皮の内側の層を削って煎じてラパチョと呼ばれる民間煎じ飲料として使用する。 解熱・消炎・妊娠中絶・健胃効果があるとされる。

木材としての特徴、年輪や杢目に乏しく、南方材らしく密に詰まった材質をしている。色は薄褐色から暗色の帯のものまでかなり幅広く、辺材は黄白色である。 腐りにくい反面加工しづらく、ドリルで穴あけしないとビス打ちも困難なほど硬い。 水につけても腐りにくいが、乾燥すると割れたり狂いが出やすい。 シロアリや湿気に強い。 気乾比重は0.91-1.20であり、水に沈むハードウッドである。

 

改修工事中の大さん橋、手前は横浜赤レンガ倉庫(2002年2月)

ウキペデイア情報から引用

 

改修工事後の木目色(2002年2月)

ウエブ情報から抜粋

見つかりました、ほぼ同じ時期に撮った写真①

見つかりました、ほぼ同じ時期に撮った写真②

見つかりました、ほぼ同じ時期に撮った写真③

傘寿ですが,ずーっと、心残りになっていること、美しい木目色の『くじらの せなか』を撮りそこなったことです。  雨に濡れる黒色の『くじらのせなか』 は、渋いが、日本人の自分には、ずーっと『くじらのせなか』は美しい木目色 で、居て欲しかった。 

King・Jack・Queen の表示は鮮やか、それでも美しい木目色に未練が。

起伏したウッドデッキが広がるエントランス付近(撮影:2008/08/24)

 

起伏したウッドデッキが広がるエントランス付近(撮影:2008/08/24)

写真は『「一期一会」とか「TPO・テーピーオー」とか言うけど』まさに、その通りです。 『くじらのせなか』が、まだ茶色の木目色だったころには、これほど真っ黒に、変色するとは想像もできませんでした。 茶色の木目色でたくさん撮っておくべきでした。 いつものことで『後の祭り』でした。

(記事投稿日:2018/04/29、最終更新日:2024/11/29、#016)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『人類の傑作が、エジプトに、ローマに、ギリシャに、出雲に!』 「四大傑作中で、大ピラミッドが、古さ・理論と技術・複合施設規模で突出」

2024-11-28 09:53:08 | 歴史・世界・古代

人類の傑作が、エジプトに、ローマに、ギリシャに、出雲に

『四大傑作中、大ピラミッドが、古さ・理論と技術・複合施設規模で突出

 

  • 4500年前の大ピラミッド・石造建築の理論と技術・太陽神信仰
  • 2000年前のポン・デュ・ガールローマ水道橋・飲料水と風呂
  • 1860年前のギリシャヘロディス・アッティコス音楽堂・音楽演劇
  • 1310年前の出雲大社本殿・高さ16丈(約48ⅿ)木造建築、国譲りと交換条件

 

ピラミッドは、階段ピラミッド→屈折ピラミッド→真正ピラミッドに、発展・分類され、最も完成度の高いのは、ギザの三大ピラミッドです。

 

4500年前の大ピラミッドの重量軽減の間

ウエブ情報から引用

 大ピラミッド断面図
1.正規の入口 2.盗掘口 3.下降通路 4.下降通路 5.地下室 6.上昇通路 7.女王の間と通気孔 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間と通気孔 11.竪孔

大ピラミッドの内部は、多くのピラミッドの中でも特異な構造をしている。 この構造は当初からの計画であったか、あるいは幾度も設計変更が加えられたのか、諸説あるが結論は出ていない。

 

このような構造は、100基以上のピラミッド群にも、先例がなく、その後でも極めて稀である。 王の間の床から重量軽減の間の最上部までの総高さは21mを超える。 最近のホテルには、特にシンガポールのホテルには巨大吹き抜けが多いが、大ピラミッドの中の空間構造に驚きます。

 

「王の間」は東西 10.5 m、南北 5.2 m、高さ 5.8 m の巨大な空間であるが、その上部にはさらに高さ 15 m 以上もある「重量軽減の間」と呼ばれる構造がある。 「重量軽減の間」は上下 5 層に別れ、「王の間」の天井と層間は 25 ton から 80 ton もあると言われている巨大な花崗岩を並べて形作られている。

 

最上段は切妻形状になっている。 この「重量軽減の間」は何の為に作られたのだろうか?一般には 「王の間」にかかる上からの石の圧力を周りに逃がすためという説明がされているが、この様な多層構造がその為に必要なのだろうか? と名は体を表しているか不明です。 大ピラミッドが崩れなかった理由は不明です。 ウエブ情報にあった解説が参考になりますので引用します。

 

『古来より人類に数々の謎を投げかけてきたピラミッド。 一見崩れやすいと思われがちなピラミッドだが、実は大地震にもビクともしない耐震技術を備えている。

同じサイズの石を積む方が簡単なのになぜわざわざ石を不規則なサイズしたのか。 その理由として、規格が同じ石を整然と積むより、不規則な石を複雑に噛み合わせて積んだ方が、耐震性が高まるからだといわれているのだ。

 

ギザの大ピラミッドは過去3度の大地震に襲われている。 13世紀に起きた大地震では、カイロは壊滅的被害を受けたが、ピラミッドはビクともしなかった。石の建造物は崩れやすいと考えられているが、ピラミッドは全くそれに当てはまらない。(この地震で、キャップストーン(ピラミディオン)、化粧石・化粧板も落下し、その後で、盗難や建築材料に転用されたのでしょうか、地震がなければ、昔の姿・風景が鑑賞できたのではと、残念です。)

 

実はギザの大ピラミッドの下には、基礎としてサッカー競技場6面分に相当する広さにわたって、1つ7トンの石灰岩がびっしりと敷き詰められており、それも高い耐震性に寄与したと考えられる。 基礎の部分に注目している研究者は少ないが、これらの巨石は800km先から切り出し、運ばれてきたとされ、途方もない難事業であったと容易に想像がつく。

 

大地震に遭っても、内部の部屋や通路は損壊せず、およそ4600年の月日を経て現代に至っても、東西南北に相対した側面が極めて正確に方向を保っている。これらのことからも、その耐震性の高さは窺い知れる。 建設者はそこまで見越して設計していたのだろう。』(ピラミッド建設の歴史は1000年ほど続きましたが、最も完成度の高い「ギザの大ピラミッド」は、前半の半ば、初期に建設されています。)

 

4500年前のカフカー王のピラミッドの頂上付近の化粧石

化粧石が貼り付け(積み上げ)られ、その頂点に載せられたのがキャップストーン(ピラミディオン)です。

ウエブ情報から引用

 

4500年前のメンカウラー王のピラミッドの下部に残る化粧石

ウエブ情報から引用

 最後の石材であるキャップストーン(ピラミディオン)を載せる作業は最も困難な作業であったと考えられる。 キャップストーンは梃子で据え付けられたと考えられるが、レーナ―はその作業スペースを頂部周囲に木製の足場を組んで作ったと推測している。 すべての石を積みおえて傾斜路を外していくと同時に、上部から化粧材の表面を勾配なりに仕上げていく。

 

4500年前のクフ王ピラミッドの俯瞰図

ウエブ情報から引用

このトップに重さ10トン以上の、磨き上げ完成した『キャップストーン(ピラミディオン)』の設置はどうやったのか全く想像もできません。 平均2.6トンのキューブ石材の傾斜路での持ち上げも中間の高さまでで、それ以上高さはついては不明です。

 

2000年前のポン・デュ・ガールローマ水道橋

ウエブ情報から引用

紀元前に始まり、地中海沿岸に広大な領土を持った古代ローマ帝国。 道路・神殿・円形闘技場・大浴場のほか、水道の発達により水洗式の公共トイレも存在した。 平和を長く保つ方法は、ローマ帝国のどの都でも変わらない快適な暮らしを提供すること。 そのために何より大切なのは、きれいな水の確保だったが、当時のローマ都市のひとつ・ネマウススでは人口増加のため、公共施設で使用する水が不足していた。 そこで、この水不足を解消する理想の泉(ユゼスの水源)を山間部で見つけ出す。 しかし街まで水を引くには50kmもの水路が必要だった

 

素晴らしい保存状態を保っているのがこの水道橋。 水不足のローマを救うために、紀元前19年、ガルドン川の谷をまたぎ、かつて約50Km離れたユゼスからニームへ水を運ぶ導水路の一部として造られた。 橋の長さは275m、高さ約48.77m。

 

  • 下層は6つのアーチから成り、長さ 142 m 、幅 6 m 、高さ 22 m である。
  • 中層は11のアーチから成り、長さ 242 m 、幅 4 m 、高さ 20 m である。
  • 導水路の上層は35のアーチから成り、長さ 275 m 、幅 3 m 、高さ 7 m である。

 

ローマ信奉者はこう言っていますが、私見ですが、エジプトとギリシャを引き合いに出すのは、考えてしまいます。

『古代の土木工学による偉業の中でも,ローマの水道は,特に際立っています。古代ローマの総督で水道管理官であったセクストゥス・ユリウス・フロンティヌス(西暦35年‐103年ごろ)は,こう書きました。 「水を非常に多くの場所に供給するのに必要不可欠な,これほど広範囲にわたる構造物を,その気があるなら,無駄なピラミッドや,有名ながらも無用なギリシャの芸術作品と比べてみよ」。』と。

 

1860年前のヘロディス・アッティコス音楽堂

ウエブ情報から引用

コンサートやギリシャ悲劇の公演会場として使用されている屋外円形音楽堂。古代ローマの統治機関である元老院の議員ヘロディス・アッティコスが建設。  160年に亡くなった妻アスパシア・アニア・レギラを偲ぶ記念碑としての想いが込められている。

 

267年にゲルマン人の放浪部族により破壊されるなど激動の時代を経て1950年に再建されました。 ペンテリコン山の大理石で作られた32列の観客席に5,000人を収容、かつては木製の屋根で覆われ、舞台裏の3階建ての建物にアーチ型の4つの出入り口を設置。正面入り口の壁面には彫刻を飾るための9つの窪みが設けられている。

 

ローマの円形闘技場(コロッセウム)の建設目的との『差』に驚きます。

 

1310年前の出雲大社本殿・高さ16丈(約48ⅿ)木造建築

ウエブ情報から引用

歴史書『古事記』にも、出雲大社の成り立ちとして巨大神殿の逸話が出てくる。出雲大社に祀られる大國主神(おおくにぬしのかみ)は、国土の開拓で活躍した〝国づくりの神〟として登場する。 だがある時、アマテラスオオミカミの命を受けたタケミカヅチ(茨城県・鹿島神宮に祀られる)から「国を譲ってほしい」と交渉されると、大國主神は了承する代わりに一つの条件を出した。 それは「天皇と同じ立派な宮殿をつくってほしい」ということ。 それができればそこに静かに鎮まると。 具体的には「宮殿の柱を太く立て、立派な千木を差し上げてほしい」と言ったという。 それこそが出雲大社である。 となると、この記述からも巨大な柱との繋がりが見えてくる。 時代を経て、出雲大社は今の大きさとなったが、かつては遥かに巨大だったのだろう。

 

「縁結び」で知られる出雲大社、その社殿は定期的に遷宮が行われるが、はるか昔は想像を絶する巨大神殿だったのかもしれない。 それを示唆するのが、平成12年から13年にかけて出雲大社の境内から発見された巨大な柱。 3本1組となったスギの大木が3箇所で発見されたのだ。それぞれの木は直径が1・4mほどで、3本括ると直径約3mにも及ぶ。 この巨木は3本を束ねて一柱とし、かつての出雲大社の棟を支えていた可能性が高い。 

 

大社には古代の巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」が伝わるが、そこに描かれた柱と類似。出雲大社の本殿は高さ16丈(約48m)という社伝があり、その一部とも考えられる。 発見された柱は「心御柱(しんのみはしら)」や「宇豆柱(うずばしら)」で、鎌倉時代のものと推定され、この時代までの出雲大社が巨大だったことの証明となっている。

邪馬台国・出雲王国・大和朝廷の関係・変遷について、益々、興味がわいてきました。

 (記事投稿日2021/11/20、 最終更新日:2024/11/28、 #425)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする