ここが公開されたのは最近の1987年からで、それまではほとんどの部分が数メートルに及ぶ泥に埋まっており、数年間の修復が終わりやっと公開されるようになりました。 イスタンブールではこの他にも、いくつもの地下貯水池がありますが、地下宮殿(イェレバタン)が現存する東ローマ帝国の貯水池として最大の物です。
『世界の城郭・宮殿 030(ニュルンベルグ城、深さ50ⅿの井戸』
『カイザーブルク(皇帝の城)と、ブルクグラーフェンブルク(城伯の城)』
ニュルンベルグ城(海抜309ⅿ、標高差100ⅿの山城)
12世紀には何度か包囲されて城壁を破壊されていますが落城はしていません。
ウエブ情報から引用
ウキペデイア情報から引用
ドイツバイエルン州ニュルンベルグ市のランドマークで、カイザーブルク(皇帝の城/左)と、ブルクグラーフェンブルク(城伯の城/右)の2つの城からなる。
城伯;フランク王国崩壊後の神聖ローマ帝国において、城塞 の司令官を意味する城伯は有名無実の公職になり、称号のみが帝国の封建諸侯によって世襲され、王室に準ずる地位を表した。
ニュルンベルク城は、皇帝たちが一時的に滞在していた帝国城砦の一つにすぎません。 しかし、帝国や連邦の首都がなかった時代、毎年のように皇帝が訪れ、大きな意味を持つ政治的決定の場として、また、選挙で選ばれた国王が最初の帝国議会を招集する場でもありました。
中世後期のドイツ国王選挙後の最初の帝国議会はニュルンベルク城で開かれる事になっていた上に、 皇帝が即位するために必要なレガリア(日本の皇室でいうところの三種の神器みたいなもの)が、ニュルンベルク城に保管されていました。
とはいえ、ドイツ国王の力は中央集権の進んだイギリスやフランスに比べるととても弱く、その辺の諸侯とたいして変わらないのですが、それでもやはり地位は神聖ローマ皇帝。
馬上槍試合用の武器や甲冑は、ほとんどがニュルンベルク製です。 ニュルンベルクには鍛冶屋の職人組合があり、甲冑を生産していました。 ニュルンベルクは甲冑生産で有名な都市。
ジンヴェル塔
13世紀後半に建てられたもので、大空位時代が終わってから(1273年)大規模に改築されました。 この地域では珍しい、平面が円形の塔です。 丁寧に加工された背丸角石で全体が構成されています。 ベルクフリートらしく、居住機能は全くありません。
ベルクフリート;日本では『天守』とか『主塔』とか訳されている。 城の中には、複数のベルクフリートがあるものもあります。 ドイツの城の重要な基本構成要素の一つとなっており、城のシルエットを決める要素です。
井戸小屋
井戸小屋が文献に登場するのは14世紀になってからのことですが、井戸そのものはそれ以前から存在していたことは明らかです。 城に必ずしも井戸があるとは限らないけど、水源のない城というのは考えられない。
井戸は、50m以上あり、最上部数mのフレームだけが砂岩角石で固められており、水位のすぐ上に、清掃作業用のニッチ(棚)があります。
ニュルンベルグ城の井戸(深さ50ⅿ)
ウエブ情報から引用
ここで余談、日本にもありました山城の深い井戸。
- 京都府の福知山城天守の入口前に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸、深さ50ⅿ。
②愛媛県松山城本丸の台地にあるのが本丸井戸、深さ44ⅿ。 本丸の台地はもともと南北に長かったわけではなく、実は南峰、北峰の峰があり、その谷間・鞍部を埋めて細長い台地にしたもの。 元の谷間・鞍部にあった泉を井戸にしたのでこの深さになったと言われています。
山城には『水・井戸』が、洋の東西を問わず肝要なようです。 山城の井戸は興味は尽きません。
(記事投稿日:2023/04/27、#652)
『日本の城郭 014(62年ぶりの松江城は、記憶より大きく・堅城)』
『輪郭連郭複合式の平山城の天守閣は高さ22.4ⅿ日本史上14位』
『標高29mの亀田山に建つ天守閣から宍道湖を、城主のための最上階の造り』
松江城の、昔の印象・記憶は小ぶりで、『江戸城の三層の富士見櫓』くらいと思っていました。 今回は見直しました。
先ずは天守閣のこと、
江戸城の富士見櫓は『八方正面の櫓』と言われ天守閣の代わりに使われたほどのものでした。 明暦大火で寛永天主閣消失後、再建を断念(江戸城天守再建を後回しに、江戸町民の生活を優先させたのは、江戸時代の初めの稀代の名君は保科正之、家康の孫)し、一時期は天守閣代わりの江戸城の象徴でした。 ごく最近のこと、大失敗の『ハコモノ』濫造時代がありました隔世の感があります。
天主閣に居住した織田信長の安土城の天主閣は特別で、標高199ⅿの急峻な独立峰に5層7階の、後の大阪城より『超巨大な山城』でした。 一般的には、城の天守閣は『武器庫・塩蔵・食糧庫』等、貯蔵に使われました。
西洋の城のキープ(英語: Keep)またはドンジョン(フランス語: Donjon)は、中世ヨーロッパの城で中心となる建造物のことです。 日本語では日本の城の天守との性質の類似性から天守と訳される。 日本の城と同様に『武器庫・塩蔵・食糧庫等』等、貯蔵に使われました。
『現存天守閣』の大きさ比較
ウエブ情報から引用
『日本歴代天守閣』の高さ比較
1位 寛永度 江戸城 44.8m
2位 徳川大阪城 44m
3位 名古屋城 36.1m
4位 駿府城 33.5m
5位 安土城 32.5m
6位 姫路城 31.5m
7位 豊臣大阪城、福山城、名護屋城 30m
8位 大垣城 28m
9位 高松城 26.5m
10位 広島城、丹波亀山城 26m
11位 松本城、島原城、今治城 25m
12位 岡山城 24m
13位 津山城、小倉城 23m
14位 松江城 22.4m
15位 岩国城、水戸城 22m
『歴代巨大天守閣』の大きさ比較(安土城は唯一山城、他は平城・平山城)
(徳川家光の三代目寛永江戸城の天守閣が群を抜く、四代目は再建できず)
ウエブ情報から引用
標高20ⅿ 標高30ⅿ 標高46ⅿ 標高199ⅿ 標高60ⅿ
冒頭から余談でした。
標題『日本の城郭 62年ぶりの松江城は、記憶より大きく・堅城)』に戻ります。
松江城の総構えの縄張り(機会を見つけて外堀探索をしたい!)
ウエブ情報から引用
先ずは松江城の特徴です。
松江城天守閣の特徴は、外観は4重、内部は5階地下1階付きの構造。 高さは、石垣を含め約30m、天守のみが約22mになります。 現存する12天守の中で姫路城、松本城に次いで3番目の高さ、天守の総床面積は姫路城に次いで2番目の大きさです。 松江城は美しい外観だけでなく、攻守に優れた構造をもち、戦に備えた工夫が随所に凝らしてあるのも特徴の一つです
松江城天守の階段は1階から6階までの全て急階段はよく知られています。 傘寿と喜寿の老夫婦には本当にきつかったです。 最上階に上る階段は桐造りで、イザってときには、取り外して最上階に引き上げ、城主が落ち着いて最後を迎えるためと、62年前に説明を聞いて、以来『城マニア』になりました。
美しい松が多い松江ですので、その名前の由来を、すぐに比較したのが関東湘南の『江ノ島』の由来『絵のように美しい島』でした。 江ノ島の場合も、数ある説の中でこれが一番もっともらしいと納得しました。
松江の名前の由来ですが、『その風景が、中国大陸の杭州の西湖のほとりにある「淞江」(ずんごう)に似ている』という説とか、いろいろありますが『形の良い松が沢山生えていて、絵のように美しい』が、最も相応しいと、この度の旅で思いました。
インスタ映えする『雪の松江城』を期待しましたが、先日10日、東京は雪でも、松江は曇り時々晴れでした。 松江城の大手門は石垣のみが残るが巨大な枡形を形成しており、江戸城や大阪城に匹敵する規模。 壁面は初重・二重目は黒塗の下見板張り、三・四重目と附櫓は上部を白漆喰塗、その下を黒塗下見板張りとする。 南北の出窓部分の壁も白漆喰塗。
大手門跡
南櫓・多門櫓・天守閣(後方)
天守閣
1638年(寛永15年)譜代大名、信濃国松本藩より松平直政が出雲18万6千石で入封、西国の外様の抑えの最前線になった松江城です。
(記事投稿日:2023/02/17 #627)
『世界の城郭・宮殿 029(カステル・デル・モンテ イタリア)』
『銃の発達は稜郭・星型要塞を造ったが、それとは無縁の城郭』
『軍事上でも、居城でもなく、別荘または客をもてなすために使用』
カステル・デル・モンテ(Castel del Monte)、「カステル」が城、「モンテ」が山で「山の城」を意味する、イタリアの南部郊外にある中世の城。 13世紀にローマ皇帝フリードり2世によって建築された。 八角形を象徴的に取り入れた設計になっており、世界遺産(文化遺産)に登録されている。
カステル・デル・モンテ外観
ウキペデイア情報から引用
カステル・デル・モンテ城の平面図
ウキペデイア情報から引用
丘の上にぽつんと立つ美しい城で、フリードリヒ2世の数学へ造詣を表す黄金比を用いた八角形を象徴的に取り入れており、全体が八角形の平面で構成され、中央に八角形の中庭を内包し、8つのコーナーにはそれぞれ八角形の小塔がそびえる。 小塔の中心にはそれぞれ螺旋階段がある。
稜郭・星形要塞は火砲の発達に対応するため『15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式』で、イタリア式築城術とも言われますが、この『カステル・デル・モンテ』は、戦いとは無縁の『おもてなし』の城ですが、後の『銃の発達は星形要塞を造り、大砲の発達が星形要塞を終焉に』といわれる戦いの城『星形要塞』を造らせたと思うと皮肉な因果関係です。
人間ってのは、不思議なものです。
(記事投稿日:2022/11/14、#600)