知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『スーパースター、ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優 1』ーブルース・リーは、ノラ・ミャオ、ベティ・ティン・ペイどちらも愛したー

2022-07-29 06:28:56 | 映画

『スーパースター、ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優  1』

『ブルース・リーは、ノラ・ミャオ(苗可秀)、ベティ・ティン・ペイ(丁珮)どちらも愛した』

 

『なんでも』ランキング付けをするご時世です。 武術白書どん底から世界大会優勝に至った武術家―の記事を見つけました。 今回のテーマのブルース・リーが11に、木村政彦が12とありました。 先ずは自分が木村政彦を最強と信じている理由の『記録とエピソード』です。

記録、木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗という成績で、あったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

エピソード、『木村政彦の指導・練習稽古は、厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも、講道館にも練習、相手がいなくなり脱臼者も続出するので、警視庁、講道館でもこの大外刈りは禁止された』と。  この大外刈りを使えない状況で、まともな実践的練習はできるのでしょうか、素人は考えてしまいます。 木村政彦は、身長170センチ、体重85キロと中肉中背。

ブルース・リーは、木村政彦を格闘技界から引退に追い込んだ力道山(格闘家・興行主で大成功)に似て、幅広く実績(格闘家、俳優、脚本家、映画プロデューサー)を残したスーパースターでした。

 

ブルース・リー(中国語李小龍、出生名李振藩、英語: Bruce Lee 19401127 - 1973720日)は、香港の中国武術家、武道家、俳優、脚本家、映画プロデューサーです。 截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られている。 ブルース・リーは身長163172cm、体重5762kg程度と諸説あり、本人も映画会社も公表を避けた感があります。(自分の若いころの、身長・体重は、ブルース・リーの両方の上限値と、同じで親近感が持てた。) ブルース・リーは、モテモテのムービースターだけではなく、格闘技家でもあったこと 華やかな話題や、痛快な話題を残して、32歳で夭逝しています。 

 

先ずは、ブルース・リーの微笑ましいエピソードです。香港で人気絶頂であったブルース・リーの豪邸は、高い塀に囲まれて、電子防犯装置が据え付けられ、さらに、ドーベルマンを二頭で護られていました。 子供たちの質問は『世界一の武術家、武道家なのになぜ、このようなガードが必要?』と質問、当時の雑誌には、ブルース・リーの回答は載っていませんでした。

 

木村政彦ですが、ブルース・リーの華やかさとは、随分違った生涯をおくった柔道家・格闘家です。 木村政彦は愛妻家で76年の生涯を終わっています。 奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入(当時は個人的に輸入)するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへ、 戦争を挟んで13連勝したにも拘らず日本柔道界からも去りました。

この二人の『強さ』比較は、今後の楽しみな課題です。

さて本題の『ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優』に入ります。 実は、今回、ブルース・リーの華やかな話題を思い出したと同時に、『ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優』について、一部の自分自身の誤解を解こうと思いついたからです。 昔、香港に駐在していた頃に、よく先輩と香港ヒルトンホテルロビーの『ドラゴンボートバー』で週23回、ハッピーアワーの『ブランデーの水割り(香港ではアメリカンと呼ばれ非常識ではなかった)』を楽しんでおりました。 そんな時、ロビーに入ってきた女優が今回の『ブルース・リーの愛した女優・ベティ・ティン・ペイ(丁珮)』でした。 先輩曰く『ブルース・リーは彼女のマンションで亡くなった・・・』と、この香港の噂スズメの話(表現はもっとタブロイド判の記事まがいであった)をまた聞きして以来、ベティ・ティン・ペイ(丁珮)の印象は、『ブルース・リーが惚れた女優・ノラ・ミャオ(苗可秀)』とは正反対の肉体派女優を想像していました。

 ここで『ブルース・リーが惚れた女優』のウエブ情報です。

ノラ・ミャオ(苗可秀、Nora Miao 、1952年28 - )は、香港出身の女優・司会者。本名は陳詠嫻。 芸名の由来は、映画会社の社長・金康が「苗が成長し、秀でる 苗可秀」と名付けたことから。 苗は所属していたゴールデンハーベス・ハーベストの「ハーベスト」を、中国語に訳した「芽」から肖っている。

ドラゴンシリーズの第一作1971年『ドラゴン危機一髪』の相手役の女優:マリア・イーだが、この映画に、ノラ・ミャオがチョイ役(道端の屋台でジュースを売る)で出た。

第二作1972年『ドラゴン怒りの鉄拳』の相手役の女優:ノラ・ミャオ(キスシーンがあったがこの作品以降はなし)

 この作品のノラ・ミャオ

 ウエブ情報(ノラ・ミャオの画像)から

第三作1972年『ドラゴンへの道』の相手役の女優:ノラ・ミャオ

第四作1973年『燃えよドラゴン』共演女優なし。 実質的には最後の映画作品。

ノラ・ミャオは、1974年にゴールデンハーベストから独立し、フリーランスの女優として香港・台湾の双方の映画・テレビドラマに出演し、1970年代後半には司会業にも進出した。

司会業当時のノラ・ミャオ

 エブ情報(ノラ・ミャオの画像)から

さて、香港の噂ツバメの噂で誤解していた、『ブルース・リーが愛した女優、ベティ・ティン・ペイ』ウエブ情報です

ベティ・ティン・ペイ(丁珮)ブルース・リーが死の直前に関わった女優。

1945年生まれ。 台湾の裕福な家庭に育ち、国立芸術専門学校を経て女優となる。 しかしスターとして成功する直前、愛人と噂されていたブルース・リー(李小龍)が彼女のマンションで倒れ、そのまま死去した事により、スキャンダル女優として世間に名前をとどろかせてしまった。 事件後、非難が集中したため一時期間身を隠していたが、『実録ブルース・リーの死』という彼女原案の作品に、ベティ本人の役で出演。 この作品が物議をかもし、その結果として香港映画界にいられなくなり、台湾に戻る。
台湾で女優として活動し、80年代前半まで女優業は続けたが、結局はスキャンダル女優のイメージは拭えず、引退して仏門に入った。

 ウエブ情報(ベティ・ティン・ペイの画像)の引用

その後の『ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優』二人は、各々の人生を過ごしております。情報が今ほど氾濫していなかった半世紀も昔でさえ、香港の噂ツバメを過信していました。 これからはネット情報には十分吟味していきたいと思っています。

香港駐在中は、広東語の勉強は言い訳で、当時のスーパーアクションスター、ブルース・リー(李小龍)の映画は、よく見ました。 字幕スーパーは北京語・国語ですので、語学研修には最高でした。 

 (記事投稿日:2019/09/15、最終更新日2024/08/09、 #118)

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『世界の寺院・神殿・教会・墓所 4(天子が事前に作る寿陵)』 『昔から馴染みの古墳名「仁徳天皇陵」には、別の名称が沢山!』

2022-07-27 09:29:24 | 寺院・仏閣・神社・お社

『世界の寺院・神殿・教会・墓所 4(天子が事前に作る寿陵)』

『昔から馴染みの古墳名「仁徳天皇陵」には、別の名称が沢山!』 

寿陵とは、中国の皇帝が生前にあらかじめ造営する陵墓。 驪山 (りざん)の始皇陵が最大だが,渭水北方の前漢の亭陵,洛陽付近の後漢の帝陵,醴泉 (れいせん)の唐の太宗の昭陵も有名です。 一般臣下の場合は,生壙・寿域・寿穴・寿堂などと呼ぶようです。 この『寿陵』について調べていたら、仁徳天皇について貴重な情報を見つけました。 

今後の日本の古代史、邪馬台国・出雲王国・大和王朝、三王朝説・四王朝説、漢字圏・漢字文化圏・大和言葉等々、興味が尽きることはありません。 

先ずは、関連情報です。 

  • 世界三大墳墓の大きさの比較を見ると『古代の日本は、日本人は凄かった』としみじみと思います。 小さな島国で、当時の人口で、この巨大な墳墓が造営できたか興味津々です。 古代の人口は、西暦200年頃は約60万人、西暦725年頃は約450万人と推定され、稲作で人口が急増した時代。

 堺市ホームページから引用

  • 『倭の五王』(中国大陸の歴史書には当時の倭国にかんする記録が(少なくとも『記紀』よりは信頼できる形で)残されています。 日本も中国も漢字圏・漢字文化圏にも関わらず、大王(天皇)の名前さえ異なる。 因みに『天皇』と呼ばれ始めたのは、西暦608年に、聖徳太子が隋(今の中国)に送った国書の中に「東の天皇、つつしみて、西の皇帝にもうす」という記述があり、これが「天皇」という称号が使われるようになった始まりだとされています。ウエブ情報から引用 

ここからは、今後の調査のため備忘録にした、ウエブ情報の抜粋・引用の長文ですのでご放念ください。 

仁徳天皇陵古墳のデータ、古墳の名前多数

大仙古墳、大仙陵、大山古墳、大山陵、大千陵、大川陵、仁徳陵古墳、仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵などがあります。これらの呼称のほかに、仁徳御陵などの「御」、伝仁徳天皇陵などの「伝」をつける場合があります。 

大雀(オホサザキ)(仁徳天皇)

大雀は葛城(かづらき)の曾都毘古(ソツビコ『大和言葉が先にあり、これに漢字を当てた』)の子で、西暦365年に誕生しました。 つまり、記紀で父親とされている品陀和気(ホムダワケ、応神2)と、じつは同じ年齢だったのです。 だから西暦381年という、二人がともに17歳のときに、大雀が髪長比売(かみながひめ)(泉長比売)を横取りする事件が起きたわけです。

『余談・脱線です。

628年に書かれた『隋書』の「倭国伝」に、「(倭国に)文字はなく、ただ木を刻んだ(刻木)、縄を結んで(結繩文字代わりとした。 仏法を敬い、百済に仏典を求めて始めて文字を得た」と書かれていることから、「日本には仏教渡来以前には文字がなかった」などと言われています。

「刻木(こくぼく)」というのは、漢字の始祖とされたチャイナの三皇時代の倉頡(そうきつ)が考案した「書契(しょけい)」のことで、書契とは「木に文字を刻む」という意味の言葉です。
「結繩(けつじょう)」は、縄目を結んだ記号のことで、ひらたくいえば「縄文文字」ということになります。』

その事件というのは、わざわざ日向から、天皇の品陀和気のためにと送られてきた女性を、なんと大雀は自分が欲しいと言いだし、その獲得に成功してしまうというものです。 ときの国王を相手にまわして、大雀という青年にそんな大胆なことができた理由は、そのころまでに父親である葛城の曾都毘古の勢力が、強大なものに成長していたからなのです。

ちなみに葛城の曾都毘古は、魏志倭人伝に記録された一大率(イタイソツ(女王国の官人)、一高岩狭津)の子孫です。 すでに西暦247年に、壱岐の一大国の支配者だった一大率は、その航海力を利用して、奴(ナ)国より北の国々を検察してまわるという役割をはたしていました。 その子孫である曾都毘古も、朝鮮半島を攻撃したことが記録されています。 

したがって大雀は、邪馬台国にちょくせつの血のつながりを持たない、最初の国王だったのです。 だから、現実に王位につくまでの経過は順調なものではなく、何年もの歳月を要しているのです。 

もともと、前国王の品陀和気(ホムダワケ『大和言葉が先にあり。これに漢字を当てた』)(応神2)は、宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)を太子としました。 その二人は親子とされていますが、じつは兄弟でした。 学問に秀でた宇遅能和紀郎子は、品陀和気の治世中からすでに、国政に深く関与しています。 西暦389年には、高麗王からの外交文書を読んで、その内容に怒り、破り捨てるということもしています。 そのとき、兄にあたる品陀和気でさえ、まだ25歳という若さだったのです。 

西暦394年に、品陀和気が30歳で逝去しましたが、太子の宇遅能和紀郎子はただちに即位することができませんでした。 なぜなら、そのときまでに倭国の最高実力者になっていた大雀が、それに協力しようとしてくれないからです。 やむを得ず宇遅能和紀郎子は、国王の座を大雀に譲ることにします。  

ところが、その申し出も、大雀に固辞されてしまいます。 大雀の血統は皇統にはありませんから、皇統にある太子をさしおいて、事実上、王位を奪い取るという形になることは、大雀としては絶対に避けたいわけです。 記紀では、二人が王位を譲り合う「美談」としてまとめられていますが、実際はそのようなものではなく、かなり陰湿だったのです。

その二人の確執がそのように続いたため、倭国に国王がいないという異常事態、つまり空位期間は約6年間にも及んだようです。 太子でありながら、自分ではどうすることもできないという状況に追いつめられた宇遅能和紀郎子は、ついに自殺してしまいます。 そこでようやく大雀は、国王の座を獲得することに成功したのです。

大雀という名前のササキの部分は「三狭城(サソキ)」を意味し、かつての載斯(サイシ、三岩州)国を指すものです。 つまり、大分県の旧・海部(あま)郡が、大雀の領地だったのです。 中国の文献に記録された倭王の「賛」や「讃」は大雀のことですが、その漢字はササキ(三狭城)の「三(サン)」の音に合わせて選ばれたものです。

倭王の讃は、宋にあてた上表文のなかで、父祖が東奔西走して、倭国の平定に貢献したことを述べています。 大雀の父親は葛城の曾都毘古で、その祖先は一大率(女王国の官人)だったのですから、その上表文の内容は嘘でも誇張でもないのです。

大雀は17歳のときに髪長比売を妃としたのですが、二人のあいだには子供がありませんでした。そこで大雀は、宇遅能和紀郎子の遺子である伊邪本和気(イザホワケ)(履中天皇)を養子にし、太子とします。 そして、その母親だった八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)(じつは、ハタノワキイラツメ)を、のちには新しい妃として迎えることになります。

ただし記紀では、このような事実はすべて伏せられています。 そこでは宇遅能和紀郎子に妃がいたという記録はなく、八田若郎女は宇遅能和紀郎子の妹とされています。これらの系譜の問題については、ほかの場所にまとめることにする予定です。

このようにして大雀はみずから、次期国王の座をふたたび、皇統に返すということをしたのです。 じつは、その行為を称える意味で、大雀の中国風の諡号を考えた人々は、「仁徳」という字を選んだのです。 ひろく信じられているように、しばらく租税を集めなかったので「仁徳の人」と称えられた、というわけではけっしてありません。

大雀が逝去したのは西暦427年のことで、そのときの年齢は63歳でした。 古事記では、大雀の逝去時の年齢を83歳としていますが、それは弟である水歯別(ミヅハワケ)(反正天皇)を、その子とするための数字の操作です。 それに応じて日本書紀でも、その治世の67年(426年)から87年(427年)までを「二十余年、事無し」として、治世年の水増しをはかっています。

もしも、「二十余年、事無し」ということが事実なら、その間のことは、いまのわれわれにはまったく分からないことになってしまうわけですが、その心配はいりません。 じつは、自分の死期が近いことを悟った大雀は、426年の旧暦10月に陵地を選定し、翌年の旧暦1月に逝去したのです。 二十年も前から自分のための陵墓の準備をしていたわけではないので、誤解のないように。 

今から1,700年程前の3世紀から7世紀の約400年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓を造りました。 今、この墓を古墳とよび、造っていた時代を古墳時代とよんでいます。 全国に16万基以上はあるといわれる古墳のなかで、日本最大の古墳が堺市にある仁徳天皇陵古墳です。

墳丘の大きさ486メートルと、エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられる世界に誇る文化遺産です。

古墳の陵域は濠を含めて約47万平方メートルと、甲子園球場が12個も入る広さです。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれています。 

古墳を上空から見ると、丸と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼んで親しんできました。 

仁徳天皇陵古墳は、東アジア世界に進出した倭の五王の中の一人を葬った墓といわれ、古代史を解明する上で重要な文化遺産です。 現在は、北の反正天皇陵古墳と南の履中天皇陵古墳とともに、百舌鳥耳原三陵として宮内庁が管理しているため中に入ることはできません。 それでも濠の外からその巨大さは十分に実感して頂くことができます。 また、堺市博物館には、仁徳天皇陵古墳に関する資料を展示しています。

仁徳天皇について、『古事記』、『日本書紀』で第16代天皇と伝えられ(江戸時代後期から明治時代には祖母にあたる神功皇后が第15代天皇に即位したとして第17代天皇となっている場合があります。)、諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鶴鷯(おおさざき)で、仁徳は8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死後に送る称号〉)です。 

『日本書紀』では亡くなった年齢は書いていませんが、在位87年で没したと記されています。また『古事記』では83歳で亡くなったと記されています。 一説によると、神功57年(257年)に誕生したといわれ、仁徳元年(313年)1月3日に即位し、仁徳87年(399年)に崩御したので、単純計算で 143歳の長寿で亡くなったことになります。

父は応神天皇(おうじんてんのう)、母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を助け、異母兄の大山守(おおやまもり)皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあいますが、皇太子の自殺に伴い即位します。 都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めて、葛城磐之媛(かずらきのいわのひめ)を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇(第17-18-19代と兄弟で継承)をもうけます。

民家から炊事の煙がたちのぼらないのを見て、人々が困っているのを察し課役を三年間免除したり、難波の堀江・感玖(こむく)大溝・茨田(まんだ)堤・横見堤などの築造や茨田屯倉(まんだのみやけ)の設置などを行ったと記されています。このような善政を行ったので、古来より聖帝(ひじりのみかど)とたたえられ、理想的な天皇とされてきています。 

同時代の中国の資料『宋書』には「倭の五王」が記され、その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃」ではないかという考えがあります。仁徳天皇がこの「讃」王なら、永初2年(421年)に宋の南朝に朝貢して安東将軍・倭国王にはじめて任命され、邪馬台国の時代(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復し、それを柱として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになります。また、その他に「倭の五王」の「珍(ちん)」とする考えもあります。 

「讃(さん)」王は、宋に使節を派遣した永初2年(421年)を中心に活躍し、元嘉15年(438年)には没したとみられ、単純計算で在位年数は17年ないし25年前後です。また、「珍(ちん)」王は、元嘉15年(438年)の近い年に即位し、元嘉20年(443年)には退位していて、同じく在位年数は6年前後となります。いずれにしても、『古事記』や『日本書紀』などの日本の記録とは合わないのですが、仁徳天皇を考えるうえでは重要な資料になります。 

「倭の五王」の陵は、どの古墳が候補としてあげられるでしょうか。「倭の五王」が中国と交渉を持った時代、つまり西暦413年前後から西暦502年頃の5世紀前半から6世紀初頭に造られたと考えられている畿内の古墳を、墳丘規模順に列挙すると、仁徳天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-履中天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲姫命陵古墳となります。

これを時期順に並び替えると、仲姫命陵古墳-履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳となります。しかし、他にもいろいろな組み合わせが考えられますが、「倭の五王」最後の「武(ぶ)」王が雄略天皇であることは確実で、その陵は仲哀天皇陵古墳ではないかという説が強く、これらを考慮すると「倭の五王」の陵は、履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲哀天皇陵古墳との説が一番有力なようです。

ともあれ、「倭の五王」の時代には、日本列島から大陸に文物、特に朝鮮半島に産する鉄を求めて、さかんに海外進出した時期で、仁徳天皇はその時期に活躍した大王の一人かもしれません。

(記事投稿日:2022/07/27、#557

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『大ピラミッドのこと 3(ピラミッド群はナイル川の堤防としての構築?)』ー大ピラミッドの底面は海抜59.6m、ナイル川平均水位より約47.0m高いー 

2022-07-26 19:07:40 | 歴史・世界・古代

 『大ピラミッドのこと 3(ピラミッド群はナイル川の堤防としての構築?)』 

     『大ピラミッドの底面は海抜59.6m、ナイル川平均水位より約47.0m高い』

 『大ピラミッドのこと 2(謎が深まり・夢が残った 2)』に書きましたピラミッドの謎の中の謎、「なぜ建設されたか・Why」について、竹村公太郎氏の「ナイル川西岸だけのピラミッド」はギザのピラミッド3基だけではなく80基、未発見を含めれば約100基。 東岸にはゼロ。 2008年に最新の1基が発見された。 これもナイル川の西岸にあった。この「西岸」への集中は、宗教的理由、西は死、東は生に、あるとも言われる。

 

ベストセラー3部作「日本史の謎は『地形』で解ける」の著者、竹村氏の新説の検証を考えた時にすぐに思ったことは;

①  ナイル川水系の狭い帯状の緑と、

②  その東西両側の高地(東)・台地(西)

③  大きな・綺麗な扇状地(デルタ)と、

④  ナイル川支流が注ぐ海抜マイナス45mのカルーン湖と周辺緑地(写真中

   中央の横向きハート形)でした。

このような地形から、何故、「このたびの新説」になったのか検証です。

ピラミッド群のナイル川西岸の配列にこだわった視覚デザイン学の高津道昭氏は、「ピラミッドはテトラポット」であったと推理し、「ピラミッドはなぜつくられたか」(新潮選書)を22年も前の19926に著した。

この二人の説は、ナイル川西岸の砂は、ナイル川によって削られ、ナイル川は西へ西へとリビア砂漠に逃げていき、エジプトの穀倉であるナイル川デルタの維持・拡大ができなくなるので、高津氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」と、竹村氏の新説「ピラミッドによる、からみ工法での堤防構築説」となった。

ナイル川を挟んで、ギザ高台の対面、東側のカイロ市の海抜は1560m。対して、西側のギザのピラミッド群は、海抜4963mのギザ台地に立地。

大ピラミッドの底面は海抜59.6m、底面はナイル川平均水位より約47.0m高い。

ナイル川の、平均水位は12.2m、最高水位は20.6m、平常時の川幅約1km、増水時は川幅約10km

更に、Wikipediaによれば、ナイル川の東はアフリカ大地溝帯の縁の山脈に、よって紅海と遮られており、南東にはガララアルババリーヤ山脈などが際立つ。

ナイル川の「西側」も台地であり、ナイル川が流路を変える可能性は低い

カイロ市で水の恵みを受けているのは南北に連なる1520kmの細長い地域(ナイル川水系)だけで、カイロはナイル川の西側の台地と東側の高地が終わる扇状地の扇頂に相当する位置に広がる。 

カイロ自体の海抜は1560mだが、南東の約2km先には、海抜150mのモタッカムモ丘陵がある。

現在のナイル川の本流は、以前は帯状の平野の西側にあったが、それが東側の高地寄りあった支流に移った。 帯状の平野の西側には、以前の本流が支流として残っている。 ナイル川は帯状の平野の中で移動を繰り返してきた。

以上からナイル川の流れはギザ台地のピラミッド群に届かず「なぜ建設されたか・Why」に対する説高津氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」と、竹村氏の「ピラミッドのからみ工法での堤防構築説」では説明できない。

ギザ台地のピラミッド群を除くその他の西岸のピラミッド群は、どんな立地条件(高度)であるか、これで「なぜ建設されたか・Why」の新説の検証が可能になる。  

対象は、ナイル川の支流が流れ込んでいる、ナイル川西方の海抜マイナス45mのカルーン湖付近まで。

このカルーン湖には、ナイル川に並行するナイル川の支流が流れ込んでおり、このナイル川沿い西側台地の切れ目が海抜2627mと低い。

ナイル川西進の心配はこの切れ目だけ 砂漠の中の海抜マイナス45mのカルーン湖がなぜ塩水湖にならないのか興味は尽きない。

関連情報として「縄文海進(海面上昇)」があるが、新説検証への影響は小さいと判断した。

ピラミッドが建設された時代、その当時の地球の気温は現在より高かった。そのため、地球の海水は温められて、体積を膨張させていた。 陸上の氷河も溶けて海に流れ出していた。 その結果、地球上の海面は現在より約5m高い程度であった。この現象は日本では「縄文海進」と呼ばれている。

ギザ台地のピラミッド群を除くその他の西岸のピラミッド群は、どんな立地条件(高度)であったか。 Google Maps 標高表示(V3 APi版)で調査結果

     Pyramid of Djoser  海抜59m

             Red Pyramid         海抜65m

     Bent Pyramid          海抜57m

             Pyramid of Saqarah  海抜56m

その他、残りの70基以上のピラミッドの立地条件調査は,、今後の課題として以上の調査結果からピラミッドは「なぜ建設されたか・Why」への自分の結論は「新説」とは異なり「宗教儀式神殿説」で、“変わらず”、でした

 (記事投稿日:2014/10/13、最終更新日2022/07/26、#074)

 

 

 

 

 

 

 

 

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『大ピラミッドのこと 12(ギザの石灰岩台地の上の見事な風景 2葉)』 『高津道昭氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」』

2022-07-24 14:30:10 | 歴史・世界・古代

『大ピラミッドのこと 12(ギザの石灰岩台地の上の見事な風景 2葉)

『高津道昭氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」』

『高村公太郎氏の「ピラミッドのからみ工法による霞堤防構築説」』 

100基近くのピラミッド群のテトラポット説は、高津道昭氏著書の『ピラミッドはなぜつくられたか (新潮選書)』から。 

ウエブ情報から引用 

ナイル川のピラミッド群は「ピラミッドのからみ工法にとる霞堤(不連続堤防)説」は、竹村公太郎氏著『日本文明の謎を解く 21世紀を考えるヒント』から。

 ウエブ情報から引用 

竹村公太郎氏の説、「ナイル川西岸だけのピラミッド」は、巨大ピラミッド3基だけではなく80基、未発見を含めれば、約100基。 東岸にはゼロ。  2008年に最新の1基が発見された。 これもナイル川の西岸にあった。 この配列にこだわった視覚デザイン学の高津道昭氏は、「ピラミッドはテトラポット」であったと推理し、「ピラミッドはなぜつくられたか」(新潮選書)を出版した。

それでは、なぜ、ナイル川の左岸、つまり西岸だけにピラミッドが建設されたかナイル川の右岸、つまり東岸には、山岳地系が連続しており、ナイル川東岸の流路は安定している。一方、ナイル川西岸の砂は、ナイル川によって削られ、ナイル川は西へ西へとリビア砂漠に逃げて、ナイル川河口デルタが維持できない。 

そこで古代エジプト人は、巨大な「日本でいう『からみ』」を建設することにした。 日本での『からみ』『からみ工法』とは、長い堤防は、建設が難しいので、杭を打ちこんで、その杭に、木の蔓や枝、竹をからみつける。この『からみ』に堆積土が盛り上がってきて、これを突き固めて堤防になる。 

エジプトでは;ピラミッドを適当な間隔で建設する。 毎年、ナイル川の洪水は、上流から土砂を運んでくる。 洪水はピラミッド周辺で澱む。 ナイル川の土砂は沈降し堆積する。

ここで残った謎は; キザの3基の巨大で、大理石を貼り付け、輝く大ピラミッドは、ギザの大地に、なぜ建設されたか。

  • 河口に近い高台の上になければならなかった。
  • 可能な限り高くしなければならなかった。
  • 光の反射のために正四角錐でなければならなかった。
  • 光を反射させるため鏡のような大理石を張る必要があった。

それでも、次の二葉の写真を見ますと、『高津道昭氏「テトラポットによる堤防構築説」』と、『高村公太郎氏の「ピラミッドのからみ工法による霞堤防構築説」』のどちらももう少し調べてみようと思っています。 

ギザのピラミッド群の石灰岩台地の海抜は、ナイル川を挟んで、ギザ高台の対面、東側のカイロ市の海抜は15-60m。対して、西側のギザのピラミッド群は、海抜49-63mのギザ台地に立地です。 ナイル川の10mぐらいの増水には関係なさそうです。

ウキペデイア情報から引用(上空から見た三大ピラミッド) 

約230万個のサイズ不揃いのキューブ石材を、高さ(当時)147ⅿも、面の角度52度に積み上げています。 堤防には勿体ないような気がします。

ウエブ情報から引用(上空から見た大ピラミッド)

大ピラミッドは調べれば調べるほど謎が深まります。

(記事投稿日:2022/07/24、#556)

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『英国の「テムズ・バリア」温暖化の海面上昇と高潮(逆流)に備え!』『海面が仮に毎年 8mm上昇したとしても2030 年までは高潮に耐えられる設計』

2022-07-19 08:32:25 | 地球・火山・地震・津波

『英国の「テムズ・バリア」温暖化の海面上昇と高潮(逆流)に備え!』

『海面が仮に毎年 8mm上昇したとしても2030 年までは高潮に耐えられる設計』
 

 テムズ川の河床勾配;0.03%(長さ346㎞、水源の標高110ⅿ)はかなり緩いが、潮汐差はテムズ川河口のデータはありませんが、ドーバー海峡の潮汐幅は大きく、小潮時は3-4ⅿ、大潮時は6-7ⅿと言われますので、テムズ川河口の潮汐差もほぼ同様又は、少し小さいと思われます。 この防潮堤は、高潮(逆流)・津波を、がっちりブロックするのではなく『テムズ・バリア』は越流堤又は越流ダムとして機能する。 日本の防潮堤や防波堤は、波の来る側が凹型にへ込んでおり、越流し難くなっているので、高潮や津波の圧力をもろに受けるように見えます。 『テムズ・バリア』は機械室タワーまでが越流し易い形状をしている。 何事も『処変われば品変わる』ようです。


Thames Barrier – Wikipediaより引用

デザインと建設 
 回転ゲートの構想は チャールズ・ドレイパー  により考案された。 1950 年代に、ロンドンで 動作するモデルを建造した。 斬新な回転するシリンダーは家庭の小さな器具に基づくもので、バリアは、 油圧研究所でテストされた。  設置場所として ニュー・チャールトンの場所が選ばれたのは、 堤防が比較的まっすぐで、川の下にある石灰層が十分に強固でバリアを支えることができたからである。 工事は 1974 年に開始し、1982 年にはほぼ完成した。  バリアのゲートは ティーズ川にあるデンツ波止場のクリーブランド橋梁会社により製造された。 
 
 バリアに付け加え、 下流の 11 マイルの氾濫防御 (の堤防など) が高くされ、強化された。 バリアの公的な開通式は 1984 年の 5 月 8 日にエリザベス女王 2 世が挙行した。 全建設費はおよそ £5.34 億 (2001 年の価格では £13 億) で、 川の防御のために追加の £1 億が必要であった。 

 イギリスでは、2012 年から適応プログラムを始動し、洪水リスク管理、水資源、淡水生態系などを優先分野として適応策に取り組んでいます。 テムズ川河口の施設改良では、海面水位よりも低い土地を守るため、延長18㎞にも及ぶテムズ防潮堤を設置しました。 年10回程度の高潮に際しても、ゲートを閉じて浸水被害を防いでいます。 テムズ川流域にある水門「テムズ・バリア」は、海面が仮に毎年 8mmずつ上昇したとしても、2030 年までは高潮に耐えられる設計になっています。
 
 以前に、日本でも『100ⅿ堤防(越水型堤防)』を『事業仕分け(行政刷新会議)』で取り上げられた記憶があるが、定量的な質問(堤防決壊減少の確率と、その投資対効果など)にと絶句している行政側に、驚きました記憶がありました。 この『事業仕分け(行政刷新会議)』を当時、『政治の文化大革命』と発言した方がいたようですが!

 テムズ・バリアはロンドン中央部の下流にある。 1982 年以来操業され、 (バリアの) 目的としたことは例外的な高潮や、 北海から押し上げる嵐の高潮が氾濫することを防止するためであった。  但し、氾濫原のうち大ロンドンの最も東の特別区は除外された。 必要とあれば、(バリアは) 高潮の時に閉鎖され (持ち上がられ)、 潮が低くなれば、開放されて海への流れが回復する。  これはドッグズ島の東、およそ 3 km の地点に建設され、 北の堤防はロンドン特別区ニューハム のシルバータウンに属し、 南の堤防はグリニッジ王立区のニュー・チャールトン地域に属している。  テムズ川の河口の一部とロンドンの一部に影響を与えた 1953 年の北海氾濫に関しての、 サー・ハーマン・ボンダイ の報告書がバリア建設の助けになった。

 今の日本、では多方面に、山積みの課題・懸案を将来に『負の遺産』を先送りしていますが、この『テムズ・バリア』のような見応えと、夢のある遺産にしてもらいたいものです。

(記事投稿日:2020/06/22、最終更新日:2022/07/19、#186)   

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